ガラスの靴はいらない——桜備は大丈夫だろうか。
ヘアメイクやスタイリストと名乗る一度も触れ合ったことのないタイプの人々に囲まれながら、火縄の頭の中にはそれしかなかった。
大統領というのは、なる前から既に多忙だということを、二人して理解し始めていた。それでも、就任挨拶の詰めをしている最中に、お時間です、と言って火縄だけ連れ出された時には流石に狼狽してしまったのだけれど。火縄の服を選び、髪を整え、顔にまで何かを塗っている人々はひどく真剣で—「任せます」と言い続けて遂に何も聞かれなくなったせいでもあるが—何も言えない。まるで火縄のポケットチーフの位置が1ミリずれたら世界が終わる、というような勢いに押されながら、早く解放されることを祈っていたけれど。
満足そうに微笑んだ人々に頭を下げられ、ようやくやってきた顔馴染みの広報官に案内される。そうして桜備の顔を見てほっとしたのも束の間、相手はきゅっと眉を寄せた。
「……火縄と確認があるから、全員外してくれる?」
ガラスの靴はいらない
五分、と桜備が言った途端、控え室から人々が一斉にいなくなる。その素早さにまた面食らいながら、それでも彼を目の前にすると落ち着いた。
「何の確認ですか」
「いやぁ……」
これから演説をするのだというのに、心配になるような歯切れの悪さ。けれど、火縄から逸らされない視線にはっとする。
「……似合いませんか?」
「逆」
かっこいいよ、と呟いた桜備の掌が頬に触れる。
「なんか、随分遠くに来ちゃったな」
目を細めた彼の考えていることが、手に取るようにわかった。
初めて出会った時、自分たちはまだ二十代だった。灰と煤に塗れた、かけがえのない日々。
過去を覗き込むような目をする桜備の目尻には、優しげな皺が刻まれている。それでも。
とん、と一歩踏み出して彼の胸に身体を預ける。鍛えられた彼の心臓のゆったりした鼓動が、火縄と同じ速さになっているのがわかる。
「何も変わりませんよ」
心から呟けば、そうだね、と返してくれた響きは聞き慣れたもので。行こう、と伸ばされた手を握り返して。少し歪んだポケットチーフを適当に直して、火縄は桜備の隣に並んだ。