有頂天きょさと「きみ、やっぱり歌うまいなぁ」
そう、低い声で話し掛けてきた謎の男に、僕の人生は無茶苦茶にされてしまったわけです。
○
蒸し暑い日のことだった。
夕方だと言うのに気温は下がらず、顎先から垂れる汗を手の甲で拭いつつ下校していた。時々西日から逃れる様に影に入って見るものの、体感温度は下がらない。
次第に苛立ちまで感じ始めた僕は、代わりに、人家から覗く木々を見上げて僅かに涼を取りながら、肩に掛けた通学鞄を背負い直した。
心が尖るのも無理はない話だった。部長として籍を置く合唱部の闘いの場、合唱コンクールがもうすぐそこまで迫っているのに、歌が上手く歌えない。以前のように声がきれいに出ないのだ。
努力や根性ではどうにもならない、僕の身体のリミットがすぐそこまでやってきていた。真っ直ぐに柔らかく伸びていた筈の声は出なくなっていた。まるで、自分の身体じゃないみたいに。誰にも相談できない自分の変化は背を向けたくなるほど恐ろしく、じわじわと『岡聡実』を崩されていくような気持ちだ。
途方に暮れると言うのは、こういう気持ちなんだろうか。
地面を踏み出すばかりの自分の足を見下ろして、僕は口を開いた。自分の足音で消えてしまうくらいの声量で歌う。歌いながら、ピアノを弾く顧問と目が合ったこと、隣の後輩の心配げな眼差しを思い出す。
歌うときは、いつだって気持ちよかったのに。拳を握って、口を閉じた時だった。がさ、と前を通っていた家の庭の茂みが揺れる。歌声を聴かれたかと思い、慌てて振り向いたが人の姿はなく。瞬きをして進行方向へ目線を戻して、僕は飛び上がりそうになった。
夕暮れと言ってもまだ蒸し暑い中、その男は汗一つ垂らさず立っていた。真っ黒いスーツに真っ黒い靴。真っ黒い目をして、端正な顔に薄ら笑いを浮かべ、僕の行方を阻むように道を塞いでいた。足音一つさえ聞こえなかった。まるで怖い話で見る怪異のようだった。そうして、その怪異は僕に言ったのだ。
「きみ、歌うまいなぁ。ちょっと助けてくれへんか」
これが、僕の半生が毛玉だらけになってしまった事の発端である。
○
男の名前は成田狂児。祭林組若頭補佐と言う役職に就いているようだ。かなりよくない大人だ。まるで妖怪の類いに誘われるように、いや、男が差し出した未開封のキンキンに冷えたラムネに釣られた僕は、成田狂児に連れられて、公園のベンチに座らされていた。手にはしっかりと、学校から配布された防犯ベルを握り込んでいたが、男はそれを見て「しっかりしとんなぁ」と笑うばかりだ。
そうして、中学生相手にやたら真面目な顔をする男は、にわかに信じがたい話ばかりを溢す。
男が言うには、狸同士の組の抗争を手伝って欲しいと言うのだ。狸、組、抗争。もうそれだけで頭はついていかない。それでも、男は端正な顔を苦々しく歪めながら、更なる情報を僕に詰め込んで来た。
「待ってください、それって狂児さんも狸ってことですか?」
「うん。見たい? なら後で見せたるわ」
「狸なんですか……?」
「まあそれはええねん。続けるで」
遥か昔、まだ世に狸と天狗が蔓延るほど昔のこと、彼が属する祭林組と、京都を主なシマとする出林組との軋轢が始まったとのことだ。彼らが属する『組』は、代々天狗を長としており、残りの九割五分が狸で構成されているようだ。つまり、ほぼ狸組織な訳だ。
「狸のヤクザって……怖いんか怖ないんか分からんな。ていうか、ヤクザの狸ってなんなんですか? 何するんですか?」
「なんやろなぁ、よお分からんけど、そうやねん」
成田狂児は続ける。
毛玉たちはそれなりに穏やかにやっていた様だが、天狗同士の折り合いが悪く、危うく如意ヶ嶽が天へと舞い上がる程の大喧嘩になったそうだ。
そこから数百年は二つの狸勢力がことごとくぶつかり合っていたそうだ。ところが、あまりにも不毛に毛玉を散らす抗争は時代にそぐわないと、数十年前から形式が一新した。それが、天狗狸納涼歌合戦だと言うのだ。
それからはまるで花見感覚で開催されていたそうだが、ここ最近、少し不穏な動きがあった。今の代の天狗たちは無駄な争いは生まず、毛玉どもを大事にする傾向だったが、出林組の天狗の身内に一人、元気な狸がいるようだ。その狸は、恋をした。遥か昔から敵対する勢力、その幹部の。その相手への気持ちは燃えに燃え、五山の送り火の様に派手に広がっていったのだ。
つまり、相手方の天狗の知り合いの狸が、祭林組の狸に惚れてしまい、歌合戦の勝ち条件に相手を要求したのだ。そうして、周りは頭を悩ませ、止めるどころが笑い出す毛玉まで出てきており、祭林の天狗からは「勝てそうな助っ人でも探して来い」とのお達しがあった。
そうして声を掛けられたのが、僕。そうして、勝ち条件として要求された狸が、目の前の成田狂児であるらしかった。
疲れた顔をして話す男に、僕は思わず手のひらで口を覆った。悲しい目に遭っている相手が、不憫で仕方がなかったのだ。
「聡実くん、肩震えてんで。笑っとるんバレとりますよ」
「いや、すみません、ちょっと面白くて……」
「まあ分かるで。おもろいよなぁ、ほんま、どないなってんねんこれ」
く、と眉を寄せる狂児さんに、悪いことをしたと僕は顔を振った。大きな身体を丸める狂児は、ほとほと途方に暮れているようだった。
この容姿だ。そこらの歌の上手いお姉さんでも捕まえて連れて行った方がきっと楽だろうに、こんな中学生に声を掛けるなんて、よっぽど参っているのだろう。
それを伝えれば、彼は首を振った。
「いやね、聡実くん以外に考えられへんねん。きみ、歌上手いから」
「でも……さっき、ちょっとだけ聴いただけでしょ。それで自分の運命託すの怖ないんですか」
ざわざわと、公園の木が揺れる音がした。狂児は手に持った汗をかいたラムネを口に付けて喉を鳴らして、僕をじっと見た。真っ黒い目は、狸のような円らさは欠片もない。相手を文句ごと吸い込むような真っ黒い目は、天狗と言われた方が納得すると言うものだ。
「そんなん」
成田狂児は笑う。
「聡実くん以外考えられへんよ」
そう言う狂児さんの目は、何か懐かしがっているかのようだ。狂児さんは立ち上がる。僕を振り返って、地面を蹴れば、たちまちスーツを着こなした長身の男は消え、ずんぐりとした狸が、むっくりとした丸い風貌で座っていた。狸だった。
「た、狸や!」
「せやから言うたやん」
狸にしてはやや長いマズルが、先程までの精悍な男の面影を残しているような、いないような気がする。きっと、狸界随一のモテ狸なのだろう。ふわふわの毛玉は前足で宙を掻くようにして持ち上げると、真っ直ぐに僕を見た。真っ黒い毛に囲まれた瞳は、代わりない真っ黒さで僕を見る。どこかで見たような気持ちになって、僕は首を捻ってまじまじと見つめ返した。狸も一生懸命に僕を見ている。
「信じてもらえましたか? 聡実くん」
「まあ、こんなん見せられたらそりゃ……信じるしかないですよね。白昼夢ってわけでもないし。いや、信じられへんけど」
しゃがみこんで手を伸ばせば、狂児さんはポンと僕の手に前足を乗せた。かわいい。口を引き結びながら、そういえば、と昔のことを思い出す。幼い頃一度だけ、こうして毛玉と触れ合った記憶があった。ぼうと懐かしさに宙を見ていれば、いつの間にか毛玉の姿から人間の姿に変わった成田狂児が僕を見下ろしていた。先程よりも少しだけ優しい目をしている。
「ほな、聡実くん。確認やけど、俺のこと助けてくれるか?」
射竦められるくらいの眼差しに刺されて、僕は息を飲む。
悩み多い中学生を現実逃避させるには、あまりにも魅力的な要素が詰まりすぎていた。狸に天狗の歌合戦。楽しくない現実から逃げるわけではない。少しだけ休憩したかった。立ち止まって休むには、あまりにも魅力的な毛玉過ぎたのだ。
僕は一歩だけ成田狂児と距離を詰める。近付いて、真っ直ぐに見上げた。
「ええですよ。狸助けしたります。動物は昔から好きやし」
「じゃあ、よろしく頼むわ」
狂児さんも片眉を跳ね上げて、僕を見て笑った。そうして僕は生まれてはじめて、狸と握手を交わしたのだった。
○
それから二週間ほど、僕は狸が化けた人間とカラオケに通った。どうやら狸でもカラオケには入れるらしい。費用は持ってくれたけど、いつ彼のお金が葉っぱに変わってしまうかとひやひやした。それを知ってか、会計のと気はいつも僕の顔を見て、成田狂児は笑っていた。
納涼祭の詳しい説明を受けながら、選曲と練習に勤しんだ。けれど結局マイクを握っていたのはほぼ狂児さんであったし、なぜか彼の歌を批評したりしていた。一度僕に歌うように勧めたけれど、僕が少しだけ苦い顔をすれば、それ以降は全くマイクは回ってこない。それからは、彼の持ち歌のアドバイスをするのみだった。自分の人生を預けた相手なのに狂児さんの必死さは全く見えず、今までの話は本当なのかと疑いもした。
けれど、ある日、狸が乗る車に乗せられて連れられたいつものカラオケ店の一室が、怖いおじさんばかりで埋め尽くされていた。
入室後に僕は卒倒しそうになったけれど、狂児さんが「なっとけ言うたやろ」と非難めいた声を出すと、強面おじさんたちはそれぞれにかわいらしい狸たちに化けたのだった。やはり、狸ヤクザは存在するらしい。僕を取り囲んだ毛玉たちは、じろじろと人の顔を見るなり、「狸たらしの子や」「人間で一番歌上手いんやろ」「あの狸たらしや」と口々に良く分からないことを言う。
「違います!」と大声で訂正すれば、いきなりの大声に驚いたのか、数匹が、ぽてと床に落っこちた。狸は驚くと失神すると言うのは本当らしい。気絶狸たちは、ぺんと兄貴分狸に尻を叩かれて起き上がる。この部屋に保健所職員がやってきたら、一網打尽だなぁと思った。
ちらほらと人間の姿になり、好き勝手歌い、楽しんでいるのを横目で見る。それから、隣で渋い顔をしながら兄貴分狸の歌声を聞く狂児さんの顔を盗み見たのだった。この男──狸の運命を、僕なんかが握って、本当に大丈夫なんだろうか。
○
そんな風にして、あれよあれよと言う間に僕たちは当日を迎えた。
結局録な作戦もたてず、ぶっつけ本番も良いところだった。早朝から狂児さんに連れられてやって来た、神社に続く森の中。今回の対決は、どうやら出林組のお膝元で行われるらしい。歩いていけば、森の中の開けた場所に、無数の狸たちが群がっていた。ぽんぽこと思わず呟きそうになった口を押さえる。やって来た祭林組の面々を見て、ぽこぽこと狸たちが人に化けていく。その中で、一際きれいな女性がいた。恐らくこの狸が、件のメス狸に違いない。
「成田さん、どうも」
「はい、どうも」
狂児さんは会釈を一つ、そのまま動じていない顔をして腕を組んでいる。やはり、ヤクザ狸だけあってそれなりの修羅場は潜り抜けてきているらしい。肝がすわっているようだ。俳優みたいに美しい女性狸を前にしても落ち着き払っていた。
「きみが噂の代理人ですか? 狸たらしの」
「その狸たらしってなんなんですか」
困惑の表情を浮かべれば、女性は目を丸くしてから笑った。もっと困った性格の人かと思ったけれど、そんな風には見えない。隣に立つ狂児さんに「ええ人やん」と耳打ちすると、「そう言う話ちゃうねん」と困った声が返った。それはそうだと頷く。女性は、森には似合わないきれいなヒールを履いた足を広げて、腕を組んで顎をくっと上げて見せた。
「審査員には、いつもの様に合戦審査委員会の皆さんを呼んであります。私が勝ったら、狂児さんは私のもの。きみが勝ったら、きみのものです」
「いや、あの……僕は別にこの人いらんし、もの扱いするんもちょっとひどいと思うんですけど……」
怖々と伝えると女性は確かにと頷いて、「ほな、告白を受けていただくということで」と言い直した。意味は変わらなかった。やっぱり、ヤクザ狸関係者は少し大変な狸が多いのかもしれない。
僕と女性をぐるりと組関係者が取り囲み、その円の一角に、毛並みがぼそぼそとした古狸が数匹がいる。きっとあれが審査員なんだろう。その隣で、一際大きな狸がスマホを構える。女性にはおもちゃのマイクが渡された。歌合戦と言いながらも、機器はそこまでこだわっていないようだった。何とも言えぬ顔をして、無言で指差して狂児さんを見れば、「大きい音出したら人間に見つかってまうから」と真剣な顔をする。狸は人間に隠れて生きなければいけないらしい。僕はここにいて良いのだろうか。隣に立つ成田狂児を見る。彼は憮然とした顔をして、狸達を眺めていた。
「それでは、いかせていただきます」
女性は大きく息を吸ってから、それはそれはきれいな声を出した。曲目は、少し懐かしい、恋人への気持ちを歌ったものだ。表現力豊かな、伸びやかな高音にきれいな声。成田狂児への思いがたっぷりと乗っている、情感がひしひしと伝わるものだった。その美しくも情熱的な歌声に撫でられて、狸たちはうっとりと目を細めていた。ずんぐりとした毛が、美しい声への興奮でふかふかとしている。
僕の隣では、その本人はどこ吹く風で片眉を上げている。その顔を見て、凛々しい顔をして歌う女性狸を見て、僕は何となく複雑な気持ちになった。
正直、成田狂児がどうなろうと僕には関係ない。
関係はないけれど。少しの情は移ってしまっている。それに、歌に悩んでいる僕の歌を好きだと言ってくれたのは、正直嬉しかった。自分の変化を受け入れられず、けれどここ最近はくよくよとせずにいられたのは、間違いなくこの狸のおかげだった。
本当は適当に歌って終わろうと思っていたけれど、このまま負けるのは、どこか悔しい。僕は負けん気が強いのだ。それに、このきれいな女性の横に収まる成田狂児を想像すると、なんだか無性に腹が立った。
割れるような拍手が巻き起こって、僕は考え事から現実に引っ張り戻された。祭林狸たちも、圧倒されて手を叩いている者もいる。審査員狸たちが点数の書かれた数字札をあげるのを見て、女性は満足そうに頷いた。並ぶのは高得点ばかりである。
「どうぞ」
マイクが今度は僕に差し出される。それを握って見つめる。聡実くん、と少し気遣わしげな声がすぐ横で聞こえて、僕は真っ直ぐに女性を見据えた。
面白くない。このまま成田狂児を寄越してやるのも。僕の平凡な人生に転がり込んだ、おもしろ毛玉を手放すのも。それに、この狸はトロフィーではない。ちゃんと意思のある狸であるのだ。
そう、僕はそれが一番許せなかった。
スマホ狸に曲名を早口で伝えれば、祭林の狸たちがどよめく。それもその筈、隣に立つこの男の、持ち歌なのだから。
長い長い前奏が流れる。上手く歌えなかったことも、それに悩んでいたのも、もう何もかもがどうでもよくなっていた。ただ、この狸のこれからの狸生を救ってやらねばならない。それだけが頭にある。
口を開いて旋律を奏でる。歌ではなかった。もはや慟哭であった。側にいた狸が数匹転がった。
僕の人生の内の最後の一欠片のソプラノは、僕の負けん気と狸救いの気持ちの前に削り切れていく。ウジウジと悩んでいたここ最近の自分を撥ね飛ばすかのように。狸への恩返しに一生に一度のものをくれてやるのは、気持ちが良かった。
曲が終わる頃には、成田狂児以外の狸がみな、ぽてぽてと転がっていたのだった。
○
「やーっぱり聡実くんやな!頼んで良かったわ、ほんま」
運転席で、狂児さんは機嫌良く笑った。僕はその横顔を見て、さすがに疲れたとドアに頭をもたれ掛からせて目を閉じる。車は、京都を離れ、大阪の僕の自宅へと向かっていた。狸が運転する黒塗りの車に乗ることに、もう抵抗感はない。まるでおとぎ話に入り込んだ気分だった。
狸と天狗の歌合戦に参加してきたのだから、もう入り込んでいるんだろうけれど。
上機嫌の成田狂児は歌うように続ける。
「これで俺は誰のもんでもないし、まだまだ人生楽しめるわ」
「そうですね……」
あの絶唱後、勝利を納めた僕は、悔し涙を浮かべる女性と、それでも爽やかに握手を交わして解散した。彼女は成田狂児を諦めた──ような様子で、ヒールの靴を翻し、さっぱりと背中を向けて去っていった。
残された僕は腰を抜かすように倒れ込みそうになり、狂児さんに支えられたのだった。
「なんとかなって良かったです」
「うん、ありがとうね聡実くん。無理させてごめんな」
「いえ……僕が歌いたくて歌ったんで」
「そう? でも、やっぱり聡実くんの歌が一番や。元気になるし、なんか、生きてて良かったなって気持ちになったわ」
窓の近くに腕を置いて、狂児さんは目線を僕に向けた。
「な、また聞かせて欲しい、ええ?」
「まあ、良いですけど」
まだこの狸は、僕に付きまとう気なんだろうか。
けれども、それも悪くないと不思議と思う。成田狂児の歌う、懐かしい鼻歌を聴きながら、僕は目をつむる。成田狂児の優しい声を聞きながら。
「やっぱり、きみやな」
○
数年前、出林組の狂暴狸にちょっかいを出された時のことだった。
特に大事には至らなかったけれど、後ろ足を激しく噛まれて出血していた。痛みも鋭く、とどめかのように土砂降りに見舞われた。神様は毛玉には優しくないらしい。
雨宿り、と回りを探したけれどめぼしい場所はなく、ぽてぽてと歩いた先、車道に出てしまったのだ。雨が跳ね返るアスファルトに乾いた笑いが出た。このまま狸生を終えてしまうのだろうか。あんまりええことなかったな。死ぬときは組長の家にロケット花火をぶちこんだるくらいおもろいことをするつもりやったのに。ぽてと傾いた身体はブロック塀にくっついて、とうとう目も閉じていきそうだ。
そのときだった。何やら大きなものにぐるぐる巻きにされた俺は、そのままひょいと何者かに持ち上げられたのだ。連れていかれる。暴れるにもそんな元気はない。世の中には狸を食らう恐ろしい人間がいると聞くが、まさかその類いのヤツに捕まったのだろうか。最後が狸鍋。笑った声はキュウと鳴り、「いきてる」とその人間が呟いた。随分幼い声だった。
その人間──子どもは、俺を小脇に抱えて少しうろうろとしたあと、どこかに入ったようだった。何とか顔を持ち上げて見れば、よく入り浸っている小さい神社の休憩スペースであった。ええとこ選んだな。狸らしくキュウキュウと声をあげれば、「元気やん」と子どもは笑う。俺を巻いた布ごと持ち上げて膝に抱えると、子どもは丸い顔を真っ暗な空に向けた。
「やまへんなぁ。おまえ、ケガしてるし、はよやむとええな。家にはつれてかえられへんねん。お母さんに怒られてしまう」
子どもは静かに笑う。
「こんなん言うてもわからへんやろけど」
丸い頬に丸い目。狸の毛色みたいな瞳だった。彼が背負うランドセルにくっ付いたリコーダーケースを見る。おかさとみ。彼の名前のようだった。
(分かるよ、さとみくん)
まさか、自分が膝に抱えるのが人語を理解する狸とは思わないだろう。俺は目を瞑って、布越しに感じる温かさを辿った。
「ザーザーぶりの雨はすぐやむって兄ちゃんが言うてたから、もうちょっとだけ雨やどりしてよな、タヌキ」
(そうやね)
さとみくんの声が止めば、雨も降っているのに周囲は静かになる。彼はぺったりと尻を地面に付けて、口を開いた。そうして、きれいな声で歌い始めたのだった。
少しだけ頬を赤くして歌う曲は驚くほどきれいに響いて、俺のへにょへにょの身体に染み込んでいった。身体を暖めて、気力に満ちさせた。そんな歌声だった。ついと鼻先を向ければ、さとみくんは俺を見下ろして笑う。
「今、練習中やねん」
そうして、彼はもう一度歌う。
きれいな歌というのは人間だけでなく、狸の心をも掴むのだと、俺はその日、狸生で初めて知ったのだった。その後、雨は止んで、弟分の帰りが遅いと迎えに来た兄貴を指差して、さとみくんは「あ」と嬉しそうな声を出した。
「おむかえ? タヌキのお母さん?」
(ちゃうちゃう、兄貴やでさとみくん)
ぽて、と兄貴の方へ歩き出してから、さとみくんを振り返る。さとみくんは、うんと目を細めて「タヌキと雨やどりしてもうた、おもしろかった」と笑った。
面白いかぁ。その言葉に、できるだけ元気に軽快に歩いて、俺はふさふさの毛玉尻尾を左右に振る。雨の上がった空は晴れやかで気分が弾んだ。
狸生一番の晴れ空であった。