桃百合の余香父が死んだ。
病院から連絡が来て、初めて彼が病気だったことを知った。
父は昔から優しい人だった。母が出ていった後も、俺が寂しくないようにといつもフィールドワークに連れていってくれた。
ひとり留守番をさせることが避けられない日は、必ず土産を持って帰る。そんな人だった。
病気のことを黙っていたのも、心配をかけまいと思ってのことだろう。
連絡は定期的にとっていたのに、何ひとつこぼしてくれなかった。
つい先日も、久しぶりに一緒に食事でもしようというメッセージが送られてーーー、
「……あ」
薄暗い職場の廊下で、己の鈍さを呪った。
◇◇◇
通夜には生前父と交流のあった人だけを呼び、ひっそりと行うことになった。
両手で数えられる程度しか連絡が取れなかったが、声をかけた全員が参列してくれた。
「海月くんも気を落とさずにね」
昔に何度か会ったことのある、父の研究仲間が涙目で声をかけてくれる。
皆父との別れを惜しみ、残された俺のことも気遣ってくれるいい人たちばかりだった。
優しい父は優しい人たちに愛されていた。その事実が嬉しいはずなのに。
俺がいつか死んだ時にもこんなふうに泣いてくれる人はいるのだろうかと、そればかり考えてしまった。
研究室の仲間はどうだろうか?昔の恋人たちは?
喉の奥がずっと渇いて不快だった。
しかしそれよりも、大好きな父と過ごせる最後の時間にこんな事ばかり考えてしまう自分が、嫌でたまらなかった。
葬儀は俺ひとり。
昨夜参列に来てくれた人達が気を遣って手伝いを申し出てくれたが、丁重にお断りした。
祖父母も既に他界し、父も俺もきょうだいがいない。母は今どこで何をしているかもわからないし、わかっていても呼ぶつもりはなかった。
読経の声を聴きながら昨日のことがまた頭をよぎる。考えても仕方のないことだと頭を振るが、こびり付いて離れなかった。
就きたかった職に就いて、昔から好きだった海の生き物の研究に明け暮れる。大変ではあるものの、幸せを感じていた。
それでじゅうぶんだと思っていたのに。
俺は父のようにはなれないことがひどく悲しかった。
「では、そろそろお別れのお時間となります」
かけられた声にハッとする。いつの間にかお経は終わっていた。
お盆に乗せられた香りの強い生花が、今が現実だと突きつける。それを振り払うように手に取り、父の顔のそばに添えていく。
死化粧を施された父の顔は、眠っているように安らかだった。
それすらも俺を安心させるためのように見えて。
「父さん」
絞り出した声が思っていたよりいつも通りで驚いた。
「俺はもうひとりでも大丈夫ですから。俺がそっちにいくまで、ゆっくりしていてくださいね」
父のようにはなれなくても、彼に与えられた優しさを忘れたくなくて。
不安に蓋をして笑って見送った。
涙は一滴も零さなかった。
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桃色の百合の花の花言葉「虚栄心」