紫劉-2「……まさか、劉備殿の手当てをすることになるとは……」
元化は劉備の足の包帯を取り替えながら、大きな溜息を吐いた。
傷口は綺麗だった。骨も筋肉も損なうことなく、ただ足の腱だけが断たれている。
「これなら、安静にしていればまた再び走ることも可能となるかと思います。ですが、筋が正しく修復される前に無理をすれば歩行すら困難になります」
「つまり?」
「絶対安静。走る、歩くはもちろんのこと、立ち座りの動作も禁止です。必要があれば人に使いを頼むしかありません」
「そうか……」
劉備は、ふぅ……と息を吐き出しながら天井を仰いだ。身体の調子を確かめるようにそろりと左脚を持ち上げてみる。動かすと僅かながら熱を持って鈍い痛みが走るが、固定されているためか耐え難いほどのものではない。
「元化殿、一つ聞いても良いだろうか」
「ええ。俺に答えられることでしたら」
「……無名は、何故俺を連れて来たのか」
その問いに元化は難しい顔をして眉根を寄せる。
「それは……すみません。俺にも分からないです。ただ、貴方の命を奪うつもりはないということだけ。この刺傷を見るに行動の制限以上の目的はない。……曹操殿にどのような任務を与えられてるのかは分かりませんが、生きている必要があるということでしょう」
「そうか……」
劉備が目を覚ました時、既に戦場を脱して数日が経っていた。
その間幾度か熱に魘されたように思うが、今は足の痛みのみで他は特に異常もない。
そうなると次に気になるのは味方の状況だった。
戦としては負けてはいないはずだった。ほぼ勝敗が決まっている中で、無名が――紫鸞が現れ、劉備を連れ去った。
大将を失った自軍はどうしただろうか。
孫権軍のもとに身を寄せることができていればいい。諸葛亮がきっと指揮してくれているだろうが、早く自身の状況を伝えてやらなければ、余計な犠牲を生みかねない。
「劉備」
声がして視線を向ければ、紫鸞がいつの間にか部屋の前に立っていた。その表情は以前共に戦っていたときと何ら変わりなく見え、劉備の腱を無表情に断った男と同一人物だとは信じがたい。
「無名……」
「具合はどうだ。熱は引いたか」
紫鸞が近づき劉備の頬に手を添える。あまりの自然さに固まっていれば、紫鸞はすぐに顔を逸らした。
「確かに熱はなさそうだ。良かった。痛みは?」
「……動かすと痛むが、支障はない」
「そうか」
紫鸞の反応に首を傾げる劉備をよそに、「元化、診察はどうだった」と問う。まるで普段と変わらない穏やかな雰囲気を纏っている。劉備は目の前の男の心情を測りかねていた。
「傷が膿んだりはしていません。安静にしていれば元に戻るでしょう。……紫鸞殿、俺は医者としてのことしかできませんからね。正直、政治的なことは手に余ります。あとは宜しく頼みますよ」
「ああ。それ以上のことは頼む気はない。ありがとう元化」
元化は何か言いたげな表情を紫鸞に向けるが、一つため息をつくと劉備を労わるように微笑みかけ、退室していった。
扉が閉まると同時に紫鸞は床に膝をついた。左手を差し出すので握れば手慣れたように腰の下に入れ、片手で抱え上げられてしまう。そのまま寝台に乗せられると紫鸞は劉備の正面に移動した。
「なぁ、無名」
「どうした」
「お前……何を考えている?」
「……」
紫鸞はそれには応えず、劉備の足を覆うように右手をかざした。先程よりも幾分か腫れが引いたそこに優しく力を込めれば、劉備は痛みを堪えるように歯噛みする。それに紫鸞は心配そうに眉を顰め、静かに話しかけた。
「劉備。痛いのは嫌だろう。もうこんな目には遭いたくないはずだ」
「……」
「もう戦は終わりだ。何も考えずゆっくり休めばいい」
まるで甘やかすような口調に劉備は困惑してしまう。しかし足が回復すれば帰るべきところがある。戻らねばならない理由があるのだ。
「……無名……お前が何をしたいのかはよくわからない。俺は未だに領地すら持たない流浪の身だ。捕虜の価値もない。従ってくれる兵はいるが、俺の身を代わりにして得られるものなど、ほとんどない。なぜ俺なんかを……」
紫鸞は言葉を遮るように劉備の手を握った。柔らかい手のひらを親指で撫でながら徐々に指を絡め合わせていく。その仕草があまりにも優しくて、劉備は胸の奥が疼くのを感じた。
「無名……?」
「お前を捕らえ、留めることは曹操の思惑と俺の望みが一致する点だ。お前の代わりに何かを得たいわけではない。ただ、こうすることが最も有益だと判断した」
「有益……?」
「お前にはここで養生してもらう。元化の治療を受け、安静に過ごせばいずれは再び歩けるようになるだろう。身の回りの世話は俺が対応する」
紫鸞は淡々と続ける。彼の声音は穏やかで落ち着いていたが、その瞳はどこか鋭い光を宿していた。
「……俺に、何を望んでいる?」
「分かっているはずだ。こちらが望んでいるものは、お前を招き入れたあの時から変わっていない」
「……」
劉備は言葉を探すように口を開きかけたが、結局は何も言わずに唇を引き結んだ。紫鸞は更に続ける。
「熱も引いたならそのうち外へ出てもらう。俺が抱えて連れ出してやる。曹操にも会わせる。そこで言いたいことは言えばいい」
言えるはずもない。下手に抵抗し、処されることは避けたい。
自走もできないような状態でこの圧倒的な敵地にいては、大人しくするしか無い。
義兄弟との誓いを果たすまで、勝手に死ぬわけにいかなかった。
諦めるつもりはないが、今は時ではない。
「……わかった」
劉備は深く息を吸い込みながら答えた。
紫鸞は満足したように微笑むと、繋いだ手を解いてゆっくりと寝台を降りる。
「食事を用意して来る」
部屋を出ていく背中に、劉備は小さくため息をついた。
――息が詰まる。
長江で曹操軍の船団を見下ろしたときに、そこに居るはずのかつての友との決別は覚悟していた。
それでも、引き倒された時の、あの無感情な藤色の目が自身を見下ろしていた。そのことに苦しさを覚えている。
死を覚悟した。躊躇いもなく振り下ろされた剣が己の腱を断った。あの時の痛みが鮮明に思い出され、劉備は紫鸞の顔をまともに見つめることができなかった。
(無名を、恐れている……)
かつて背中を預けた仲間。
胸の内を吐露できる、友。
自分の理想のために歩み続ける為、別れた相手。
過去の思い出を抱いたまま進めると思っていた。それでも、自身の心情が変化していることに気づいてしまい、胸が重くなった。
紫鸞が戻ってくると、食事を運び皿を並べていく。その後丁寧に匙で掬って劉備の口元へ持っていく。反射的に口を開けば当然のように押し込まれる。
「ん……無名、自分で食える」
「……それもそうか。すまない」
器を手渡せば素直に受け取る様子を紫鸞はじっと見る。何処か居心地は悪そうだが、腹を決めたのか、無駄に抵抗しようとするような意思は見えない。
この男は、割り切るのが早い。自身の置かれた立場をよく理解していて、無駄な消耗を避け、機会を伺う。
それがこの乱世において長らく生き残ってきた術であった。
これなら、自死の可能性はないだろう。紫鸞は内心安堵する。
「飯が終わったら沐浴だ。身なりを整える」
「む……そうか。悪いな」
「湯は沸かしておく。着替えも用意するから大人しく待っていてくれ」
劉備が頷くのを見て紫鸞は部屋を後にした。