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    ゴ用 / 菊受固定 / 有菊9割

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    有菊
    登別の朝

    匂いにまつわる掌編①〈煙草〉 遠方の空がほんのりと明るさを取り戻し始める頃、有古は宿で眠る皆が起床するよりも早く目を覚ました。隣で寝息を立てる上官を起こさないように布団から抜け出し、素肌に浴衣を羽織り手水場へと向かう。
     第七師団の保養所に指定されているこの温泉地の宿には、日露戦争で負傷した多くの兵士たちが逗留している。まだ夜に近いほどの早朝には、手水場や厠を使用している者は少ない。皆の起床時刻となれば混み合い、一等卒の順番は有無を言わさず後回しとなるので、一時間ほど早く目を覚ますことが有古の常となっていた。
     今朝は先客の男がひとり、ロウソクの灯りの中で顔を洗っていた。男は別の連隊の上等兵で、療養へやって来たばかりの頃には名も知らぬ相手だったが、この時刻の手水場で毎朝のように会うので互いに顔なじみとなっていた。
    「おはようございます」
    「おう。おはよう」
     有古が挨拶をすると、水の滴る顎を持ち上げて快活な声が返ってくる。脇に置かれた手ぬぐいに男が指を伸ばすと、布の先がその横に置かれた煙草とマッチ箱に引っ掛かり、濡れた地面の上へと落ちそうになる。それを有古が咄嗟に手のひらで受け止めた。
    「おっと、すまん」
    「いえ。濡れなくて良かったです」
     元の位置へふたつの箱を戻すと、有古は男の横に並び、桶に汲んできた湧き湯で顔を洗う。持参した手ぬぐいを湯に濡らして絞り、閉じた双眸へと充てる。意識を覚醒させるには冷えた水の方が良いのだろうが、柔らかな温もりは寝不足な瞼の腫れを溶かしていくようで心地良い。
     熱と暗闇に再び微睡みへと誘われないうちに、ふぅと息を吐き手ぬぐいを外すと、「あとで一服どうだ? 礼とも言えんが」と、男が煙草の箱を指先で軽く叩いてみせた。
     手水場が設置された土間の裏側には小さな中庭があり、朝仕度を済ませた者たちが一日の始まりの煙草を吹かせるには、あつらえ向きの場所となっていた。兵舎や病院とは違い、宿では自室での喫煙も許可されているが、それでも中庭で一息をつく者は多い。早朝の澄んだ空気とともに肺へ送る紫煙は、きっと格別なのだろうと有古は想像する。
    「ありがとうございます。でも、自分は吸いません」
    「そうなのか?」
     誘いを率直に断ると、男が意外そうな声色と表情を向けてきた。
     それに応えるように「吸わん男は珍しいですからね」と有古は小さく笑って返したが、「いや。好まん奴もいくらだっているさ。ただ、」と男は続けた。
    「時折、煙草の匂いをさせているから、てっきり喫むのだろうと思ってな」
     言われ、有古は、はたと気付く。
     纏った匂いの出所は? 思い巡らすまでもなく、先刻まで腕の中に眠っていた上官の顔が即座に浮かぶ。
     ひとつの声も音も漏れぬようにと襖も窓も全て閉めきった部屋では、煙は逃げ場がなく室内で籠ったままに霧散する。慣れきった嗅覚では気付けなかったが、そうして髪や衣服に移った匂いは、まるで己は“彼”のものなのだと周囲に主張するかのように身体に纏わりついているのだろう。
     隣に立つ男の言葉には何の含みもないように思えたが、一度そう思い至ってしまえば、どうにも気恥ずかしさが頭をもたげる。
     昨夜もひとつの布団の中で、寝入りに紫煙を燻らす上官の横顔をぼんやりと眺めていた。行為が始まる直前にも、その唇から吐かれる苦い煙が合図となった。そうして交わり分け合ったのは温もりと体液のみではなく、彼が好むその煙草の匂いも同時に共有していたのだ。そしてそれは、昨晩だけの話ではない。
    「……同室の者が好んで吸うからでしょう」
     嘘ではないが、その裏に隠れる意味を男が察しないようにと願う。
     頬が火照るのは湯で顔を洗ったせいではないだろう。有古はその熱を隠すように、すでに冷えてしまった手ぬぐいで再び顔を覆った。

    〈了〉
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