「瞳を見てみたい」と言われる度に、彼は少し安堵する。
それは隠せているという証左だからだ。
シャルルは、過去の経験以来進んで瞼を開かない。
その理由は見たくないものを見すぎてしまったから、ではなく。彼自身の苦悩ではあるが、他者に言及されたのがきっかけだった。
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中学時代、シャルルは文学部に入っていた。
といっても文学部とは名ばかりで、実質はゲーム部のようなものだった。所属部員たちは部室にあるトランプや囲碁やらテーブルトークプレイングゲームやらにどハマリしており、文字に触れるのが珍しいほどだった。
だからだろうか。普段奇異の目やらじっとりとした視線を向けられる彼は、視線が自分ではなくゲームに向いているこの場に居心地の良さを感じていた。幽霊のごとく窓際に座って本を読んでいても、誰も口を出さない。たまに人数不足の勧誘を受けたが、それも悪くないなと思っていた。
部長は勤勉で真面目な人で、とてもノリが良い女性だった。
片付けもみんなで協力するよう呼びかけて、割を食う者がいないよう心がける姿勢は好感を招くものだった。
たまに本から目線を上げて、部員たちの姿を見ていると、彼女の統率力に感服させられる。
この過ごしやすさは彼女のおかげだと、シャルルは嬉しく思っていた。
思っていたそれがあっけなく崩れたのは、三年生卒業祝い部内パーティの後。
溢れんばかりの紙コップや皿を袋に詰め込んで、捨てに行こうとするシャルルに、手伝うよと持ちかけてくれたのは部長だった。
もう卒業するのに、祝いの対象なのにとシャルルは引け目に思ったが、彼女はやたら強気にゴミ袋を奪い取った。
それなら仕方ないか、と共に捨てに行って、元の部室へ戻ろうとしたとき、部長に呼びかけられた。"実は体育倉庫から運び出したいものがある、みんなを驚かせたくて隠してたんだけど出したいから手伝ってほしい"といった旨の頼みを。
なるほど、と納得した彼は、何の疑いもせず体育倉庫に入って、気がついたらセーフティマットの上に倒されていた。高跳びもしていないのに。
どうして、と動揺する彼に、部長は言う。表情は翳って見えない。覆いかぶさるようにして彼女はシャルルを離さない。
「私のことずっと見てたでしょ」
「は、え、」
「シャルルの目線、すぐ気づいたよ」
「はなして、」
「ねえ、好きでしょ、私のこと」
「ひっ……!」
頬に手を当てられて、肩がすくむ。身体が石になったように固まって、頭はうまく回らない。
どうして?
彼女は何をしてるんだ?
俺は何をされている?
わからない。気持ち悪い、こわい、喉がカラカラで声が出ない。
信頼がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
どこか冷静な自分が、頭の中で危険信号を出し続けている。その声はまだよく聞こえない。
「こわくないから……ねぇ、私も好きだよ。好きだから……きっと相思相愛だと思って。文学部に私のこと嫌いな人いないもの」
「ぁ、う……」
「もっとよく顔を見せて。ああ、本当に……」
文学部、という言葉を出されて、冷静に俯瞰した自分の状況がかなりまずいことを悟った。
部長と実質門外漢、この現場で助けを求めたとしてどちらの言葉が信じられるだろうか?むしろ良かったじゃないかと言われるかもしれない。
だがシャルルからの感情は信頼だった。それを超えることはなかったはずだった。
「ご、め、なさ……っ、」
シャツに手をかけられる。抵抗の選択肢は残されていなかった。
だから、部長がどうか穏便に引いてくれるよう、精一杯の言葉で返すしかなかった。
「ごめん……なさい、ぼくは……っ、そんな、つもりで見てなかった……っ」
「……え?」
「ただ、みんなをまとめられて、すごいなって……思ってた、だけで……」
「嘘」
部長が弾かれたように飛のいた。
自由になったというのに、身体は震えが止まらない。両の目から零れ落ちる涙がセーフティマットに染みをつくる。
部長はそんなシャルルの様子を見て、自分の手を見て、ひどくショックを受けたようだった。
「あ…………あは……ご、ごめんね。私、勘違いしちゃってた」
この時に発された言葉が、シャルルを縛ることになる。
「その眼のせいで」
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地毛とはいえ派手で目立つ長髪も、珍しく思える服装も、元より視線を反らすためだ。
誰も見ていないと主張でき、誰にも見られないように。シャルルは進んで目を閉じる。
素を曝け出してはいけない。"勘違い"されてしまうから。
そう強く自分に言い聞かせて、彼は日々を過ごしてきた。
だから、旧友に再会できたとき。
ずっと気を使わないことはこんなに楽だったのかと気付かされて、久しぶりに。少しずつ瞼を開いてもいいのだろうかと思えるようになっていた。
それでも信頼を裏切られた衝撃はあとを引き続ける。
彼が1日中瞼を開くことができるようになったのは、誰もいない水族館に閉じ込められていたときだった。
(……ずっと、誰にも会わず……誰も、俺のせいで悩むことはない)
くらげを指で突いて、シャルルは寂しげに笑う。
再開できたことも、新たな友人ができたことも、本当に嬉しくて。帰りたいと思うことは決して少なくないのに。
こうして、自分の過去に縛られて、環境に淘汰されようとしている。
情けなかった。それでも、居心地がいいことは違いなかった。こんなことは誰にも言えない、と言う相手がいないのに呟くくらいには。
だが、そんな環境もひとりの少女との出会いによってすっかり消え、彼はあっさり新たな縁と共に元の世界へ帰ってきた。
少女の名は春日祥子という。
何やら運について研究をしているらしい。不運な体験はいくらか話せるとシャルルが言うと、名誉助手に任命された。
正直なところ彼女の研究はいまいちよく分かりきっていないのだが、屈託のない笑顔で話しかけてくる彼女と共にいるのは、悪い気分はしなかった。
………………
「あれ……?そういえば、シャルル先輩が目を開いてる所、初めて見た気がする……」
「へえ……こんなに綺麗な海の色をしてたんですね」
………………
うみ?
長らく自分の眼をよく見ていなかったから、シャルルは困惑した。
海の色。そんな色をしていたのかと。
その時はろくに返事を返せなかったが、いろいろあったあとに彼は彼女の言葉を振り返り、かみくだくのに時間をかけていた。
久しぶりに鏡で自分の瞳を見る。綺麗な海の色……かは分からないが、青がそこにあった。
これを見て彼女はそう称したらしい。
《ワタシはシャルル先輩の事好きですよ?》
《だから、これからもワタシの助手でいてくださいね!》
「……っ」
別の記憶が不意に想起させられ、鏡に額を当てる。
心臓がまた、どくどくと鳴り始めた。
鏡に映る自分の眼どころか、顔すら見たくなくて、彼は下を向く。やけに顔が暑い。
「……これは、俺の勘違いだ……」
深夜の独白を聞く者は、誰もいない。