あまくない夜と、あまい明日 スイカの入浴剤を見つけた。
赤と緑のポップでかわいらしいパッケージ。つい手に取ってそのままレジへ向かったのは、きっとアルコールのせいだと思いたい。飲みすぎた肝臓を労わる粉末剤と、愛するクソブラック弊社の激務に備えたエナジードリンクを3本。そういや切らしていたなと思い出したLサイズのゴムに加えて、キュートなスイカの入浴剤1パックを置いたレジ台を前にして、俺こと菊田杢太郎38歳はふいに思う。
飲みすぎて足元がおぼつかないにも関わらず、これからスイカの甘い香りを漂わせながら誰かとしっぽり頑張っちゃうつもりの見栄っ張りな酔っぱらい中年男。というラインナップになっている気がする。ちょっと恥ずかしい。
珍妙な客と頻繁にエンカウントする夜のコンビニ店員から見れば、俺なんて記憶にも残らないだろうし、そもそも客が買うものに大した興味もなければ、そんな下世話な想像を膨らませることもないだろう。自分でも自意識過剰だとは思う。しかし、一度そう考え及んでしまったら恥ずかしさが止まらなくなる。そんなつもりじゃないんだと言い訳をしたいが、それこそ珍妙な客としてランクインするだけなので止めておく。これまたアルコールの力で、店を出たら早急に忘れることにしよう。頼むぜ黒霧島。ボトル4分の3の威力を見せてくれ。
支払いを済ませ、鞄の底からエコバッグを取り出して商品を受け取る。どう聞いても「アリアスター」としか聞こえない店員の挨拶を背後に「ミッドサマー観た?」と訊き返したいのをグッと堪えて店を出る。何となくあの店員がいる時間帯には、もう二度とこのコンビニには来ないようにしようと誓った。
そんなこんなで、千鳥足で家まで辿り着けば「おかえりなさい」と、酒臭い俺を出迎えてくれる恋人がいる。名前は有古〈イポㇷ゚テ〉力松。12歳下の、かわいいかわいい俺のテディベアくんだ。本人にベアなんて言おうものなら、困惑を通り越したドン引きの表情を向けられるのは想像に容易いので口が裂けても言わないが、心の中では時々そう呼んでいる。内心の自由ってやつだ。
「ただいま~ありこぉ~~~元気にしてたかぁ? ケーキ買ってきたぜ~♡」
クールに帰宅を伝えたいのに語尾がやたらと伸びやがるのは酔っぱらいの様式美だろう。
そもそも、居酒屋を出る前にLINEでやり取りをしたのだから元気なのは分かり切っているのだが、それでも念のために確認しておきたい。愛しい恋人にはいつだって数秒ごとに元気でいて欲しいのだ。
「ありがとうございます……って、大丈夫ですか?」
抜かりなく土産として購入していたケーキの箱とエコバッグを左手で受け取った有古は、同時に右腕でふらりとよろける俺を支えてくれる。平均以上に体格がいい自負のある俺よりもさらに大きく頑丈で肉厚なその身体。抱き止められれば、じんわりと幸せが込み上げてくる。やさしい。あったかい。たくましい。このまま腕の中で眠りたい。
「バカなこと言ってないで、ちゃんと歩いてください」
どうやら脳内から直に声が漏れ出ていたらしいが、まぁ本心なので仕方がない。実際に廊下で眠るわけにもいかないので、リビングのソファまではどうにか支えられながら辿り着こう。家に帰るまでは保っていた気力が、愛しい恋人を前にすると一気に抜け落ちて、酔いも途端に深まってしまった気がする。
「お茶飲みますか? ノンカフェインのやつ」
「ん、飲みたい」
「お湯沸かしますね。その間に着替えられますか?」
「られます」
無事にひとりで寝室へ行けるか怪しい俺のために、有古が部屋着を持ってきてくれた。さすがに着替えの全てを甘えられないので、おぼつかない指先で、もたもたとシャツのボタンを外して脱いでいく。たかだかボタンひとつを外すことがこんなにも難しい作業だったなんてと泥酔する度に驚愕しているのだから、我ながら懲りない呆れた野郎だと思う。
「脱いだやつはそこに置いといてください」
「は~い」
断っておくが、普段の俺はこんなにもだらしなく面倒を見てもらうような人間ではない。有古は黙々と自身の仕事をこなすタイプだが、それでも世話焼き具合を比較するなら、末っ子気質のテディベアくん以上に長男気質の俺の方に軍配が上がる。共働きで忙しい両親に代わり、ガキの頃から家事や弟の面倒を見てきたからか、何でも率先してやってしまう癖が染みついているのだ。それは、同棲生活のあらゆる場面でも発揮されている。だからこそ、有古もこうして時々泥酔する俺のことを放っておかずにいてくれるのだが、それでも限度というものはある。飲みすぎも程々に。健康第一。有古第一。イポㇷ゚テくん大好き。
そんな俺が今、幼児のごとく世話を焼かれているのは、つまりは酒とストレスの組み合わせは危険で恐ろしいという話だ。愛しのブラック弊社が、明日になったら爆発四散していますようにと毎日健気に祈っている。さっさと転職するが吉なのだが、クソッタレな社内体制のまま部下を放っては逃げられない自身の性分も恨めしく思う。
そうして職場や己を呪いつつ、ふらふらと着替え中の俺を横目に、有古がエコバッグから取り出した小さな赤いパックを掲げてみせた。
「スイカの入浴剤」
「ああ、それ~! コンビニで見つけてなんとなく買っちまったんだ。使ってもいいぜ~♪」
「えっ」
「えっ」
予想外に驚かれて、思わずこちらも驚く。
「えぇ~……なに? スイカの入浴剤とか嫌ぁ?」
「いや。えっと、嫌じゃないんですけど。なんか……なんと言うか」
語尾を小さくして何とも言い難そうに口ごもる。寡黙ではあっても、いつも意見は遠慮なく伝えるタイプの有古が、こんなに躊躇うのは珍しい。
そんなに言いづらいことなのか? ただの入浴剤だぞ? え? それとも、俺は何か妙なものを買っちまったっていうのか?
我が家の恋人のもとへ帰ってきた幸せから一転、珍妙な不安がじわじわと襲ってくる。いや、たかがスイカの入浴剤だろう。お湯を赤く染めてスイカの甘い香りを漂わせて、心身をリラックスさせるだけの、ただの風呂用の粉末剤だ。別におかしなものじゃないよな? あれ? おかしなものなのか? リラックスさせる粉末剤って何だ? それってドラッグじゃねぇのか? えっ? それはやべえぞ。嘘だろ? 俺が知らなかっただけで、入浴剤って違法薬物だったのか???
どうやら俺の頭は自分で思っているよりも遥かにアルコールに侵されちまっているらしい。最早、冷静な思考回路は焼き切れて、緊張に震えた手が止まる。いまだボタンは外し終わっていない。傍から見れば中途半端にはだけたシャツが一層、悲壮感を漂わせているに違いない。逮捕の可能性に怯えだした俺を知ってか知らずか、まぁ知るわけもないのだが、そんな無駄に豊かな俺の想像力を霧散させるように、有古が言い淀んでいた続きを口にした。
「菊田さん、スイカが好きじゃないですか」
確かにスイカは俺の大好物だ。旬の時期には毎年、身体づくりの節制と甘く瑞々しい糖分との狭間で悩みながら、結局、誘惑に負けて玉のまま買ってきてしまう程には大好きだ。だからして、酔ったノリとはいえ惹かれて入浴剤まで買ってしまったのだ。有古は俺が好んでこれを買ったと思っているのか。確かにそれは間違いではない。ああ、なるほど。俺が使いたいのを我慢して譲ってくれている、と考えているんだな? はは~ん、合点がいったぞ。要するに有古は遠慮しているのだ。かわいい奴め。なんだよ何だよ、心配して損しちまったぜ! 我ながら考えすぎにも程がある。まったく、酔っぱらいの情緒は忙しいったらありゃしねぇな。
「あぁ~! いやいや、いいんだよ! 俺が使いたいってわけじゃなくて何となくノリで買っただけだからさ~お前が使ってくれていいんだぜ」
「そうじゃなくて……えっと、これを使ったら身体にスイカの匂いがつくでしょう?」
ところが、どうやら遠慮でもなかったらしい。パッケージに『あま~いスイカの香り』と書かれているから、きっと有古の言うとおりになるだろう。
「だから……」と有古は続ける。「菊田さんの大好物だし、その……何となく照れるというか……」
そう恥ずかし気に吐き出された答えに俺の時が止まった。
いま、テディベアくんは何と言った?
スイカの匂いが身体につくから……照れる?
俺の、大好物の、匂いが、自分の、身体に、つくから、照れる……???
大仰に目を見開いて片手で口を抑えたのは演技ではない。天を仰いだのも自然にそう身体が動いたからだ。それほどに、本当に、心から、一切、そんな下心には考えが及んでいなかったのだ。だからこそ、穢れのない純粋無垢100パーセントの言葉が俺の口から勢いよく飛び出した。
「有古が俺の大好物になるってことか!?!?!?」
「菊田さんっ声がデカいです!」
慌てた有古が口元に人差し指を立てて制止する。確かに日付変更線を越えた時間帯に出す音量ではなかったが、しかし、ほんのりと頬を染めて有古に照れるなどと言われてしまったのだ。ただただ、ノリで買ったから適当に使っていいよという軽い話のつもりだったのに。それがこんな、俺の大好物の匂いを、甘くて瑞々しいあの香りを、かわいいかわいい愛しのテディベアくんが全身にまとうだろうその事実を、他ならぬ当人の口から教えてもらったのだからして、襲ってきた衝撃の大きさが声量に乗ってしまうのも無理はないじゃないか。
「ええ~~~!!……え? マジでそこまで考えてなかった……最高じゃねえ!?」
心の底からの本音が丸出しになる。
「よし! 今すぐ風呂入ろうぜ! 俺も一緒に入る~!!」
「駄目ですよ、酒飲んでるんだから!」
「少しくらい大丈夫だって~~! な? スイカくんを食ってから寝たい♡」
さらなる本音が自然に口から流れ出す。酒の力に侵されてはいても、飾り気のない人類の原始的な欲求はすこぶるに強い。甘いスイカの香りの中でイチャついてから眠りたい。要するに、今すぐヤりたい。
「スイカくんって……とにかく駄目です! 着替えてお茶飲んだら寝ましょう」
「え~~! ちょっとだけ、な? 先っちょだけ♡」
「それって普通は挿れる方がお願いする台詞ですよね?」
「突っ込む方が言うのは最低だろ~~?」
「突っ込まれる方が言うからって、いい感じの台詞になるわけじゃないですよ」
それは確かに。納得させられながらも「ええ~~」と、不満の声は忘れずに吐く。とは言え、これ以上に欲を押しつけるのは紳士じゃない。当たり前だが無理やり相手をさせるのは趣味ではないし、愛する恋人に嫌な思いもさせたくない。じゃれ合いの範疇を越えないように引き際を見誤らない程度の理性は、酔っぱらいの心にも幾分かは残っているのだ。
「じゃあ、明日! 明日は一緒にスイカ風呂に入ろう~? な? な?」
いいだろ? そう甘えるように囁いてみれば「……明日ならいいですよ」と、観念した様子で、それでも満更でもなさそうな声色と表情が返ってきた。俺は有古にベタベタに甘い自覚があるが、有古だって俺には存外にも甘いのだ。そりゃそうだろう? だって俺たちは愛し合っているんだからな。ふふん。やっぱり俺のテディベアくんは世界で一番、最高にかわいくて甘くて参っちまうぜ。
そうして、紅くなった眼前の顔をうっとりと眺めていたかったが、どうやら、酔っぱらいの身体にはいよいよ限界がやって来たらしい。体内を巡りにめぐった黒霧島4分の3のパワーは強力で、とうとう白旗を掲げてしまった俺は着替えも半ばで、にんまりと幸せな笑顔を貼りつけたままソファに崩れ落ちて深い深い眠りの海へと沈むのだった。意識が遠のくその瞬間に、呆れたような溜め息と柔らかな笑い声が聞こえた気がした。
結局、有古には俺を寝室に運ぶ面倒までかけてしまったが、それは明日に諸々のサービスで相殺させてもらうとしよう。たくさん望みを叶えてやらなきゃな。
明日は頼んだぜ、スイカの入浴剤。
ふたりが繋がるその時間を、甘ったるく演出してくれよ。
――
~翌日のおまけ~
「まぁ、スイカの匂いがしなくてもお前は俺の大好物なんだけどな♡」
「…………そういうの口に出されると恥ずかしいです」
そうして小さく文句を言いながらも、しっかり固くしているかわいいテディベアくんを、俺はスイカの香りとともに柔らかく甘く包み込むのだった。
end.