ハイキングフルコース 階段を登り終えた司書補は、そこに広がる光景に思わず「おぉ…」と声を漏らした。柔らかな光に包まれた、辺り一面に広がる紅葉の木は鮮やかな赤と黄金に染まり、いくつかの葉はひらひらと舞っている。そしてその明るい光の中で、ひと際目立つ黒い存在がこちらを見ていた。司書補はその人物にニコッと笑いかけた後、小走りで近づいて話しかける。
「ローランさん、紅葉もすっごい綺麗ですね」
「うん。やっぱり山で見る紅葉っていいよな~」
そう言いながら、ローランは辺りをきょろきょろと見渡していた。司書補も一緒になって見渡しながら、ローランに聞く。
「ローランさんはこの山で見た植物の中で、今の所何が一番ですか?」
「うーん…。さっきの紫陽花も良かったし、麓の桜も良かったから決められないなあ…」
「確かにそうですね。桜と紫陽花が見られる時点でなんとなくどういう山か気づいてましたけど、まさか紅葉まで見られるなんて…」
季節の違う植物が同時に見られるのは、ここが本の世界だからなのだろう。元になった本は四季のある地域の山を紹介していて、それも一つ一つの季節の様子をしっかりと記述していた。本から空間を再現する際に、おそらくその記述が混ぜこぜになってしまったのだろう。
司書補は、同じ階の別の司書補にも、この不思議な山を体験して欲しくなった。しかし、司書補が本の中で登山をしてみたいと提案した時、ローラン以外は誰も賛成してくれなかったのだった。その時は全員それっぽい理由を述べてはいたが、今思えば気を使ってくれていたのかもしれない、と司書補は思った。おかげで、尊敬するローランと二人でゆっくり出来ている。思い返すたび、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになる。
二人が穏やかな光の中をしばらく歩いていると、道端にぽつんとベンチがあるのが見えた。かつて修行に使われていた山だからか、整備された道も、こんな気の利いた休憩スペースもあるのだろう。二人とも体力にまだ余裕はあるので、休む必要はない。しかし、こんな美しい景色の中に佇むベンチなのだ。せっかくなので二人は、少しだけ休憩していくことにしたのだった。
「君にいいものをあげようと思うんだ」
ベンチの隣に座ったローランが突然そう言って、司書補は「えっ!?」と声を上げた。慌ててローランのほうを見ると、ローランは手袋の空間から何か箱を取り出した。
「お、ちゃんと持ち込めて良かった。これ、お弁当だよ」
「お弁当!」
ローランはその箱の蓋をゆっくり持ち上げた。そこにはラップに包まれた、漬物の混ざった丸いおにぎりが四つと、飴色のタレがかかった鶏肉、小分けのカップに入った色どりのいい野菜炒めが綺麗に詰められていた。司書補はローランが作ってくれる食事を何度か食べたことがあるが、どれも素晴らしい味だった。こんな綺麗な場所でローランの手料理を食べることが出来るなんて、贅沢しすぎでは無いだろうか。罰が当たりそうだと思いながら、司書補はローランに聞く。
「い、いいんですか…? 俺なんかが…」
「食べるために持ってきたんだから遠慮するなよ…」
「じゃあ、おにぎりだけ…」
「おにぎり以外も食べていいから!」
司書補は恐る恐るおにぎりを貰って、ラップをそっと外した。そして「いただきます」と言って一口かじった。その瞬間、海苔と漬物の味ともちもちの白米がバランスよく口の中に広がって、思わず微笑んでしまう。
いつだったか、ローランが作った夜食のチャーハンを分けてもらった時がある。司書補はその時の事を思い出して、ローランの作るごはん物には外れがないなと確信をした。
その後、司書補は罰が当たらないだろうか、そしてローランの分が無くならないだろうかと気になりながらも、鶏肉と野菜炒めも平らげた。ローランも満足そうにしていて、もしかするとこの人は誰かに食事を振る舞うのが好きなのかもしれない、と司書補は気づいた。
本の世界に来る前に、二人はここに滞在できる制限時間を決めていた。もしトラブルが起きても、この時間が来れば図書館に残っている司書補たちが二人を本から取り出してくれることになっている。その時間にはまだまだ余裕がありそうなので、二人は山をどんどん登ってみることにした。
次第に、あれだけ広がっていた秋の盛りの光景も失われ、辺りには物寂しさが目立つようになってきた。地面に薄く積もっている雪と空の白さが出迎え、しばらく進むといつの間にか巻き込まれていた吹雪に、いつもの服で来てしまった事を二人は少し後悔した。
「ローランさん、これっ! 前が見えなくないですか!?」
「俺も見えない! 君の声も聞こえづらいよ!」
二人は激しい風の音の中で、叫ぶような声で意志疎通をする。ふいにローランが司書補の腕を掴む。離れないようにしてくれてるのだろう。まっすぐ歩くのさえ難しくなって、積もり始めた雪に脚を取られそうになる。
「引き返します!?」
「いや、引き返すのもあぶないと思う。確か本の写真には…山小屋があったはずだから……」
「分かりました! 進んでみましょう!」
本の要素が具現化しているならきっと山小屋もあるはずだと、二人は願いながらよろよろと歩く。
司書補もそしてローランも、山に詳しいわけではなかった。都市の色々な場所を観光として訪れられるのは、一部の人間だけなのだ。
本を眺めていた頃は青空の下に広がる大自然の写真ばかりが印象に残ったが、確かにあの本には冬の光景や説明文もしっかりと書いてあった。こうなるのは必然なのだが、予想できなかったのが悔しい。
とはいえ、ずっと図書館にいる司書補はこんな状況でもだんだん面白いと感じてくるのだった。進む度柔らかく音を立てる雪も、強い風の音も、冷たい風もリアルで堪能しがいがある。それに黒く目立っているローランは、いつもよりさらに頼もしく見えた。
「あれって山小屋じゃないか?」
突然ローランが声をあげる。司書補が前をじっと見つめると、遠くに何か黒いものが見えている。
「ほんとだ…! よかった……」
「俺たちよく頑張ったな…!」
お互いを讃えながら、二人はその山小屋へ向かった。
壁面に石が敷き詰められて丈夫そうな小屋が現れ、ローランと共に扉へと歩いていく。ローランがその扉を引っ張ると、難なく開けることが出来た。安心のあまり顔を見合わせてから、二人はそこに踏み入れた。
「助かったー!」
「小屋が本当にあってよかったよ…」
狭い小屋の中には、テーブルとベッドと何も置いていない棚があった。壁には地図のようなものも掛かっているが、本当にこの世界の山を表しているのかは分からない。冷たい風が無いだけでかなり負担が減るが、それでもまだ寒く感じられる。ローランは小屋の中をきょろきょろと見渡していたが、特に役立つものは見当たらないようで、気怠そうにベッドに腰掛けた。
「あ~…久しぶりに座った気がする……」
「結構歩きましたもんね」
司書補もテーブルに添えてある椅子に腰かけて、ふうっと息を吐いた。部屋の中でも、息は白くなっていた。それを見てローランが言う。
「あのさ…。君が気にしなかったらお願いがあるんだけど…」
「はい、なんですか?」
「一緒に寝ない?」
「えっ、ええっ!? 一緒に…一緒に寝る!?」
座ったばかりの司書補は、驚きのあまり再び立ち上がってしまった。ローランは困った顔をしている。
「俺の言い方が悪かったな? 変な意味じゃなくて、遭難した時とかって体温を維持しないといけないから、なるべくみんなで固まってた方がいいんだよ」
「確かにそうですね…。でもローランさんは嫌じゃないんですか……」
「うーん…。君が凍えて動けなくなるよりはずっといいな!」
「分かりました…」
司書補はゆっくりとベッドに歩いていくも、小屋が狭いせいですぐにローランの元へたどり着いてしまう。ローランはベッドの上に敷かれた毛布を持ち上げて、そこに入っていく。
「くっつかなくてもいいから、毛布の中に入っていれば温かいはずだよ」
「はい…」
司書補もベッドに登って、毛布の中に恐る恐る入っていく。日頃尊敬しているローランと同じベッドで寝ることがあるなんて。仰向けに天井を見ているローランの横で、司書補は背を向けて横たわった。二人とも毛布の中に入ったばかりだが、確かに寒さは紛らわせるような気がする。
「ちょっと疲れたから天気が良くなるまで仮眠をとろうと思うんだけど、嫌になったらベッドから降りていいからね」
「そんなそんな、嫌とかないですよ。なんだか申し訳ないだけで……」
「君はいつも謙虚だなぁ」
そう言ってローランは黙ってしまった。このまま眠るのだろう。司書補も緊張しながら、目を瞑ってみた。室内の、それも頼れるローランの隣にいるからだろうか。壁越しの風の音が、その激しさよりも自然の力を感じられて心地良く聞こえてくる。ここはこの雪山の中で、一番安全な場所なのかもしれない。
緊張から穏やかな気持ちに移っていった司書補も、いつの間にか眠くなってきて、そのまどろみに身を委ねることにした。
そして、起きる頃には天気が良くなっているといいな、と思いながら眠りについた。
「起きて! 寝過ぎた!」
「え?」
ローランのその声で司書補は目を覚ます。ぼんやりと上半身を起こすと、ローランは小屋の入り口に立っていた。
「太陽が沈みかけてるし……、もしかしたら頂上まで行けないかもしれない」
「制限時間が近いんですね」
「沈む頃くらいがリミットだろうな。でも天気は良くなったから急げば間に合うよ」
「急げば……。うーん、無理しなくても大丈夫ですよ、ローランさん。俺はたぶん足手まといになるんで…」
そして司書補はベッドから降りて、ローランのほうを見た。すると、ローランは複雑そうな顔をしている。司書補は不思議に思いながらも、ローランに話しかける。
「あ、頂上行きたいですか? 俺のことは置いて行っても…」
「いや、そうじゃなくて…。俺自身は別に、そんな頂上に行きたいってわけじゃないんだけど…。君の実力だと間に合いそうだからもったいないな…って思って」
「もったいない?」
「そーそー。俺を尊敬してくれてるのはいいんだけど、気を使いすぎだな~って思ったんだよ」
そう言いながら、ローランが近づいてくる。そして、司書補の腕を握って、それから引っ張って、バランスを崩した体を一瞬でくぐって担ぎ上げた。
「うわっ!?」
「だから連れて行ってみようかな、って思うんだ」
「待ってください! えっ、連れて行くって!?」
ローランは司書補を担いだまま扉を足で開け、冬の山へと飛び出した。そしてそれから早歩きで歩き始めた。
担がれたまま司書補が周りを見渡すと、吹雪は止んでいて、積雪も想像よりひどくは無かった。太陽が眩しく、道端の新雪がキラキラと光って見える。
「お、降ります。自分で歩きます!」
「その気になった?」
「はい、結構道も歩きやすそうなので……」
そう言うと、ローランは司書補の体を丁寧に持ち上げ、地面に下ろしてくれた。司書補はすぐ服を整えて、それからローランと一緒に歩き出した。
ローランに気を遣わせてしまった、と司書補は考えた。しかし、この気を使われる申し訳なさをローランも感じているのだろう。
「確かに、せっかくだからもうちょっと歩いてみたほうがいいですよね」
「うんうん。それに…」
「それに?」
「都市だと謙虚すぎる奴は結構早くくたばるんだよ。そしていつも、俺はそれを見るだけだったから……」
そう言ってローランは黙ってしまった。
――いつも見るだけだったから、今回は助けてあげられると思った。きっとそう言いたいのだろう。司書補は都市で生きてきたローランの苦労を思った。
そして、自分はそんなローランに助けられているだけではなく、本当はどこかでローランの気持ちを助けているのかもしれない。と少し前向きに考えてみることにしたのだった。
そんなやりとりをしたが、吹雪のやんだ山は想像以上に歩きやすく、日が暮れる前に二人は頂上へと無事に辿り着けた。急に開けた場所に着いたと思ったが、そこには小屋と、石碑のようなものが建っていたのだった。ここは間違いなく頂上だろう。
オレンジ色の夕日が雪に反射して、辺りは黄金に包まれている。
「結構…、楽に着けたね」
「はい」
「諦めなくて良かったよな?」
「はい。ありがとうございます、ローランさん」
「よし、じゃあ……」
ローランがそう言うと、また司書補の腕を引っ張り、担ぎ上げる。
「今度は何ですか!?」
司書補がそう聞くと、ローランは司書補を担いだままジャンプをして、近くの小屋の屋根へと着地をした。ローランはそこですぐに司書補を下ろしてくれた。それからローランは司書補の肩を叩いてから、遠くを指さした。
「本には都市の情報が載っていなかったから、この世界だと地平線までずーっと森が続いているんだね」
「うわあ…、すごい……」
空にはオレンジと紫のグラデーションが広がり、ちらちらと光り始めた星が空に散りばめられている。そして地には果てしなく続く森が、暮れ行く太陽の光で優しい橙色に染まっていた。ローランの黒いスーツも、夕日に照らされて光の輪郭が出来ている。
「来てよかったな」
「はい」
「それにほら、あっちには桜が見えるし、あっちは紅葉が見える。季節もちょっとずつグラデーションになってるみたいだな」
実際には無い夢のような光景と、風のささやきの中で、ローランの声もいつもより優しく聞こえてくるようだった。ローランを穏やかな気持ちに出来てよかった、と司書補は光の中で微笑む。そしてローランもその優しい声で、「ちょっと欲張ってみてよかった」と小さく呟いていた。