匂いにまつわる掌編③〈雪〉「まだ十月になったばかりだってのに、今日はやけに冷えるな」
北海道の夏とも秋とも言える涼しい季節から、厳しい冬へと移る歩みは早い。登別の町は太平洋側西部に位置し、北海道の中では比較的温暖な地域で、第七師団の本部が置かれた北中部の旭川の寒さよりは幾分マシではあった。それでも、関東育ちの菊田からしてみれば寒冷地に変わりはなく、北海道へやって来てからは合わせて三年ほどが経つものの、冬の訪れの早さと長さには毎年驚かされている。
行李から冬用の外套を取り出す菊田の横で、有古は換気で薄く開けていた窓を閉めながら、薄暗い灰色の空を見上げた。
「夜には雪が降りますね」
「分かるのか?」
外套のほこりを叩きながら菊田が問うと、「雪が降る前の匂いがするんです」と、事もなげに有古は返す。
「雪の匂い?」
「上手く説明はできませんが、何となく空気の匂いが変わるんです」
「へぇ。それはお前の特殊な能力か? それとも、北国育ちってのは皆そうなのか?」
「皆かは分かりませんが、俺のコタン……村の人間は自然と分かっていたと思います。あと、谷垣も分かると話したことが」
「ああ、あいつは東北だったよな。秋田だったか」
「はい。マタギなので天候には敏感なのだと思います」
「確かに、山に入るにゃ重要だよな」
菊田の生まれは埼玉中部の農村で、関東といえども冬場になれば雪も降る地域だが、北国の降雪量と比べれば慎ましいものだった。のらぼう菜の収穫時期には、畑の緑色の上に白糖がまぶされたように薄く雪が積もっていたことを思い出す。登別よりも寒い旭川でも二年ほどを過ごしていたが、それでも雪が降る前の匂いなど菊田はこれまでに気にしたこともなかった。鶴見の行動を見張り、計画に加担し、そのうちに日露戦争が開戦となり、旭川で過ごした日々は雪の匂いを感じられるような情緒ではいられなかった、ともいう。
「ああ。でも、雨が降る前には分かるな。土の湿ったような匂いというか……これも説明が難しいな。同じようなものか」
「そうですね、雨も分かります。雪とは少し違う匂いですけど」
空を眺める有古につられ、菊田も窓の外を見やる。寂しげな空の色を表すように、しんとした空気が張り詰めて静寂が広がっている。清々しく響く滝湯の水音と、湯治客や働く者たちの穏やかな声だけが、遠くから小さく聞こえてくる。
登別へやって来てからは、ずっと静かだ。“今”だけが静かなのだと、菊田は空へ向ける視線を何処ともない空間へと落とした。
「ここで長く療養していたら、そのうちに俺も雪の降る匂いが分かるようになるかな」
他愛のない冗談として、叶えられない夢を口にする。
首に掛けられた鎖から解放されて、お前の隣で長く、長く、ここに居られたならば。
俺には、それを願う資格など無いというのに。
秘めた想いは腹の底で雪を溶かすほどに熱を上げながら、それでも、延々と燻ったままだ。
〈了〉