匂いにまつわる有菊掌編④〈肌〉 立て付けの悪い雨戸の隙間から日光の筋が暗い室内に伸びている。糸のような白い光が差す先には獣のような男がふたり、襦袢をはだけた姿で蠢き貪り合っていた。口腔を食む水音と布が擦れる音、そして声色の違う荒い息遣いだけが、この空間を支配している。
はぁ、と絡む厚い舌を解けば、名残惜しそうな吐息が唇の端から漏れて出る。互いの胸の鼓動を肌越しに感じながら、血管の浮き出た太い腕に腰を掴まれた菊田の甘い声がその先をと欲張り、強請る。
「有古。なぁ、このままいいから……もう準備してるから、できる」
菊田が落ちた前髪とともに額を肩に擦りつけると、ざり、と鳴る小さな音と振動が有古の皮膚の上を走る。熱を孕み敏感になった肌は、それだけで洪水を押し止める堰を壊してしまいそうだった。
「……でも、まだ俺は風呂に入っていませんから……このままでは……っ」
苦し気な息遣いで、なおも理性を保とうとする有古の姿に、こんなにも猛るものを押し付けておいて何を今更といった表情を菊田は隠さない。制する糸が切れるように耳朶を食み舌先で遊ぶと、有古の背中がびくりと跳ねた。
「いい、いいから。そのままでいい……頼む」
懇願する瞳が泣くように揺れて、有古の欲が煽られる。菊田の指先が上気した頬を優しく撫でると、有古の唇が柔らかく触れてすぐに離れた。
「……汗臭く、ありませんか?」
その大きな体躯には似合わないほどの小さな声で、恥ずかしそうに訊ねてくる。それが可愛くて、菊田は目を細めて、もう一度褐色の頬を撫でた。
だけれど、もう限界だ。
「ああ、汗臭ぇな」正直に答え、「でも、いい。それがいいんだ。だから、早く」と急かす。
触れていた指先を広げ両手で頬を掴み、眼前の双眸を矛のような視線で射る。これは懇願の形をした上官の命令なのだと暗に滲ませれば、射抜かれた部下はもう、捕らえられた獲物のように大人しく、忠実に従うことしかできない。
我ながら狡い野郎だと、菊田は心の内で苦笑する。けれども、もうこの手を離すことができないのだ。
軍袴の中で圧迫された若い雄の輪郭を指の腹で撫であげると、喉の奥で唸る声が耳元に響き、菊田の腰を疼かせる。
「なぁ、早く」と、再び焚きつければ、濡れて艶やかな睫毛に縁取られた瞳が焼けるような熱を宿す。そうして、有古は菊田の手首を掴み布団の上へと縫い付ける。そのまま手のひらを滑らせて指と指を絡み合わせ、鍛え上げられた白い肢体をさらに分厚く汗に照る肉体が包むように覆い被さった。
はらり、と縛る紐が緩み、波を打つ焦げ茶色の長い髪が菊田の頬を掠める。それも気にせずに、菊田は眼前にある太い褐色の首筋に鼻先を埋めて深呼吸をした。
ああ、ああ。
有古の匂いだ。
愛しい男の生きる匂いだ。
お前の生命の匂いに包まれて、何もかもを覆い隠されるのが好きなんだ。
ただ、ひと時の逃避だと分かっていても。
俺の身勝手な欲望がお前を苦しめるのだと分かっていても。
ああ、それでも、どうしても。
束の間の幻でも、この匂いに覆われていたいんだ。
どうか許してほしい。
いいや、許されるわけがない。
許さないでくれ。
だから、どうか、お願いだ。
お前の焔で、俺の腹を、胸を、全てを貫いてくれ。
その本音を、声に乗せることはできない。
〈了〉