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    ゴ用 / 菊受固定 / 有菊9割

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    杉菊
    金塊争奪前後の杉元、小樽にて

    彼のひとの マッチの頭薬がこすれ発火する音と同時に苦い煙が鼻先をかすめる。店の軒先に立った男が、買ったばかりなのだろう煙草の煙を気持ちよさそうに吐き出した。
    「おい、」と杉元は呼びかける。店先で商品を眺めていたら、一歩ほどの近い位置にいた見知らぬ男の吐いた煙が顔面に直撃したのだ。文句――傍から見れば“凄む”ともいう――のひとつでも言ってやろうと咄嗟に声を出したが、ふと呼び起された過去の記憶がその続きを喉の奥へと飲み込ませた。
    「……なんだい兄さん?」
     ところが、間近にいる男の耳にその一言が聞こえなかったはずもなく、少しばかり怖じ気の見える表情ながらも男は反応を返してきた。
    「あ、いや……」
     気色ばんで声を出したものの、怒りはすぐに別の感情に覆われてしまったせいで、杉元はばつが悪く口ごもる。それでも、文句を押し止めた心の内が素直な言葉を続かせた。
    「その煙草って、なんて名前?」
    「え……? あぁ、なんだ」
     てっきり喧嘩を売られるのだろうと高を括っていた男は、拍子抜けしたように表情を和らげた。そして、着物の袂から小さな紙箱を取り出してみせた。差し出された白い紙箱には朽葉色で英字が並んでいる。杉元には読むことができなかったが、それは大した問題ではなかった。
    「ありがとよ」
     殊勝に礼をしたのも束の間に、杉元は男の手から瞬時にその箱を奪い取った。そうして、慌てて抗議する男を尻目に箱を掲げて店の奥にいる店番へと声をかけた。
    「これと同じやつまだある? 一箱ほしい」

     その日、杉元は遣いのために小樽の街まで降りて来ていた。目的を終え、アシㇼパやコタンの子どもたちに菓子でも土産にしようかと商店の並びを眺め歩いていた時、ふいに流れてきた煙草の煙が杉元の目と鼻を覆った。赤の他人の吐いたものが愉快なはずもなく、苛立ちの声を反射的に向けたが、しかし、すぐにその匂いが懐かしいものだと気付いた。
     杉元は店を出て、通りに設置された長椅子に荷物と腰をおろした。ニシン漁の季節ではないため漁港ではヤン衆の姿こそまばらではあったが、北のウォール街とも呼ばれる小樽の街中の通りには人の数が多い。
     場所は遠く違えども同じく賑やかな街中で、過ぎた日にその懐かしく苦い煙の匂いと出会った。その想い出は今も色あせていない。
     外套の隠しから煙草を取り出す。紙箱を凝視したところで、やはり印刷された英字の読み方も意味も分からなかったが、その意匠は確かに見覚えのあるものだった。それは東京で出会った頃に菊田が好んでいた煙草だった。
     箱の表面を軽く撫で、杉元は薄く目を細める。下部を押して中箱を滑り出し、並んで揃えられた一本を取り出した。箱の上で先端を軽く跳ねさせると、巻紙の中の乾いた葉が少しばかり凝縮されて、上部にごく小さな隙間ができる。その部分の巻紙を折り潰し吸い口として、咥えた先に火を点ける。軽く吸い込みながら火をあてれば、じりじりと先端が赤と黒に焼けていく。しかし、すんなりと煙を体内へ流し込めるかと思いきや、喉が刺激されて大きく咳込んでしまった。やはり煙草は苦手だ。むせて涙目になりながら、杉元はひとり苦笑った。
    (あーあ……俺はアンタみたいに上手く格好つけられないみたいですよ、菊田さん)
     早々に吸うのを諦めて、手元で少しずつ黒い灰となっていく煙草の先を見つめる。
     東京でのあの日々の中、一度だけ菊田の煙草を吸わせてもらったことがあった。気怠そうに、または旨そうに、時には何かへ想いを馳せるように紫煙を燻らす大人の男。まだ徴兵される年齢にも満たない若者の目には、そんな菊田の姿が格好よく見えた。それで、どうにも真似してみたくなったのだ。恩を感じていた贔屓目で余計にそう見えていたのかもしれない。
     自身が陸軍の面子のために菊田に都合良く利用されていることは、まだ十代だった杉元も理解していた。それでも、野良犬として捨て置かれてもおかしくはない自身に対して、偉ぶらず、蔑みもせず、肩を組み兄弟のように“人間”として目線を合わせてくれる大人の在り方は、その時の杉元にとって代え難い存在だった。家族が結核に侵されて以降の村の中でも、そしてその故郷を出た後でも自尊心を多く削られてきた杉元が、ほんの小さな憧れと信頼を抱くには充分だった。
     とある日、食後に煙草を呑む姿をぼんやりと見つめていると、視線に気付いた菊田に「なんだ?吸いてぇのか?」と問われた。こくりと素直に頷けば「クソガキが一丁前に」などと揶揄われ、自身でもガキ臭いと感じていたので気恥ずかしかったが、菊田は笑って一本を譲ってくれた。丁度、その前の年から未成年の喫煙は禁止になったばかりだったが、規律の厳しい軍隊の中ならば兎も角も、市井では未だその法はあってないようなものだった。そこで杉元は初めて煙草の吸い方を知った。しかし、結果は慣れない煙に喉を焼かれて咳込む羽目となり、結局二本目には続かなかった。
    「まぁ、まだお前には早かったな」
     そうして楽しげに肩を揺らしながら、吸いかけの煙草を杉元の手から貰い受けて、菊田は自身の口に咥えなおした。その時に抱いたほんの小さな胸のさざ波を杉元は今も覚えている。
     ふたりが過ごした日々はほんの二週間ほどで、互いを深く知れるほどの時間ではなかった。杉元は菊田という苗字と、第一師団の軍曹で士官学校にて指導教官をしていること、そして弟を日清戦争で亡くしたことしか知らず、菊田に至っては札幌で意図せぬ再会を果たすまでは“ノラ坊”の本名を全て知ることさえなかった。あくまで、菊田が仕事を遂行する間だけの関係で互いに深入りはしない。そんな暗黙の了解があった。けれども、今もなお杉元を形作る芯の部分に菊田はその根を張っている。
     軍帽のツバに手を伸ばす。同時に、煙草の灰が指に触れそうなほどに短くなっていると気付き、地面に置いてその姿が全て灰になるのを見届ける。
     菊田に譲ってもらった“よすが”は数々の戦いの中でともにあり、毛羽立ち、汚れ、補修のあとが多く残っている。傍目にもすでにボロボロの状態だが、それでも今もずっと肌身離さずに被り続けている。杉元にとって故郷を離れた後に生きた心地のした短期間の想い出は、その軍帽の中に詰まっている。何より、菊田は持ち主の力が物に宿ると信じていた。そうした心の拠り所を持たなければ死地には立ち続けられなかったとも言えるが、それでも菊田がそう信じていたのならば、きっとこの軍帽にはその力が宿っているはずだと、杉元こそが今はそう信じている。
     しかし、それはもう心を殺し血を流すための“よすが”ではない。今は自身が選んだ道を歩むための“導”として、杉元の頭上にその存在はあり続ける。
     軍帽を脱ぐと蒸れた髪の表面を柔らかな風が吹きつけて心地よい。杉元は手元に視線を落とし、藍色の正面中央にある古く小さな縫い目を指先で撫でた。地面の煙草は燃え尽きて、その残り香だけを漂わせる。煤けた軍帽と、懐かしい煙草のにおい。

     ――――ノラ坊。

     往来は賑やかな人波の声を響かせる。耳にしたことのない、見知らぬ者ばかりの声色が重なっている。
     けれど。
     目を瞑ると、再びあの名を呼ぶ声が聞こえるような気がした。

    〈了〉 
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