ときめきに帰す「起きろ。さもなくば無理矢理どかす」
頭上から浴びせられる物騒な目覚まし音に、エリジウムは渋々まぶたを開く。早朝、曇り空、やや肌寒い。それもそうだ。ベッドの傍らに立つ男――ソーンズはいつも通りの服装に着替えているが、自分は半裸だ。
――同郷の友人、同僚である男と、寝てしまった。その翌日、その張本人に起こされた場合、なんという言葉をかけるべきか。
数秒考え、おはようあんまりいい天気じゃないね、こんな日の朝は濃い目のあたたかなコーヒーから始めたいな、僕が作るからどうだい君も一杯……といつもの調子で捲し立てようとしたエリジウムのあいさつは「紛失したピアスを探させろ」という一声に遮られた。
その言葉に、エリジウムはソーンズの耳を見やる。いつも複数の金属で飾られていた筈のそこは、確かに今、丸裸だ。
昨夜あの時間、この男はピアスをしていただろうか。好きにしていい、と身を委ねてくれた獲物を貪ることに夢中で、ピアスのことなんてまるで覚えていない。最中のソーンズの顔を思い出す。ひそめられた眉。掠れた声と息をこぼす、ちいさな唇。赤いふちに涙をにじませたアンバーの瞳。淫らだったそれらを、今、目の前にある仏頂面と上手く重ねられない。
体を起こしたままぼうっとしているエリジウムを他所に、ソーンズは枕を好き勝手にひっくり返す。シーツの裾を持ち上げるのと同時に、床にイヤーカフがころりと転がり落ちた。つまみ上げ、テーブルの上に置く。並べられた金銀黒の飾りたちが、つるりとした天板に反射している。
そしてソーンズはポケットを探りだしたかと思うと、長めの針と、かなり使われた形跡のある薬のチューブと、小さなコルクを取り出した。
斜めに切られた鋭い針先を見ながら、エリジウムは瞬きをする。
「……え、なになに? それ、どう見ても針だけど。まさか、朝っぱらから耳かどっかの穴を増やすつもり?」
「俺の身体の再生能力が高いことは知っているだろう。ピアスホール程度の大きさの穴など、数分で塞がる。今からこれで穴を開け直す」
ほぇ……、とエリジウムから困惑と呆れの中間のような息が漏れる。なによりも効率を重んじる彼が、そんな面倒なことをしてまでお洒落をしていたなんて。よほど大事なピアスなのだろうか。ていうか耳よりも先に、爆発した後のアフロヘアーとか、服の捲れとか、もっと気にするべき場所があるでしょ。
そう笑い飛ばそうとしたのに、エリジウムは、こんなふとしたことから、なぜだか、ソーンズのことなど何も知らないのだと思い知らされたような気持ちになった。ソーンズだって、エリジウムのことを知らない。昨夜見て感じたものは、すべてラテックス越しの一夜のまぼろしだ。エリジウム自身がそうあることを望んでいたはずなのに。
ソーンズが慣れた手つきでこめかみ付近の髪を持ち上げる。むきだしになった丸みを帯びた頬と、はだかの耳は、いつも以上にソーンズの顔を幼く見せた。
軽く消毒を終えた後、軟膏が塗られ、すぐに耳たぶに突き立てられるかと思われた針は――何故かエリジウムに手渡される。
「開けてみるか?」
何を?とは、聞かずとも理解した。
どうして?という言葉の代わりに、エリジウムは、渡された針を受け取る。開けてみたいと思ったのだ。この手で。昨夜のように。
「コルクは針の押さえに使う。刺し終わったらこのピアスを当てて、針と一緒に貫通させてくれ」
耳たぶでさえあれば開ける場所の細かい位置のこだわりはないらしい。すべてを任されたエリジウムは恐る恐る、ソーンズの耳に指を這わせる。かたちのいい耳だ。耳たぶのわずかに窪んだ箇所を撫でられ、ソーンズは目を細める。
「……それじゃあ、開けるよ」
ソーンズの控えめなうなずきを確認した後、エリジウムは、彼の耳にそおっと、針の先端をあてた。耳たぶを抑え、思い切って力を入れると、ぷつ、と嫌な感触がする。息を呑む。ソーンズは身動ぎすらしない。
エリジウムが力を込めた分だけ、ずぶずぶと、ぬめりを帯びる尖ったものが、ソーンズの肌のなかへ通っていく。顔が、不思議と熱くなる。
耳の向こう側に貫通した針が、コルクに刺さる感触があった。針の末端にピアスを当て、穴へ通す。
裏側から突き出たピアスの針をキャッチで止めた時、エリジウムはようやく呼吸を許されたような気持ちになった。
部屋の壁に備え付けられた鏡を見て、ソーンズは「問題ない」と呟いた。どうやら満足してもらえたらしい。
「礼にいい事を教えてやろう」
残りの金属で耳の輪郭を飾りながら、ソーンズはそうこぼした。エリジウムが反応したことを確認し、鏡越しの男は再び目を細める。先ほどエリジウムに耳を触れられた時とは違う、意図して細められたものだ。
いつも通りの耳となったソーンズが、くちびるを薄く吊り上げながら、エリジウムの耳のそばへと近付く。吐息と共に、言葉が流し込まれる。
「――当たり前だが、普段は自分でピアスホールを開ける。他人に任せたのは、お前が初めてだ」
ソーンズに気づかれないことを祈りながら、エリジウムはごくりと唾を飲み込んだ。
「……それの何がいいことなの?」
「過去に男との経験があると俺が告げた時、お前は不服そうだった」
「別に……なんとも思っていないよ。そりゃまぁ、君のイメージからすると、多少意外には思ったけど」
「俺の目には、お前は明らかに落胆しているように見えたが」
柄にもなく、舌打ちでもしたいような気持ちだ。一夜を過ごすだけの相手の過去の経験になんてこだわりなんてない。ソーンズだって、きっとそうだろう。けれどソーンズは、初めての男になる権利をエリジウムにやった。それをわざわざ告げることの意味は。それを聞いてざわめいている自分の心は。
朝日に照らされている、今のこの感情は、まぼろしではない。
いつのまにか、曇っていたはずの空は明るくなっていた。窓を背にしながら、ソーンズはわずかに微笑む。雲間から差し込む光が透け、耳が赤みがかっていた。その耳に今すぐ噛みついてやりたい衝動を見透かしたかのように、エリジウムの飾った金属が、鈍く光る。