情という名の 冬のある日、慣れた手つきでインターフォンを押す。数秒経ってから返事があって、古びた扉が空いた。
お目当ての人物は現在外出中らしく、使用人から「せっかくだから中で待ってどうぞ」と言われ家の中へ進んだ。
コタツに入ってコーイチが帰って来るのを待つ。最近は寒いから二人で会う日が減っていた。約半年ぶりである。
使用人は奥のキッチンで夕飯を作っている。互いに無言の時間が続き、食器具が当たる音やなんやがやけに部屋に大きく響く。度々顔は合わせているが、そこまで話したこともない。若干気まずい。
すると使用人が口を開く。「藩田さんは、出かける前特別嬉しそうにしている」「元トップの姫とは別の人物だと聞いた」「もしかして貴方のことか?」と。
コーイチは顔が広いから自分以外の友人もいるはずだ。自分だとは限らない。
しかし使用人は首を振る。ホスト時代とは変わって最近会っている人は少ないらしい。
「家に帰って来ると今度は何を話そうか、どこへ行こうかと口に出すくらいで分かりやすく楽しそうにしている」「まるで恋をしている若者かと見間違える」とわずかに笑って言った。
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「僕はね、恋をしたことがないんだ」
ドクターフィッシュが泳ぐ水槽に手を突っ込みながらかつての上司は言った。
「職を辞するまで、いい接客をしよう」
そう言って濡れた手を向けられた。握り返すをの躊躇っていると人が来て、確かそのまま部屋に戻って……これに関する詳しい話は聞けなかった。もう一度堀り返すのも何だろうと思い、その後も口に出すことはなかった。
恋を知らないホスト、しかしコーイチは姫一人一人に本気で向き合うホストらしくないようなホストであると思う。
ホストは恋を提供する仕事だ。常にナンバーワンであった彼は、周りに多くの恋を差し出していた。
二年弱彼を見続けてきたが、彼の接客を受けて悲しんでいるようなお客様は見たことがない。姫を笑顔にする様は、恋を熟知した男ように見えるがそうではなかったのかもしれない。
彼が血を吐いて倒れた時、以前まで頼もしく大きく見えた背中が、小さく、冷たく、また孤独に見えた。その孤独にはあれほど提供していた温かな愛の欠片も無かった。
自分も他人をどうこう言える立場ではないことは十分に分かっている。同じく自分も今まで人に執着などせず流れに流されながらなんとなく生きてきた。
しかし、コーイチが倒れた時はどうしてか、焦りや恐怖が込み上げていた。アットホームな職場というのは恐ろしい。今まで無かったような情が移ってしまう。
今日、コーイチさんの家に来ているのもその「情」のせいなんだろう。
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「今日は何しに?」
遅ればせながら、要件を聞かれた。顔見知りであるから聞かずとも中に入れてくれたのであった。
「ええと、コーイチさんにお借りした本を返しに……長い間預かってしまっていたので。連絡無しに来てしまったのでコーイチさんが留守とは知らなかったです……すいません……」
気にしなくていいと使用人は返す。
「藩田さん、きっと喜ぶと思いますよ」
「ただいま〜!ああ〜寒っ!」
玄関扉の開く音がする。以前と比べて遅くなった足音が近付いてくる。
「あれ!?ハジメ君だ!久しぶりだね!!」
手提げを床に置いて聞き馴染みのある笑顔と名前が飛び出た。
さて何を話そうか。窓の外では既に日が沈もうとしているところだ。もう少しで夜がやってくる。
禁酒や辞職をした最近のコーイチは、早寝早起きそしてバランスの良い食事を三食摂ることを徹底している。本来なら自分はそろそろお暇した方が良い。
しかし、今日の夜ぐらいは数年前のように二人で話したい___
そんなことをふと思ってしまった。