誰も知らない「何か、ありましたか?」
いつも通り、ベッドの右側に横たわった桜備が、すぐに寝てしまわずにこちらを見ている。眼鏡を外した視界でもやはり違和感が拭えず口にした言葉に、桜備は驚いたようだった。
「昼に森羅が訪ねてきてから、様子がおかしかったので」
可愛がっていた後輩に久々に会えて嬉しそうにしていたのに。会議室を出てきた時、仕事用の顔をしていたから不安になった。そう伝えれば、家にいる時の緩んだ顔で、桜備は苦笑する。
「火縄にはばれちゃうなぁ」
誰も知らない
「森羅は、今、世界を正解するまで何回も創り直してるところなんだって」
桜備が、珍しくゆっくりと言葉を選んでいる。それだけで、言われた内容に突拍子が無くても、火縄にとって信じるには十分だった。
「それで、この世界は上手くいかなくて、」
一つ大きく息を吸って、吐いた桜備の瞳に涙の膜が張っている。それを見ていたら、吐き出す言葉に抑えが効かなかった。
「森羅は、それをあなただけに話したんですか?」
「怒らないで、本当にしんどそうだったから」
俺がしつこく聞いて、それで、と続ける彼につい眉を下げてしまう。
人体発火現象はもう起こらない。発火能力は無くなった。森羅を始め、特別可愛がっていた部下たちは皆自分の道を歩きだした。それでも、桜備と火縄は共にいる。
「この世界の、何が間違っていたんですか?」
「……なんだろうね?」
俺にもわからない、と搾り出された桜備の声は震えている。どうしたら良いかわからなくて硬い髪を撫でれば、彼が笑った拍子に涙が溢れた。
「どんな風に消えるんですか」
「誰も気付かないらしいよ、いきなり無かったことになるから」
ず、と鼻を吸ってから、恥ずかしそうに桜備が呟く。
「強いね、火縄」
「正直、ほっとしているところもあります」
未だに桜備の首の傷から目を逸らしてしまう時があるけれど、夜中に青ざめて飛び起きることは減った。それでも、拭う目尻には出会った時より皺が刻まれ、別の心配をし始めた。人を愛することは、いつも喪う恐怖を伴うから。
「あなたに置いていかれる心配は、もうしなくて良いので」
同じ瞬間まで一緒にいられるなんて、なかなかありませんよ、と口にすれば自分も堪えきれなくなってしまう。ぶわりとぼやけた視界でも、顔を見ておきたくて瞳を閉じられない。隣に寄り添う温度、握り合う掌、触れた額から伝わる熱。
「……それでも俺は、明日も火縄におはようって言いたいよ」
おやすみ、の後に桜備が言った言葉は、誰も知らない。