ポラリスの涙 八年前、僕は、初めての恋を終えた、と思う。
ただ、その恋は昇華されないまま、心の中に澱として残っている。
「今日も、天気が悪いね、リオル。」
天井にぶつかる雨音を聞きながら、窓越しに灰色の雲を見る。腕の中のリオルは、一声、元気よく鳴いた。
神話の残るシンオウで成長した僕は、エイチ湖の近くで小さな民宿を経営している。ポケモンたちに手伝ってもらっているとはいえ、人の手は二人でやっているから宿泊部屋は三つ用意するので精一杯だ。儲かるような宿じゃないけど、ネットの予約を色々調節していけば、とりあえずは暮らしていけるようになった。
「そろそろ、雪が降っちゃうね。」
昨日は宿泊客が居なかったけど、今日は一組のお客さんが来ることになっている。予約はシロナさんが入れていたけど、泊まりに来るのは別の人との事だった。この宿で三日程、羽を伸ばすらしい。
「どんな人が来るのかな……」
シロナさんの紹介なら、少なくとも悪い人ではないはずだ。
悪い人……と八年前の事をちらと思い出す。ギンガ団の事、やぶれた世界の事、澱となった初恋の事……たくさんの闇を見た、幼い少年の頃の事。あの頃は、たくさんの闇を見て、同時にたくさんの輝いたものも見た。どの思い出も、大切なものだと、今でも思っている。
だから、僕は、そこから姿を消した。
八年も経ってしまえば、四天王も、ジムリーダーの面々も、多少変わっているに違いない。ふと、初恋の相手だった人をふと思い出し、苦笑いをしてしまう。
いい加減、あの人にも、いい人がいるに違いない。
それなのに、僕は、まだどこか昇華しきれない思いを引きずっている。恋は終わった、はずなのだ。
「さあ、お掃除しようか、リオル。」
思考を戻すために腕の中のリオルを見つめて、笑いかける。
リオルは、どこか不安げに僕を見つめていて、小さな手をペタリと僕の頬に押し当てた。
「大丈夫だよ、リオル。お掃除は君が頼りなんだから、頑張ろう。」
リオルを床に下ろして、その頭を優しくなでた。リオルは一声鳴くと、張り切る様に手を胸に当てる。
「さあ、お客さんを迎える準備もしないとね。」
今日の夕食の献立と、明日の朝食の献立も考えなくては。夜には、天気が晴れてくれるといい。そう思って、僕は今日の仕事に取り掛かった。
* * *
八年前、俺は一人の少年をフッた。
当時腐っていた俺に戦いの情熱を思い出させてくれた子ではあったが、恋愛感情的に見ることはできないと、フッた。
そして、その少年は行方不明になった。
流石に目覚めが悪くて、それとなく探したりはしたものの見つかることはなく、リーグでも捜索を打ち切ったのが五年前の事。
シロナは今でもチャンピオンとして君臨しているが、ふとした折に色々考えこむことが増えた。そして、つい先日、俺に何故か出張と言う名の休暇を無理やり取らせてきたのだ。
「俺は別に遠出して休むような性格じゃないんだがな。」
「大丈夫よ。きっと休めるし、君もちゃんと整理が付けられると思うから。」
そう言っていたシロナの言葉を深く考えなかったことを、俺は今悔やんでいる。
「いらっしゃいませ……」
受付で座って作業していたようだったが、間違いなく、俺があの日フッたはずのコウキがいる。
コウキも俺が来たことが意外だったらしく、かなり驚いた表情を浮かべた。
「コウキ……なのか……?」
思わず訊いてしまった言葉で、コウキはハッと我に返ったらしい。
「デンジさん……ですよね……? シロナさんの言っていた宿泊のお客さんは、デンジさんの事だったんですね。その、すみません、びっくりしちゃって……」
そう説明するコウキは、あの日よりも大人びた表情をしていて、何故だか胸の内がざわめいた。
「シロナさんも人が悪いなあ。デンジさんだと解っていたら、もっと良い物を準備したのに。ああ、話し込んでいてもあれですね。ルームキーを持ってきますので、ちょっと待っていてくださいね。」
そう言ってコウキが背後の扉の向こうへと去って行ったのを見て、俺はようやく我に返った。
コウキが民宿を営んでいるとは知らなかった。
シロナはコウキが居ることを知っていて、オレを泊まりに行かせたんだろう……俺とコウキの間にあった告白関係のことは知らないはずだが、俺がコウキについてそれとなく調べていたのには気づいていたらしい。オーバの奴が何か言っていたんだろうか。
「まったく……」
思わず溜息が出てしまう。俺が何だかんだ気にしていたのは、周りにバレバレだったわけだ。
あの告白を断ったことに後悔はない。だが、あいつを見かけなくなったのはその直後からだったんだ。気にしないわけがない。恋愛感情はなくても、あいつとのバトルは一等お気に入りだったんだから――
「デンジさん、部屋まで案内しますね。」
考え事に耽っているうちに、コウキが戻ってきたらしい。俺はとりあえずコウキを見据えた。
「そうか、頼むよ。」