古兎倉海月の何でもない日「……ん」
心地よい微睡みから意識が浮上する。
2、3度身動ぎをした後、上体を起こした。
目の前には画面がついたままのノートパソコン。文章作成ソフトの白い用紙の真ん中でテキストカーソルが点滅していた。
確か、先日採集したクラゲに関して論文をまとめていたはずだった。
成り行きとはいえ独立した今、横の繋がりを一から作っていかなければならない。資金は潤沢だが、研究を続けていく上で金はいくらあっても足りなくなる。
成果を形にして積極的に世に出していかなければ、と気合を入れたはずだったのだが。
「……寝ちゃってましたぁ」
眼鏡をかけたまま机に突っ伏していたため、鼻の根元が痛い。
加えて目の奥から頭の中心までがずきりと痛む。眼精疲労からくる頭痛だとすぐにわかった。
パソコンの画面で時間を確認すると、午前7時12分。自分の決めた始業時間まで余裕があることにほっと息をつくと、固くなった体を気遣いながら立ち上がる。
向かった先は、デスクのすぐ後ろに作った小さな休憩スペース。目覚ましのコーヒーを入れるために、ケトルに水を入れスイッチを入れた。
自分のカップを出そうとして、デスクに置きっぱなしだったことを思い出す。古兎倉は緩慢な動きでデスクへ戻っていった。
「ふぁ……」
誰もいないからと思い切り欠伸をしていると、足元のコードに躓いて転けそうになる。コーヒーは必要なくなってしまった。
◇◇◇
7時48分。
シャワーを済ませ、古兎倉はデスクに戻った。書きかけの論文に目を通すと、テキストカーソルの直前には打った覚えのない文字列が並んでいる。昨夜の自分が何を書こうとしたのか思い出そうと努力してみるも、大人しくバックスペースキーを連打した。
パソコンを閉じ、休憩スペースで朝食代わりのビスケットをつまむ。
クラゲたちの水槽から聞こえる空気の音を聞きながら、向かいにぴょん吉を座らせた。
「おはようございます、ぴょん吉」
ぴょん吉は相変わらず喋らない。くたくたっとそこにいるだけだった。
環境が変わっても2人だけの朝食は変わらない。
静かで穏やかで、心地よい時間ではある。けれど。
「……2人だけだと、ちょっと寂しいですねぇ」
ビスケットの合間に、入れ直したコーヒーを啜りながら呟く。
寡黙な彼も肯定しているような気がした。
◇◇◇
「……はっ!」
かくん、と落ちる感覚で突然意識が覚醒する。
古兎倉は夢を見ていたのかと周りを見回すが、目の前にはぴょん吉が変わらず座っていた。
「……?あれ、いま俺、寝てましたぁ?」
ぴょん吉は答えない。しかしその瞳にはどこか慈しみが宿っている……ように見えた。
不思議に思いながらもスマホを見ると、8時54分。
「 あ、あわわ……!」
古兎倉は慌ててデスクへ戻ると、椅子に引っ掛けていた白衣に袖を通す。自然乾燥した髪はいつも通り跳ねたままだった。
ぴょん吉を手にはめて何度か動かしていると、玄関の方からインターホンの音が鳴った。
いつもと同じ、きっちり始業5分前に鳴るその音に、古兎倉はぴょん吉と顔を見合わせて思わず微笑む。
彼はパタパタとサンダルを鳴らしながら玄関を開け、笑顔で「お友達」を迎えた。
「おはようございます、このはさん。今日もよろしくお願いしますねぇ」