For your eyes only 朝、チュンチュンと鳥の囀りで目が覚めるとしっかり抱き込んで眠ったはずの男が、すっかりと姿を消していた。
せっかくの休診日なのに、と
不満げにぽすぽす、とベッドを確かめると
相応にひんやりとしていて、
こりゃあ随分と寝過ごしてしまったなと、四方八方に跳ねる髪を振ってのっそりと立ち上がる。
冬眠明けのクマみてえと散々揶揄われたけれど、笑う顔が可愛かったのでつい許してしまった。あいつ三十路を超えて何年も経つのに可愛いなんて、もうこれからもずっと可愛いんじゃないか。
昔は不眠の気があったおれは、眠りが浅く、
人の気配ですぐに目が覚めていたというのに、鈍ったのか相手の気配に慣れたのか、どちらにせよあいつのせいだ。
カーテンを開けると日はすっかり高くなっていて、陽の光に些か眠りを貪りすぎた体が、
ぐうぐうと腹が減ったと訴えてくる。
さて、あいつはどこへ行ったのやら。
診療所兼住居となっている住まいは、そう広くなく、寝室の扉を開けると皿にちょこんとおにぎりと少し端の焦げた卵焼きが鎮座している。
好物に頬を緩めながら
テーブルに目を向けると
皿の下には目当ての紙切れが挟まっている。
“おはよう、寝坊助。
顔洗ったらメシ食え。
味噌汁は鍋。”
どこかから雑に破り取った簡潔なそれは、恋人からの書き置きで、蚯蚓がのたくったようだお称されるおのれの字とは違って、大体のことに大雑把なわりに妙に整った文字が、メモの中に整列している。
手先は器用なのになァと細められる鋼色の眼差しが、世界でいちばんきれいな色だと、もう何年もずっとそう思っているし、これからもずっと変わらないだろう。
大した内容ではないけれどにんまりとだらしなく頬が緩むのを感じて、
いそいそと顔を洗いに行く。
味噌汁を温めていただきます、とすっかりと習慣になったそれを口の中で転がして手を合わせた。
おにぎりにかぶりつくと、かために握られた米がほろりと崩れて、塩の味が口の中に広がって、焼いた鮭がごろりと姿を現した。
おにぎりは、どうやってもあいつの方が上手いのがいつも不思議で、やり方を教えてもらったけれど、結局謎は深まるばかりだ。
あっという間に平らげて、茶でも入れるかと皿を洗って湯を沸かす。
軽く布巾で拭いたそれらを棚に戻すとき、
カサリと湯呑みの下で紙の擦れる音がする。
なんだろうと手に取ってみると、
それは見慣れた文字だった。
“みつけたな、
寝室の引き出し、上から2段目左”
なんだこれ。
言われるがままに寝室に舞い戻ってベッドサイドの引き出しを開けるとコインのシロクマと目が合った。
“玄関、クマの置物の下"
"青 マグカップの中"
"風呂場、ひげそりのとなり"
「ふ、は」
なんとなく、相手の意図が読めてきて思わず笑いがこぼれた。
なんとまあおれの恋人は可愛らしい。
世界中に自慢したい。
シロクマのコイン、潰れてしまった万年筆の先の替え、飴玉、新しい靴下や、古い絵葉書、
おもちゃ箱を開けるみたいに、
堪えられない笑いを溢しながら、まるで宝探しのように部屋の中をひっくり返した。
あいつもよく知ってるだろうが、
宝探しはおれの、
おれたち専売特許みたいなもんだ。
隠すのはあんまり向いてないようだけど。
"まあ、茶でも飲んで休憩しろ"
すっかり冷めた茶を啜りながら、
書斎の扉を開けると初秋の少し冷たい風がふわりとローの頰を撫ぜる。
そこは、波と風の音がいつもより
随分と大きく響いている。
目の前の壁にピン留めされたそれは、開け放たれた窓の横でひらひらと揺れていて、
その奥に青い海が見えた。
"海にいる"
"誕生日、おめでとう
ロー"
それを目にするやいなや、
ローは小さくくちの中でつぶやいた。
ぶわんと、見慣れた青い膜は、
あっという間に慣れた気配を見つける。
「シャンブルズ」
「お、思ったより早かったな」
おまえ、大して戦闘もないのに、それの間合い広くなるばっかりですげえな。
見当違いのことに感心しながら、にかりと花開くような表情に心臓がぎゅう、となる。
共にいるようになってから、随分と経つというのにこれに慣れる気がしない。
おはようさん、
突然現れておのれをぎゅうぎゅうと抱きしめる男に全く動じることなく、
すこしくぐもっているけれど、のんびりとした声が胸元からやってくる。
結構釣れたぜ、
放り投げられた釣り竿の脇の、無造作に置かれたバケツには釣果兼おそらく本日のメインがぱしゃぱしゃと遊んでいた。
ぐりぐりとふわふわの頭に頬を擦り付けると、
伸びかけの髭がざり、と音を立てた。
結局若い頃から育たなかったせいで今も変わらず、滑らかな頬は、潮風に晒されて少しだけかさついている。
勢いのまま顔中に口付けを落としまくっていると、我慢のきれた男の厚い手のひらがおれのあたまを鷲掴んだ。
あたたかいそれからは、少しだけ海の音がする。
「いい加減にしろ、くすぐってえ!」
笑いを含んだ鋼色に、ふにゃふにゃにふやけたおのれの顔が映る。
顔だって、髪だって、目だって全然似てやしないのに、
そのさまは少しだけ、おれを救ったあのひとを思い出させた。
歳食って腑抜けたかもなあ。
おれもそのうちドジるかも。
いつだってゾロの前では、いちばん格好いいおれでいたいのに。
そんなおれを知ってか知らずか、
目尻に少し皺を寄せてくしゃりと柔らかく微笑んだ。
昔はなかったそれがこの世でいちばん愛おしいような気がする。
「ロー、おまえ
歳食ってもいい男だなあ」
めちゃくちゃにキスして、
あっという間に家まで帰ったあと、
釣り竿を忘れてきたのに気づいたのは、夕日がもう少しで沈む時間だった。