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    ゴ用 / 菊受固定 / 有菊9割

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    有菊
    気に入りの香り

    匂いにまつわる掌編②〈練香油〉 菊田の気に入りの練香油が売っていないのだという。
     軍の保養所とはいえ宿には兵舎のように酒保はなく、登別の町も宿や商店が増えてきてはいるものの、軍都の旭川ほどにはまだその数も多くはない。店に置かれた整髪に使用する油の種類も限られており、日露前までに菊田が愛用していた品がこの辺りでは売られていないのだ。
     出征で丸刈りにする前には、菊田は伸ばした髪を七・三に解き分け練香油で撫でつけており、その西洋的な髪型が彫りの深い顔立ちによく似合っていた。第七師団へと移動して来た頃には、東京という大都会からやってきた男は、やはり洒落者だと持て囃されていたくらいだ。菊田は得意げな面持ちで「そうだろう? もっと褒めてもいいんだぜ」などと調子良く返しながら、実際はその東京の上、埼玉中部の田舎の出なのだと暴露して笑いを取り、元来持ち合わせている気さくな性格ですぐに多くの者と打ち解けていた。
     旭川の陸軍予備病院から登別の保養所へ移り、すでに療養期間も一年ほどが経過した。再び伸びてきた髪を整えるために、この日は逗留している宿から離れた登別駅付近の商店まで、菊田と有古は連れ立ってやって来ていた。宿の近くでは商店にも理髪店にも目当ての練香油がなかった為に、馬車に乗り二時間をかけてここまで来たのだが、この店にもやはり菊田の希望する品は置いていなかった。
    「もっと大きな街でしか売っていないのかもしれませんね」
    「……旭川で買い溜めしておけば良かったな」
     棚に並ぶ“目当てではない”二種類の髪油を前にして、菊田はため息をつく。
    「まぁ、仕方ない。このどちらかを買っていこうか……香りが良いといいんだが」
     結局、希望の品が手に入らないのならば宿の近所で買えば良かったと後悔もするが、わざわざ一里半ほども離れた店までやって来て手ぶらで帰るのも口惜しく、菊田は目の前の箱のひとつを手に取った。〈チェリー練香油〉と名づけられたその商品の裏側に小さく記載された成分を読む。もう一方の品も手に取り同じように文字を読む。そうして、眉間に皺を寄せて唸る菊田の横顔を有古は見やる。
     ――前髪が目元にかかる姿も似合うと思うのだが。
     現在の菊田は、伸びた前髪を自然のままに下ろしている。端正と言い切るには粗野さが勝るが、窪んだ眼窩と切れ長の瞳に落ちる黒髪は色気を孕み、それを有古は好んでいた。菊田に伝えれば、誇らしげな表情を向けながら照れ隠しの軽口が返ってくることは想像に容易い。しかし、懇意の仲とはいえ公にできる関係でもなく、あくまで相手は五つも階級が離れた上官で自身は部下の従卒である。率直に好みを伝えるのも憚られるので、言葉にはしないでおいた。そもそも、目元に触れる髪が鬱陶しくなってきたのだと、菊田本人が元の髪型へ戻したいと希望しているのだからして、それを止める権利もない。前髪を下ろした姿ならば、時折、夜の洗い髪が拝めるのだ。それで充分だろうと、有古は己を納得させる。
    「でも、あの香りが好きなんだよなぁ」
     愛用の練香油に思いを馳せているのだろう、菊田が諦め悪く独り言つ。
     確かに、旭川にいた頃の菊田は煙草の匂いとは別に、いつも柑橘のような良い香りをうっすらと漂わせていた。あれが気に入りの練香油の香りだったのだろうと有古は思い出す。
    「こちらの髪油も良い香りですよ。嗅がれてみますか?」
     ふと、そこへ店主が声をかけてきた。相手をしていた客が店を出たので、今度は商品棚の前で悩むふたりの後押しにやって来たのだ。
     その申し出に菊田が二つ返事で是非にと乞うと、店主は箱を開けて藍白の硝子瓶を取り出し、蓋を回して菊田の顔の手前へと小瓶を傾けた。瞬間に、ふわり、とほんのり甘い香りが鼻腔をくすぐり、菊田の瞳が薄く見開かれる。
    「おお。確かにこれも良い香りだな」
    「桜の香り付けがされているんですよ。商品名の“チェリー”というのは、さくらんぼや桜のことで」
    「へぇ。でも、野郎が使うには少し甘すぎやしないかな?」
    「そうですか? 軍人さんは鼻筋のとおった男前でいらっしゃるから、甘い香りも小粋でお似合いかと」
    「参ったな。商売上手だねぇ」
     店主の接客口上と小気味良く会話をしながら、菊田は小瓶を受け取り、再び鼻先を近づけて「うん」と、ひとつ頷いた。そして、背後で静かに待つ部下へと小瓶を差し出し、柔らかに口角を上げて見せた。
    「有古。お前はどう思う?」
     意見を求められ、有古も顔を近づける。香りが鼻腔を通り抜けると、桜の花というよりも旭川にいた頃に食べたことのある和菓子が脳裏に浮かんできた。甘くて、そして、美味そうだ。およそ整髪用の油に抱く印象ではなかったが、それが有古の素直な感想だった。
    「ああ、とても良い香りですね。俺は好きです。何というか……その、桜餅みたいな匂いで」
    「「桜餅」」
     菊田と店主の声が重なると、「食い意地が張っていますかね」と、俯き気味に有古がはにかむ。
     すると、「じゃあ、これにする」と間髪を入れずに菊田が“桜餅”の購入を決めてしまった。
    「えっ、俺の好みで決めていいんですか?」
     あまりの即決に驚き焦った有古が問うも、「いいんだよ。毎日一緒にいる奴が不快じゃない匂いの方がいいだろ? 好みだと言われたら尚更だ。まぁ、少し甘すぎるが俺も嫌いじゃないしな、桜餅」などと返されては、有古は口を閉じるしかない。
    「もう一本の香りは確かめなくていいですか? そちらはもう少し独特な香りですけれど」
    「ああ、必要ない。“桜餅”を包んでくれ」
     そうして菊田は、棚に置かれた在庫の六本を全て店主に手渡した。その数を使い切るよりも、療養を終えて旭川に戻り、念願である愛用の練香油をいつでも手に入れられる状況となる方が、恐らくきっと先だろう。菊田は“桜餅”を一時期の代替ではなく、新たな愛用品にすると決めたのだ。それほどに気に入った理由は他でもない自分が好んだからなのだと知らされて、有古は居たたまれずに緩みそうな口元を手のひらで覆い隠した。
     菊田が有古を買い物に同行させたのは、荷物持ちや登別の町の案内というだけではなく、要するに“懇意な”男の好みの香りを知りたかったのだ。
     風呂敷に包まれる“桜餅”を待ちながら、菊田は有古が押し黙っている理由を察したようで、「俺はかわいい部下に嫌われたくねぇからさ~。ヤニ臭ぇばかりの上官だと思われちゃ悲しいわけよ」と、茶化した調子で言い訳をする。それがおかしくて有古は思わず吹き出しそうになるものの、にやけ顔を晒せば「おっ珍しいな。もっと見せろよ」などと、からかわれるのは目に見えているので、咳払いで誤魔化した。
     しかし、だけれど。
     有古は心の内で抑えきれない本音を吐く。
     ああ、くそっ。
     どうしたって、愛らしいと思ってしまうじゃないか。

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