来なさい、の一言に肩を震わせ、近づいてくる小さな影。センゴクはそれを待ちながら、二週間前よりはマシになったと思う。拾ってきた時はこの世の全てに怯えているようだった。話の振り方にもしばらく困らされたものだ。
ロシナンテは恐る恐るセンゴクの机の前に立ち、ぎこちない敬礼をした。執務室に震えた声が響く。
「な、なんでしょうか、センゴクさん」
「そんなに怯えるなと言っているだろう」
「す……」
「"すみません"は禁止だ」
「……いご、気をつけます」
「そう、それでいい」
以前ひどく怯えられたのを思い出して、センゴクは撫でようとした手を引っ込めた。暴力の前兆と勘違いされたのだと分かったとき、彼の『身寄りがない』の裏が見えた気がしたのだ。同時にわかった。それが触れるような話題でないことも。
きっと長い付き合いになる。お互いに少しずつ理解して、慣れていくしかないのだろう。
行き場のない手はとりあえず机の上に置かれ、卓上カレンダーの隅を掠めた。
その時、本来の議題から逸れた疑問が浮かび上がった。触れたカレンダーを持ち上げて、こちらを見つめる金髪に問う。
「……そうだ。お前誕生日いつだ?」
「えっ!?」
「あー赤の……どこにやったか……」
インクを探してのらりくらりと引き出しを漁るセンゴクに対し、いかにも反応に困っているロシナンテ。なかなか見つからないままセンゴクは言葉を続ける。
「誕生日がないなら、私と会った日でもいい。好きな日でも。ああ、今日でもいいぞ」
「……!?」
「いや、今日はダメだな。今から買いに出るのは難しい……あった。で、何日───くっ」
引き出しから顔を上げた彼は、間抜けな顔のロシナンテを直視してしまい、喉の奥から変な音をあげてしまった。
目をまんまるく、口を思いっきり開けているロシナンテ。凄まじいアホ面はセンゴクにとって予想外のもので、こみ上げてくる笑いを押しつぶして耐えなければならなかった。笑ってはいけない。嘲笑されたと思ったらこの顔を二度としなくなってしまう。
持ち前の精神力で自身を律し、センゴクは改めて聞き直す。
「……何日なんだ」
「し、ちがつの……十五日、です」
「そうか、近いな」
丁度今月が七月だったので、十五日に丸をつける。その動きをする中でもロシナンテはアホ面を続けていたから、丸が変な形になってしまった。維持性の高い変顔だ。ツッコミを入れるべきなのか。
書き終えた物を机の上に設置し直し、咳払いを一つ。とりあえず別の話題で彼の顔を戻さなければならない。少し悩んで、自然な流れの質問を選んだ。
「で、なにか欲しいものはあるか?」
「えー!?」
「はァ!?」
更に驚いて盛大にひっくり返ったロシナンテ。垂直に飛んで綺麗に背を打った反応にびっくりしたセンゴクは、慌てて椅子から立ち、彼を起こす。流れで目線を合わせて、立ち膝のままツッコんだ。
「そんな驚き方あるか!?」
「すっ……以後気をつけます!」
「本当にな!頭を打ったら洒落にならん!」
「すみません驚いてしまって」
「こっちのほうが驚いたわ!砲台かお前の体幹は!」
ツッコミの主は騒がしい心臓を落ち着けようと深呼吸する。ボケたつもりのなかった子どもはセンゴクの反応に瞠目して、それから自身と彼に明確な価値観の差があることに気がついた。驚くのを一旦やめて、違いを確かめるために質問する。
「あの……お祝い、してくれるんですか?」
「ん?そうじゃなきゃ聞かないだろう。……祝われたことがないのか?」
「……わからないです」
ロシナンテは回想する。
隠れるように暮らしていた母が病床に臥し、起き上がるのも厳しくなっていたとき。弱々しい手で頭を撫でてもらった夜。
『ごめんね、あなたに何も贈れなくて』
『かあさま……』
『本当にごめんね……抱きしめることだって、できなくて……』
結局母もその日の父も、自分におめでとうと言わなかった。ただ涙と謝罪の言葉ばかりで、祝われたと感じることもなかった。
それはきっと我が子の生を悔やむのではなく、自分に祝う資格がないと思っていたからなのだろう、と気がつくのは数年後になる。八歳のロシナンテは余裕がなかったんだと推測した。隣にいた兄はずっと別のことを考えていて、日付の感覚すら無くしていたから、もっと余裕がなかったのだと思う。
だから、日付を確認された上プレゼントを用意される環境や、多忙にも関わらず時間を割くセンゴクに彼は仰天したのだ。
それと同時に、拾われた自身が恵まれているのだという自覚と、両親や兄に対する背徳感、申し訳無さが次々と湧いてきて、また萎縮してしまう。
「……いいのかな」
「うん?」
「そんな、祝ってもらえるようなこと何もできてないのに、いいんですか?」
「何を言ってる?」
顔色を伺っていたロシナンテは、呆れ返ったセンゴクの顔に困惑した。対するセンゴクは、眼前の子どもが言っていることの腰の低さに嫌気が差す。まだ八歳のガキがここまで謙遜する世というのも嫌なものだ。自分が拾えていない、似た境遇の子が山ほどいるのだと考えるだけで辟易する。
「祝われる側がそんなことを気にするな」
「えっ……」
「いいか?誕生日が来ても、お前はいつも通り過ごせばいいんだ。構える必要も備える必要もない。ワクワクはしていいが」
「ええ……」
「そうしたら、言葉や態度一つからパーティーまで、色々な祝福が勝手にやってくる。来ないときもある。お前はそれを自分なりに受け止めればいい。なあに、学ぶ機会はたくさんあるぞ。ここはクセの強い奴らが多いからな」
センゴクはそっと手を出して、ロシナンテの頭を不器用に撫でる。彼はされるがままでセンゴクを見ていた。何を言っているのか全然わからないという表情で。
それでも撫でる手に怯えなくなっているのを、センゴクは親睦の前兆であると感じてやまなかった。