君に星を、俺に愛を。そして世界よ、永遠なれ。(仮タイトルです。)その感情に気がついたのは、どこにでもある、ありふれたある一瞬のことであった。
確か、陽光に照らされた彼の横顔を見たのが最初であったように思う。
彼はその時、のんびりと、そして何か遠くの子供を見るかのような顔で笑っていて、その横顔が、まなじりが、本当に、あまりにも、あまりにも美しかったのを吟はよく覚えているのであった。
そして、これから一生、決してその記憶は消えることはしまい。
そう強く、強く強く強く思わせるほどに、よく目に焼き付いた光景であった。
その、光に照らされている、美しい横顔を見たとき。
能登吟という青年は、初めて自分の感情を自覚したのであった。
苦しみと悲しみとは表裏一体。似ているようで全く違う。
悲しんでいる余裕があるものは苦しむ暇がないし、
苦しんでいる余裕があるものは同じく悲しむ余裕もない。
だからこそ人と人とはわかりあえない。
そういう話を、どこかで聞いた。
多分普通の人間だったらそんな事は無いと声を荒らげるところであっただろうが、残念なことに、そして悲しいことに彼にはそんな余力もなかった。
諦めていたのである。
悲しみも苦しみもどうこう言う事は諦めていた。
この世にはきっと苦しみも悲しみも味わったことがないような人間がたくさんいるのだろうな、と言う、確実に夢物語であろうことを頭に思い浮かべながらただ黙っていた。
もちろんそんな事は無い。自分でもわかっている。
それでもそう思っていないと、どうしようもないくらい彼の心は苦しみと悲しみに満ちていた。
いつだってそうであったし、それにそうであった、いついかなる時の日常でも彼のもとに苦しみと悲しみは横たわっていて、陽光の下で笑う時も月光の下で泣く時も常に彼の元には、苦しみと悲しみだけがいつもいつも恋人だか友人だかのように横たわっていたのである。
それ故に、彼は何かを考えることを諦めた。
何かを思考することも諦めた。
何かを考えることを諦めた。
何かを思考することを考えた。
そう。
彼の元にはいつだって、苦しみと悲しみが横たわっていたから。
痛みとは常に自分の肋骨の内側に横たわっているもの。
悲しみとはいつだって自分の気管の中に備わっている。
彼が悲しんでいるのは下腹部であって、上半身部分じゃあない。
誰だって分かっていることであったが、誰もわかっていないことであった。
正直なところそしてはっきりとしたところ、彼自身の苦しみなど彼自身にしかわからないのであって彼自身以外の誰かにわかるはずもない、そんなことは考えれば当たり前のことである。
わかってもらおうとしなければ分かってもらえるはずもなく、
無論人には共感なんて言う素晴らしい機能が備わっているが、それを表に、つまり共感できるような波動すら表に出さないのであれば、そもそも共感のしようがない。
誰が見たって分かっている、
誰が言ったって分かっている、
誰が聞いたって分かっている、
誰が見たって分かりきっている。
彼自身が苦しいのは彼自身のせいなのだ、
この世の誰のせいでもなく、無論誰かのせいでもなく。
彼の苦しみは彼が苦しいのは彼が痛いのは彼が不幸なのは彼が悲しいのは彼が苦しいのは彼が自分というぬかるみにハマって困って悲しんでいるのは他の誰でもない自分のせいなのであった。
そんなことは誰もが分かっている。
おそらく彼自身もわかっている。
それでも彼にはそう、それでも彼はただ黙っていたし、彼にはどうしようもなかったし、そう思い込むことで自分を守ろうとしていた。
今、この時、この瞬間までは。
そう、無慈悲なことに、無情なことに、無意味なことに、そして、無理なことに、無駄なことに、無情なことに、あまりにも悲しいことに、今この瞬間までは、彼はずっとそう思っていたのであった。
彼がその感情を自覚した瞬間、まずやったことは何か。
それはそこからの逃走である。
彼は逃げた。
陽光溢れる場所から、ビルディングが立ち並び、作り出す、誰も望んでいない陰に逃げ込んだ。
夏ならありがたいであろうその影は、残念ながら通気性…というか温度が常に一定とまではいかなくても人も過ごしやすい範囲にとどめられているこの世界において、何の役にも立たない。救世主ですらない。
彼自身の想いを除いては。
彼はビルディングの隙間にうずくまり、ただ自分の頭と顔を抱えて呆然とする。
ああ、なんていうことをしてしまったのだろう、というわけでもなく。
ああ、なんて馬鹿なことをしたんだろう。ということでもなく。
ただ呆然と、自分の、たった今自覚した恋心を抱えながら、彼はこう言った。
「ああ、僕……………………………………………………………ばかだ。」
その言葉の意味を知る者は、
なぜこの場面でそんな言葉が出たのかは、
その言葉の表す意味は、
誰も知らない。知りうるはずもない。
カタルシスエフェクトが本来その人の心の衝動をただ表しただけのものにしか過ぎないことと同じように、彼がどうしてこんな場面で、こんな言葉を言ったかなんて彼自身にしか分からない。
彼自身の苦しみや悲しみと同じように。
だから、ただ今、ここで、ハッキリと言うべきことを、言えることを、いや、言わなくてはならないことを言わせていただくのであれば、それはそう単純明快。
彼は、今、この瞬間、自分の失恋を覚悟した。
彼は、今、この瞬間、自分の恋心が粉々に砕けてなくなっていくのを思ったのであった。
ただ、友情のために。
プロローグ 完
第1章 心哀しきかな、心苦しきかな、心寂しきかな。
恋というのは古代の日本語において飢える…いや違うな、孤独に悲しいと書いて『孤悲』と読むということなど誰もが知っている一般常識の中の一つであろう。
が、しかし、彼はそんなこと知るはずもなかった。
なぜなら彼は今時の男子高校生だからである。
授業の内容なんて基本的に脳内半分だし、半分も覚えていれば、ましてその四分の一でも頭に定着していればいい方であって、
彼にとって授業っていうのは確かに、苦痛とまではいかなくても退屈な時間であって。
もしくは次の昼休みに友達と話す話題を、もしくはその他色々を考える時間であって、断じて真面目に勉学をするための場所ではないし時間でもない。
ただ、こういうとき彼女は…あいや違う、彼は、この時初めてその授業をきちんと受けていれば良かったと思った。
ノイズまみれのNPCの教師が発する言葉が妙に耳につく。
黒板から書かれている内容を察するに恐らく今言った古語の話をしているのであろうことは誰の目にも容易に察しがついた。
飲み込まれている存在たちはもちろん、飲み込まれていない生徒たちもそう。
だから彼は一応真面目に授業を受ける振りをした。
フリをして、横目でとある男の、とある存在を見た。
その男は、一見すると真っ黒な服装をしている。
いやこの学校の制服が元々真っ黒なのだから、真っ黒のような制服もクソもないのだが、しかしそれに輪をかけて真っ黒な服を着ている。
おかしいな、周囲の男子生徒達と同じような服を着ているはずなのに、彼の服はしかしなんだかとびきり暗く見えた。
人によってはおそらく喪服にも見える、そんなような状態だった。
ブレザーとシャツの隙間に着ている…あれは何だろうか?りんごの花?ハイビスカスの花?いやどれでもいいことだ。
とにかく、赤い花が描かれた存在だけが、その服に彩りを与えていた。
と言っても、焼け石に水。
喪服のような陰気な印象は変わらず、でも彼はそんなことは一切気にもとめず、
ただ黒板をぼうっと見ていた。
頬杖をつき、ぼんやりとしている。
暇なのか、手遊びなんかしている。…というかペン回しをしている。
素敵な男性であることは間違いない。
こうやってただぼーっとしてるだけでも、
日常風景によくあるような行動をしているだけでも、
そんな風に見とれてしまうことができる程度には、その男の顔というものはとにかく整っていた。
美しい顔だった。
美しい横顔だった。
あの公園での…いや、公園ではないのだが…あの陽光の下での一時を経てもなお、
彼の顔は美しく、彼の表情は柔らかく、
そして誰もが見た瞬間立ち止まるという程ではなかったが、それと同じ位
…いや、もしかしたらそれ以上に、じっと見て立ち止まったらもう二度と歩き出せないのではないのだろうかと思うほどに端正で美しく整った心意気をしていた。
そんな美しい横顔だった。
ボーと眺めている、その空間と黒板を眺めている、その男がこの世界を壊そうとしている存在であることなど、誰が気づくだろうか。
吟はそう思いながら、黄色のキャップを被り直した。
自分の視線がバレないように。
自分の思考がバレないように。
漏れ出るなんてまさかカタルシスエフェクトじゃあるまいしそんなことはない。
ない、ないはず…なのだが。しかしそんなことは彼にとってはどうでもいいことである。
万が一があったら困るのだ。
何が何でも、そんなばかばかしい万が一を潰したいのであった。
彼は帽子を深くかぶって、何も見なかったことにする。
その横顔の肌の白さが目に焼き付いていることは、その陽光で照らされた美しい横顔が、目に焼き付いて、
瞼を閉じても
キャップの裏側にも
見えることを除いては、彼は普段と同じような顔であった。
能登吟、という青年のことを、一言で言い表すというのならば、
それはまさしく、『今時の男子高校生』、という形容が一番しっくりくるだろう。
ノリと感情で動き、しかしバカではなく。
ある程度の倫理観には基づくが、だからといってルール全てを厳守しているわけでもない。
友達が多く、友人が多く、人に話しかけることに全く臆せず。
周囲に友人が多く、その場にいる人達を笑顔にさせる。
正しく陽光のような青年。
という言い方をすると、大抵の人間は顔をしかめて過大評価だなんて言うかもしれない。ひょっとしたら当の本人ですらそういうかもしれない。
けれど、橘薫は分かっている。
その評判は、決して何か物事を大げさに言った結果ではないのだと。
公明正大正しく正しく百人中百人に聞いてもそういう返答が返ってくるだろうと、橘薫は常に確信している。
それぐらい彼の影響というのは、大きい。
彼がクラスを照らすことによって救われている人間が何人いるだろうか。
彼が話しかけてくれて、救われる人間が何人いるだろうか。
彼が掬ってきた人間なんて、何人いるだろうか。
数え切れないくらいいるだろう。
ささやかな救いではあるが、あまりにも貴重な救いであり、それは彼が一番分かっていた。
能登吟という青年は、そういう人間だった。
苦しみや悲しみとは全くもって、疎遠なそんな美しい男であったと橘薫は確信している。
そのあどけないさを残す目元がこちらを見る度に、こちら側は心が跳ねるような楽しさに浮かされるのであった。
で、
さて、そんな彼だが、つまりそんな能登吟というそんな彼だが最近様子がおかしい。
という話を屋上で天吹茉莉絵にしたところ、彼女はちょっと顔をしかめ、首を傾げてこう言った。
「そうですか?私には、何も変わりがないように見えましたけど…」
そう。そうなのである。
能登吟という男はそういう男なのである。
橘薫は、その反応に…つまり、天吹茉莉絵の、何かどこか腑に落ちていないような表情をしていることに、うんうんと深く頷いた。
それはそれはもう日本海溝もびっくりなうなずきの深さだった。
そう、能登吟という男は、そういう男なのである。
分かっている。分かっていますよ、それ以上言わないでください。みたいな感じのポーズをとりながら困惑しきりのこの学校の生徒会長を置き去りにして、彼は能登吟という男に対して思いを巡らせる。
彼は賢く優しく美しく、そして男女共に分け隔てなく男らしく素晴らしい青年である、それは間違いがない。
ただ、なんというか…その賢さ故に、つまり人との距離を見誤らないその賢さ故に、何度言えばいいのかわからないが、何かどこかはぐらかされるのである。
早い話が自分の不調を周りに隠すのがとてつもなく上手いのだ。
美しいぐらいにうまい。
もはや芸術作品。
映画になりそう。
そんな感じの感想を思う程度には、彼は、己の不調、もしくは変調…を周囲に隠すのがうまい。
思えば、カタルシスエフェクトを初めて発動した時もそうだった。
自分たちの…なんと言えばいいのか、厳密には自分ではなく自分の半身なのだが…が起こしたなんというかかんというか自分たちの世界観を揺るがすような事件に巻き込まれた時の彼は、おそらく、絶対的に、いやもう本当に困惑していただろうに、それをおくびにも出さなかった。