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    なめくじ

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    なめくじ

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    ノーペイン・ノーゲイン
    書きたいところだけ書いてみた感じ

    ペイン・パッチワーク・ペイン 化粧を覚えた時に絶望した。美しくなった自分に寒気がした。ああ、そう。今までずっと、化粧なんてまだ早いと嗜める教師たちは、あのような醜いすっぴんを眺めていたわけだ。あたしの顔は手を加えた方がよっぽど美しく、可愛らしくなっていて。これまで十四年を共に過ごした顔面は、嫌になるくらい汚らしく思えた。
     ただでさえ、理想に程遠い自分の顔は。理想とは違う可愛げがあったわけではなく、ただの醜悪な見目であったと気づいてしまった。
     親からの賛美は世辞に違いなく、友人からのアドバイスは嫌味に違いなく。たとえこの認識が嫌なひねくれであったとしても、あたしが自分の顔を好けない時点で、あたしの人生は終わりだった。
     曽祖父だか、その上の祖父だか。とにかく遠い祖先に、たった一人外国の人間がいた。それだけであたしは理想に遠のいた。
     昔祖母から譲り受けた日本人形の、白い肌と黒い髪。そして、それによく似合う、真っ赤な口紅。茶色味のかかる蓬髪と、目立つほどではなくとも確かにあるそばかす。着物なんて到底似合わないスタイルは、死にたくなるくらいに最悪だった。
    「そんなふうに思わないでよ、もったいない。莉杏ちゃん、可愛いのに」
     そうだね。あたしも、友人であればあたしにそう言う。努力で埋まるものではない。しかし体にメスを入れたとて、理想になれるとは限らない。こんな体をどう愛せと言うの。
    「好きだけどな、伊藤みたいなの」
     そうだね。あたしも、彼氏であればあたしにそう言う。祈りで変わるわけではない。しかし、生まれ変わりに賭けたとして、上手くいくとは限らない。それでも理想は捨てられない。
     あたしはいつまで頑張ればいいのか。
     あたしはいつまで目指せばいいのか。
     あたしはいつまであるけばいいのか。
     ‥‥‥‥ねぇ、あたしは、いつまで。
     あたしにいつまで苦しめと言うのか。


     風谷秋水は憎まれるに足りる容姿を持っていた。声を持っていた。射干玉に似る眼球も、雪の染み込んだような肌も、美しい緑髪も、持っているだけで人目を引く。憎むまではいかずとも、それに羨望も賛辞も向かないのは、余程の勘違いか美人だけだ。
     そんな女をいじめた理由は、と問われても。あたしは頭が悪いから、上手い言語化なんてできやしないのだ。
    「だって気味悪いじゃん。理由なんてなくてもいいよ。アレは、あたしたちとは違うんだから」
     同級生に何故いじめているのかと聞かれた時、反射的に答えたものが全てだと思う。あたしたちとは違う何かにしか見えない。だから迫害する。敵対する。それしか理由がなくても、それだけで十分に足りた。足りていなくても構わない。あたしと同じように思う女子は、この学校にいくらでもいる。同意の数が、あたしの正しさを証明している。
     恐れるものなんて、何も無いのだ。
     よくもまぁ、とその男は続けた。
    「自分より十何センチも身長高い女に、唾吐けるよな。そこはすごいと思う」
    「何、嫌味?」
    「そんなふうに、あいつのことを意味わかんない生物だと思ってんなら、よくまぁ突っかかれるよな。俺なら、自分よりもデカくて、何もわからないやつ、関わりたくも無い」
     閉塞の匂いが立ち込めている。蝉の鳴く声が意識をぼやけさせ、窓から吹き込む申し訳程度のそよ風は馬鹿にされている気分になった。着飾るために垂らした触角のような前髪が、首に張り付いて不快だ。
    「お前はすごいよ、伊藤。同調圧力に膝を折ったわけでも、指導者を煽る愉快犯とも違う。沈黙で場を濁し、最後には逃げ切る卑怯者とも違う。紛れもなく、言い逃れしようのない犯罪者だ」
     鋭い言葉が脳髄を貫くようだった。完璧だった理論武装を綻ばせて、針の穴に糸を通すかの如く。あたしの罪悪感を掘り起こしにかかる目の前の男は、無自覚ぶって続けた。
    「お前はいつか報いを受ける」
    「あんたもね、鈴村。あたし以外が口をつぐんでも、あんただけは同類に仕立ててやる」
     なぜなら目の前の男だって、風谷秋水にあたしが与える痛みを知っている。知っていて理解者の顔をして、風谷秋水を傍観している。それが風谷秋水の望みに依る結果であろうが、鈴村の意志だろうが、そんなものは関係ない。
    「風谷も大概おかしいけど、お前もおかしいよ」
     鈴村は心底理解できない、と言った様子で、アタシを見下ろす。心底、理解不能で面白いものを見たと、その目は雄弁に語っている。お前はすごいよ、と繰り返すのが嫌味ったらしくて仕方なく、あたしは心底、鈴村が嫌いだ。
    「本気で報いを受ける覚悟があるんだもんな」
     へぇ、と素直に感動する。鈴村京介、この男。あの宇宙色の異星人と、隣り合うだけのことはある。この男が吐いた今の言葉は、正しいように思う。
    「…………そうかも」
    「あ?」
    「報いを受けるために、あたし、あの女を潰したいのかも」
    「…………はぁ?」
     腑に落ちるって、まさにこのこと。あたしはずっと、理由があってあの女を傷つけていた。意味なく加害するようなバカとは違う。だからなんだよ、と多くの人間はあたしを睨むだろうけど、そんなことは関係なかった。目指す先が、あたしにはあったのだ。
     なるほど、これはいじめではない。弱いものをおもちゃにしているわけでも、自分を強く見せたいわけでも、あたしがおかしいわけでもない。
    「ふぅん、ふふ。よくわかった」
     目の前のボッカデラベリタは、自分の吐いた言葉の価値もわからずに、首を傾げている。そんなことも、あたしには関係がない。
     マジックのペン先を露出させる。悪意のある文字を机の上に書き連ねる。何度かカッターやハサミで傷つけた天板は、凹凸まみれで書きにくいったらありゃしない。こんなことは労力がかかって、大変なだけ。ちっとも楽しくなんてない。あの女は明日の朝にこれを見たって、バカにしたように笑うだけなのだから、何一つ労力に見合っていない。
     あたしが風谷を害する理由。上手い言語化は相変わらずできない。それでも、確かな答えを感覚だけで手に入れてしまった。だから、こんな行為は惨めさを増やすだけだと分かりきっている。
    「よくやるよな、本当」
    「なんだ、まだいたの」
    「何書くのかと思って。書くことなんていくらでもあるだろ、選ぶだけでも一苦労だよな」
     微かに笑って、陣取りゲームなら黒文字が勝つ机を撫でる。鈴村の指先が、乾かないインクで汚れるのを、あたしは黙ってみている。なぁ、真実の口。知ったかぶりの上手な猿。あんたは一体、どう思う。
    「…………例えば、銃刀法とか、危険物所持とか、器物損壊とかの諸々を、何も気にしないとしてだよ?」
    「気にしてたらこんなことしてないだろ」
     くだらない茶々は聞かない。
    「例えば、星を砕こうとしたとして。何を積めば叶うと思う」
     あんたをあたしの、懺悔室にしようと思う。怨恨悔恨妬み嫉みを、全て告白する生ゴミ用の穴にしようと思う。真実の口だと思うことにする。あんたは嫌いだけど、別に、吐瀉物に何を混ぜたって、汚らしいことには変わりないからね。
    「なんだ、お前目が見えてないのか」
    「は?」
    「はは、なんだ。かわいいな」
    「あっすっごい今あんたのこと殺したい」
    「わかった、真面目に答えてやる。お前を何一つ知らないなりに、精一杯慮って、答えてやるよ」
    「恩着せがましい口。黙れ。欲しい言葉だけ吐いて死ね」
     鈴村はそんな暴言を胃にも介さず、携帯の着信に反応する。液晶に釘付けになった眼球は、ちらとあたしを見ることもなく、ついでのように語った。
    「例えば、万が一星が砕けたとして。お前にそれはわからないよ」
    「わかるように言って、学年一位でしょ」
    「今見てる光は過去の光。光の速ささえ年単位の時間を要して、俺たちに届いている古い輝き。俺が想像してる通りなら、お前が砕こうとしてるものを星と呼ぶのは、何一つ的確じゃない」
    「あたしをバカにせず、わかるように言え、学年一位」
     はは、と小さく笑って、そこで久々にあたしの方を見る。
    「じゃあ、お前にもわかるように言ってやるよ、学級二十位台」
     完全下校のチャイムが鳴る。風谷秋水が泣き出さない限り、あたしは明るくて、成績はそこそこだけど、問題のない生徒でい続ける。そろそろ帰らなきゃな、と指定バッグを肩にかける。
    「もしもあの女が星だなんて綺麗な物だとして、たとえそれが砕けても、お前は光から逃れることはできないよ」
    「…………」
    「悪いこと言わないから、死にたくなる前に歩き方を変えとけ」
    「…………知ったかめ」
     今度はあたしに着信。家族のグループチャットには、帰宅時間を問う母のメッセージが絵文字付きで送られていた。


     夕食も風呂も明日の準備も済ませ、友人というには弱い繋がりで絡む女たちのグループチャットに勤しみながら、布団に潜り込む。真夏にクーラーを冷えるほどつけ、薄い毛布で肌を温める、贅沢な眠りが好きだった。
     高校生とは言え、流石に寝ようとなる深夜。スマホのアラームを設定し、液晶の光が影送りのように残る。わずかな残像を追いながら遊んでいると、昼間の鈴村の言葉を思い出す。死にたくなる前に歩き方を。言われなくたってわかっている。ボッカデラベリタ、ボッカデラベリタ。報いを受ける覚悟。その言葉一つで、あたしはこの一年と少しに及ぶ、あの女への加害の原因に、たやすく辿り着いてしまったよ。
     あたしは風谷秋水を美しく思う。羨ましく思う。妬ましく思う。輝いて輝いて、きらきらと光を放っていて、眩しいのに目が離せないでいる。離せない自分が悪いのに、目を向けている事が苦しくって。光を失って欲しくて、汚そうとしている。
     宝のように、玉のように、風谷秋水を綺麗に思う。それを汚さなければいけないあたしの、この苦しさがわかるか。自業自得だと、あの女であれば笑うだろう。この気持ちが分かろうと、わかるまいと、あの女はばかめ、と笑うに違いない。
     あんたを傷つけて苦しんで、苦しんで苦しんで苦しんで。あたしは自分を痛めつける。あんたを鏡のように思って、傷つけた分だけ勝手に傷つく。そうでもしなければ、到底、耐えきれない。


     風谷秋水という女がいる。私を見下ろす長躯に、膝裏まで届かんと垂れる長い黒髪。烏のような目。雪でも染み込んだかのような白い肌。
     それは間違いなく、私が望んだ理想だった。
     愛した人形に重ねるには大きすぎる瞳も、長すぎる髪も、高すぎる背も。そんなことは関係がなかった。私が愛したのはあの艶やかな黒であり、柔らかな白であったのだと気づく。顔の造形などは関係なかったのだ。メスを入れるとか、生まれ変わるとか。努力でなんとか出来る範疇だった。
     手に届く理想だった。だがしかし、風谷秋水。お前という正解が現れた!
     太陽のような熱を持って、月のような冷ややかさを持って、お前という光る星が、私にこれが正解なのだと突きつけた。輝かんばかりの美貌を見る。お前という人間にこそ、その黒は、その白は。‥‥‥飾る煌びやかな赤は、与えられて然るべきなのだと思ってしまった。
     思ってしまったなら、私は、どうすればいい?
     私が勝手に遠くに見て、頑張って頑張って頑張ったなら、手が届いたであろう理想は、お前という何光年も先の光に呑まれてしまった。そうなってしまったなら、私は、どこまで歩けばいいのか。
     ────墜落せよ、遠い明星。
     零落せよ、私の理想。
     その麗しい髪を切り落としたなら、陶器のような肌を切り裂いたなら。お前は醜く映るだろうか。お前を醜く見た日には、お前は星ではなくなるだろうか。星ではなくなったお前ではあれば、私は。
     愚かな自虐をやめることができるんじゃ、ないだろうか。


     伊藤莉杏という女がいる。あの化け物を挫こうとする、頭の足らない愚か者。
     風谷秋水が挫けるなんて、海が干上がるのと同じくらいの天変地異だ。
    「どうして」
     そう聞いた事がある。なぜ、お前であれば止めることの容易い、弱い物いじめですらない加害を、放置しているのか。その問いは別に、今日が初めてではなかった。
    「あれは止める価値のない猪。駆除する必要も、わざわざないから」
    「どうでもいい」
    「面倒」
     回を重ねるごとに雑になる返事。そんなわけないだろ、と呆れるのにも飽きた。この女が本気で面倒に、煩わしく思うなら、いつだかストーカーを過剰防衛で痛めつけた時のように、二度と関わりたくないと思わせることなんて簡単だ。
    「本当は?」
     二年の春先。その日の風谷は春休み明けで、二、三週間ぶりに想い人に会えたという事で、今までにないくらい機嫌が良かった。
    「あの女は、自分のことが何もわかっていないんだもの」
    「へぇ?」
    「私に助けて欲しがってるの」
     それさえ教えれば、お前はわかるだろう、という期待が見て取れる。そんな笑顔を俺に向ける。本当に機嫌がいいらしい。
    「私はあの子を助けない。私はあの子を救わない。あの子の自傷の道具になるのは、甘んじて受け入れてあげましょう。ならば道具に徹するまで。わずか十余年のみを生きる私は、付喪になりはしないのだから。意思を持って助けようとするなんて、ありえないでしょ?」
     あはは、はは、あはははは! そんな笑い声が響いている。
    「…………ねぇ、京介。あなたが好きよ。わかって欲しいように、わかってくれる貴方が好き。だから伊藤は大嫌い。私、私を嫌いに思う人なんて、大嫌い」
    「だから、助けるなんて、ありえない?」
    「そういうところ。貴方を大事にしたいと思うわ」
     なるほど、道理だ。なぜ伊藤が、風谷に救いを求めているのかは、今後考察するとして。本当にわかっているんだか、それとも決めつけているのかは知らないが、風谷の中で答えは出ているようだった。そして、その上で助ける気はないと言い切った。伊藤の望む救済はないだろう。
    「京介。貴方をこの世の何よりも信頼している。貴方であれば、貴方であるなら。私の言葉を軽々しく扱おうが、宝のように秘めようが、どうしたって咎めない。だから、貴方があの女を助けようとするのなら、好きにしなさい」
    「…………はは、どうして?」
    「どうして、って?」
    「お前は俺を、いっそ気持ちが悪いくらいに、信用するよな。どうしてだ?」
     あら、と微笑む風谷は変わらず美しかった。宇宙色の髪。宇宙色の瞳。沼とか、闇とか、烏とか。そんな例えでは、お前に到底届かない。宇宙という、遠近さえおかしくなりそうな夜の天蓋が、お前の持つ色素の名だ。
    「貴方が先に、いっそ気持ちが悪いほど、私に踏み込んできたのよ」
     心当たりしかなく、小さく両手を上げて降伏した。


     ある秋の夜だった。春先は暖かくなって不審者が増えるというけれど、秋も気候が似ているので、不審者が出ても不思議ではなかった。文句があるとするなら、どうしてよりにもよってあたしを狙ったのか、という話。
     あたしは風谷をいじめるけれど、それでも品行方正だった。校則も守っている方だし、成績も悪くない。親と仲は悪くないし、、十時という門限を破ったこともない。
     あたしの日頃の行いは、男に路地裏に引きずり込まれて、股を暴かれなきゃならないくらい酷かったのだろうか。打っても蹴っても返事をしない、金剛石のような女を傷つけようと試みるのは、そんなに罪深いのか。
     あたしはあたしを傷つけて、あの女という星を砕いて、理想などというくだらない夢から覚めるために、率先して傷ついているだけなのに?
    「やだ」
     このあとあたしの被害が明るみに出て、報道される裁きがあるなら、上の世代はこぞって、スカートを短くしたあたしを非難するだろう。学校中に広まる裁きがあるなら、いじめを知る全校生徒が、因果応報と囁くだろう。
    「いや、いや」
     駅近くの路地裏には、家に帰れない女の子がたくさん。下着を売ったり体を売ったり、口のうまい子は適当な会話で金を稼ぐような場所。そこを通ったあたしが悪いのかよ。人通りのあるところを、そんな場所にしたバカが悪いに決まってる。
     あたしの太ももを、腹を、生ぬるい温度の乾いた手のひらが覆っていく。吐き気がする。死ね、死ね、死ね。こんな被害をドキュメンタリーで見るたび、抵抗しない奴が悪いと思ってたけれど、ごめん。そんなの無理だ。そんな余裕はない。
     いや、と叫ぶ。目の虚な女はこっちを見向きもしない。まともそうな傍観者は助けに入らず、しかし警察に連絡するそぶりもない。あんた酔ってもないし正気でしょ。早く助けて。
     目元が濡れる。理由はわからない。誰でもいいから助けろよ、ときちんと目を閉じて神だか仏だかに、祈って拝む。
    ごぉん、と鈍い鐘の音のような、何かが聞こえる。
    「────殺す気があるのなら、腹ではなく角で打ちなさい。いい言葉よね、同感だわ」
     いやってくらいに聞き慣れている声。何か重くてぬるい肉があたしの上に倒れ込む。目を開けると、さっきまであたしに乱暴をしようとしていた男が伸びていた。赤黒い液体を頭から流しながら。
    「あら、貴方だったの、偶然ね」
     顎を上げて、空を仰ぐように、その女を見上げる。少し息が荒れていて、片手にはビール瓶。駅近くの繁華街の路地裏だ。いくらでもそんなものは転がっているだろう。いや、何か赤いものが垂れているな。その理由は想像がつくけれど、想像しないことにした。
    「風谷!」
     遠くから鈴村の声もする。頭は良くても体育の成績は振るわない男だ。
    「急に走ったと思えば何────伊藤? ってか、なんだこの男…………」
     途中まで言って、息を飲んでいる。伸びている男と、少し乱れたあたしの服と、風谷の持つビール瓶を交互に見て、大きくため息をつく。
    「わかった」
    「理解が早くて何より。ちょうどいいわ、京介。警察」
    「ぜってぇもう呼ばれてるわ! 野次馬にな! 俺らは逃げるんだよ、どう見たって過剰防衛だこのバカ!」
    「いたっ!」
     風谷の頭に拳を振り下ろす。自分の行いは一旦忘れて、風谷を殴れるのか、と驚く。
     過剰防衛。それもそうだ。打ちどころが悪ければ死んでいる。というか、この出血量で人は生きていけるのだろうか。
    「何を」
    「何をじゃねぇよばーーか! いいから逃げるぞ、伊藤はどうする⁉︎」
    「えっ」
     急に話題を振られて、言葉に詰まる。警察に保護されるのって、精神衛生的にどうなんだろう。SNSでたまにバズって流れてくる可哀想な自分語りでは、大概警察は役に立たない。みんながみんなそうとは限らないだろうけれど、それでもこういった事案でいい噂は聞かない。
    「わかった、風谷」
    「嫌よ」
    「嫌じゃねぇ、やれ!」
    「…………むぅ」
     風谷はあたしの両手を勝手に掴むと、男の下敷きになっているあたしを最も容易く引き抜いて、そのまま腕を回しておぶった。は? 理解がちっとも追いつかない。
    「どこまで?」
    「公園」
    「結構あるけど、貴方走れるの?」
    「限界は越えるためにあんだよ!」
     鈴村のカーディガンが、あたしと風谷の腰を固定する。膝裏に風谷の腕が周り、何が起きるかと思えば、走り出した。公園はここから一キロはある。あたしを背負って走り続けるつもりか、この女。
     どれくらい走ったのか、なんとか公園にたどり着き、通り雨で湿った芝生の上に投げ出される。
    「…………ふふ、あはは、はは!」
    「…………は?」
    「貴方だったの、ふふ、災難だったわね。ははは」
     堪えられないのか、風谷は自分の腹を抱くように腕を回し、笑い出した。怒りとか気恥ずかしさとかはちっともわかず、強いていうなら、不気味だった。
     数分笑い続けて、生理的な涙を拭い、風谷は今も芝生の上に座りこむあたしを見下ろす。
    「運が悪かったわね。あの男に襲われたのも、私に助けられたのも。…………どんな気持ち?」
    「…………あんたが怖い」
    「え?」
     心底、予想外といった顔で、風谷は目を丸くした。
    「どうして助けたの。あたしとわかって、ここまで連れてきたの?」
    「…………どうしてって、なぜ?」
    「あたしはあんたを使っていて! …………挙句、なんの成果もない。あんたからしたら、小蝿もいいところでしょ。あたしなら、そんな目障りなのは放っておく」
    「あら、そう。別に、言ったでしょう? 偶然なの」
    「は?」
    「不愉快な男を殴ろうとしたら、襲われてるのは貴方だった。それだけ。ここまで連れてきたのは…………なんとなく」
    「はぁあ?」
     頭痛がしてきた。遠くに、遅れてやってきた鈴村の影が見える。
    「殴ると決めたのに、自分の好き嫌いでころころ気持ちを変えてちゃあ、白状でしょう。貴方が不幸だろうが幸福だろうが、ちっとも興味ない。どうでもいいの」
     風谷らしい、と思った。風谷を何も知らないくせに。風谷秋水は、自分が一番で、あたしにはちっとも興味がなく、どうでもよく思っている。星であるなら、勝手にその光を見て傷つくあたしなんか、ちらとも見ないはずなのだ。
    「────風谷! と、伊藤」
    「あら、京介。思ってたより早かったわね」
    「おま、伊藤になんもしてないな⁉︎」
    「は?」
    「余計なことはしてないよなって聞いてんだ。たとえいじめ主犯でも、いや、お前相手ならいじめになんかなんねぇけど! 今の伊藤は絶賛被害者なりたてだ。傷口に塩を塗り込むような嫌味とか、言ってないよな⁉︎ 人として当たり前だからな⁉︎」
    「触るな、揺らすな。…………私をなんだと思っているの」
    「後先考えない大馬鹿野郎だと思ってんだよ!」
    「はぁ⁉︎」
     風谷の肩を揺り動かし、京介は叫ぶ。風谷にそんな対応をする男の姿より、男の言葉の方が不愉快だった。これはボッカデラべリタ。色眼鏡越しの主観より、よほど役に立つ第三の目。それがあたしを憐れむ意味。風谷へのいじめはいじめになんてならないって語る意図。わからないわけが、あるか。
     足の震えは止まっている。動悸は今もはやるばかり。風谷秋水は、容易く避けられるはずのあたしの平手を、避けることはない。
     この星は砕けない。敵意など向けるだけ無駄なほど、遠く遠くで輝いている。
     そんなことはわかっている。それでも、やめてしまったなら、あたしは。
    「好きにしなさい」
     その声に、いつのまに下がっていた視線を上げる。膝を汚し、片手の指先を汚し、あたしの顔を覗き込むかのように。目の前で跪く女がいる。
    「大事なことだから、二度言いましょう。これまでも、これからも、好きにしなさい。私は貴方を顧みない。私は貴方を助けない。私は貴方に報わない。きっと、全部が無駄になる。その覚悟が、貴方にはあるんでしょう?」
     それでもなんだか、可哀想だから。少しだけ優しくしてあげる。
     そんなことを言って、風谷は汚した指先で、あたしの顎をつかみ上げる。
    「私は」
    「触んな!」
     風谷の手を、渾身の力で、払い除ける。ビリビリとした痛みが手のひらに残る。お前に、この痛みは伝わっているのだろうか。
    「いい気になりやがって、誰もあんたに助けて欲しいなんて言ってない」
    「そうね、最悪な偶然だったでしょう」
    「それでもあんたにだけは、助けて欲しくなんてなかった」
    「そうでしょう」
    「何したって暖簾みたいに。強がりにしたってほどがある。さっさと死ねよ!」
    「嫌」
     何を言おうとどこ吹く風。あたしが理解できないのか、それとも風谷が理解できていないのか。鈴村は珍しく顔色が悪く、オロオロとしている。
    「あたしはっ………………あたしは、あたしは!」
    「貴方は、なに?」
     夜があたしを見ている。次の言葉を待っている。あたしは、何が言いたいんだっけ。何を吐き戻そうとしていたんだっけ。
    「あたしは…………」
     足は再び震え始めていた。返す言葉が見つからない。それでも虚勢を張って、ゆっくりと立ち上がって、跪いたままの風谷を見下ろす。
     ついさっき、人を殴り殺そうとしていた女。結果的にあたしを助けた女。ぬばたま色の髪は少しも気にかけてもらええず、毛先を草に落とされたままだ。アイラインも、アイブロウも、アイシャドウも、チークも、リップも。知らない荒野は美しい。何も知らなくったって美しくいられる、その荒野が羨ましい。
     稲妻のような痛い光を、この女は、この世に存在しているだけで、あたしに浴びせる。
     この星は、砕けたとしても、きっと。
    「…………もう、いい」
    「そう」
    「さっきのことは、ありがと」
    「あら」
     少し驚いてから、微笑んで、どういたしましてと嫌味なく返す。
     呪いを呪いと思わずに、積んできたものが完成する。報いを受ける覚悟があった。そのはずだ。それでも、風谷はあたしに報わない。この女はあたしを憎まない。ならどうすればいいのか。どうしたら、砕けない星を前にして、この足を止められるのか。伸ばす手を下ろす事ができるのか。
    ペイン、ペイン、カムトゥミー。


     二〇二〇年十二月二十八日。風谷秋水が通り魔に刺されて死ぬ。駅に向かう途中の大通り。クリスマスの残火で街は活気を保っていた。
     一年前のサラリーマン殺人未遂があってから、駅周辺は警察がよく回るようになり、ずいぶん治安が良くなった。夜に品行方正な女子高生が、一人で出歩いても問題ないくらいに。そんな中で、風谷秋水は、通り魔に刺されて死んだ。
     隣町の塾に通うため、駅に向かう途中のあたしは、それを少し遠くから見ていた。
     通り魔の狙いは美しい女ではなく、小柄で、橙に似た明るい色の髪をした。少年なんだか少女なんだか、よくわからない子。賑やかな大通り。スピーカーから流れる音楽や、人の会話でけたたましく、通り魔の前兆なんて何一つなかった。
     風谷秋水は、何もかもわかっていたかのように、人混みから現れる。その子を突き飛ばして、自分の肉にナイフを埋めさせた。
     携帯の充電が切れていて、遠くの時計を見ていたあたしの視界に、一部始終が写っていた。


     稲妻のような痛みが、あたしの手のひらに与えられている。ごん、と手のひらに釘が食い込む。助けるものは誰もいない。あたしの悲鳴と、釘を打つ音ばかりが、教室の中で響いている。
    「おまえたちは」
     あたしと、あたし以外の教室の人間たちに、冷ややかな言葉が浴びせられる。入学式から転校生三名、退学者二名、不登校四名、死亡者一名をのぞき、転校生二名を増やし。三年間を過ごしてきたあたしたちの、映えある卒業式の今日。あたしは釘を打たれている。
    「二年もの間、どうして」
     次に動いたやつを、打つ。そう言って始まったあたしへの釘打ち。クラスメイトは釘を恐れて動かない。教室の外の他クラスの連中も。教員も。警察は呼ばれているのだろうか。呼ばれているといいな。
    「どうして、あみを迫害したのか。────その理由が、知りたいな」
    「ぅあぁ!」
     釘がより深く沈む。教卓に釘先が掠る。貫通した。このあと、あたしの手のひらは、使い物になるのだろうか。顔は涙でびしょびしょで、化粧が気になる。もしもこのまま死ぬとして、最悪な死に顔は晒したかない。
     あたしの手のひらを打つ男は、真っ黒なフードを深く被って、鼻から上がよく見えない。
    「おい! ――――俺たちは、帰ってもいいだろ?」
    「…………その心は?」
    「風谷さんに手を出してたのは、伊藤と、その取り巻きだけだ! 男子は何もしてないし、ほとんどの女子だって関わってない。無関係だ!」
    「…………なるほどね。道理だ」
     ポケットから剥き出しの五寸釘を取り出して、器用なことに、その釘を空中で打つ。口答えをした男子の頬を掠めて、背後の壁に弾かれて、金属音を鳴らしながら釘は落ちた。
    「いじめが題材の小説とか、漫画とか。大体テーマになるんだけどね。傍観するものは罪なきか、否か」
     男子生徒に首を向けて、その動作でフードから橙の髪が垂れてくる。どこかで見たような、どこでだろう。手も、頭も、心臓も、どくどくと鼓動がうるさくて、何も考えられやしない。
    「もし罪になるのなら。秋水へのいじめを見ていなかったとしても、今の時点で犯罪者だね」
    「な………」
    「どう思うかは、人によるよ。僕の認識を押し付ける気もない。自分に罪はなく、実行者にだけ罪があると思うなら…………これが天罰だと思えるなら、そのまま見ているといい」
     天罰。朦朧としている頭で、それが繰り返し響いている。天罰。
     こんな痛みのために、報いのために。あの秋の日まで、あたしは。あの星を目指していたとでも言いたいのか。
    「…………なんにも」
     震えていて、自分でさえうまく聞き取れない。
    「なんにも、知らないくせに」
    「…………はは」
     聞こえていて嘲ったのか、ひどい滑舌で笑われたのか。わからなくて、無理矢理顔を上げる。髪色と同じ、橙の目が、こちらを見下ろしていて、苛立ちが先にくる。
    「知っていようと、いまいと、同じことをするよ」
     君だって、僕を何も知らないでしょう。
     そんな声は、乱暴に開けられた扉の音でかき消された。卒業式に向けて短くなった、それでも校則に反して明るいままの髪は、光を受けては反射している。鈴村京介。あたしの、ボッカデラべリタ。
    「今すぐやめろ。伊藤から離れて、出ていけ」
    「これを報いとは」
    「思わない」
    「…………次に動く人を打つと言ったよ」
    「やってみろ。ガキみたいな八つ当たりに、俺が負けるものか」
    「それでも、秋水は────」
    「あの女が、俺以外に、直接何かを望むわけあるか。それはお前のやりたいことだ。あのバカ女が口なしだからって、他人のせいにするな!」
     よく回る真実の口。この男を知っているのか。ああ、そういえば、あんたも不気味だった。風谷のそばに付かず離れず。あたしを糾弾することもなく。あたしの味方をすることもなく。本当、何がしたかったの。
    「その通りだよ、嫌な鏡め。そんなだと、好かれても嫌われても過剰にされるだろ」
     新しい釘を取り出して、鈴村の方に向き直る。
     何が起きている? 今になって、当たり前の疑問に辿り着く。どうして華々しく校舎を後にする卒業式に、こんな目に遭っているのか。手が痛い。ジクジクと痛い。あの女の貫かれた腹と、どちらの痛みが強いだろうか。比べるものではないか。
    「すずむら」
     風谷秋水が死んだ日を思い出す。鈴村京介、あんたが去年の夏に言った、言葉の意味がようやくわかったよ。報いを受ける覚悟はあった。そのために粉砕を目指していた。
    『今見ている光は過去の光』
     あの女は光り続けている。生きていようと死んでいようと、浴びていた光は絶える事がない。まだ痛い。ずっと痛い。何億光年先から届く光は、少し先から送られてくるもの。生きていようと、死んでいようと、関係がない。
     あの女が死んだって、あの女は変わらない。死人は醜くも美しくもならない。届く光が途絶えて初めて、お前の死を見るだろう、遠い遠い星。
     それならあたしは、その死を見るまで、この火に焼かれることを報いにしたい。
    「――――助けて、鈴村」
     ここで死ぬわけには、いかない。
     釘を打つよりも先に鈴村が歩く。声は届いたのだろうか。わからない。金属が掠れ合う音がして、釘が飛んでいく。さっきから思ってたけど、曲芸かよ。風谷の敵討ちみたいな顔で、あたしを断罪しようとしやがって。あんた、本当に何もわかってないね。
     鈴村の左耳。アウターコンクの位置に、釘が突き刺さる。一瞬怯むみたいに足を止めて、痛みに顔を歪めてなおも、鈴村はこっちに向かってきた。鈴村と比べて小柄な男は、あたしの釘を掴み直して金槌を振り上げる。
    「…………京介」
    「今すぐやめて、出ていけ。警察も救急車も俺が呼んでる」
    「…………だから?」
    「いいから、やめとけ。本気ならなおさら。殴られる理由は少ない方がいいだろ」
    「…………」
     その言葉が、どんな意味を持ってこの男に刺さったのか。あたしには知れない。釘から手を離し、鈍い音を立てて金槌を床に転がして、ポケットから五寸釘を落とす。
    「君が言うなら、仕方ない」
    「――――」
     鈴村が、男の名前を呼んでような気がした。いよいよ意識が怪しくなって、瞼が重くなる。遠くから聞こえるサイレンの方が、よほど耳に届きやすかった。


    「げ」
    「お」
     人生で初めて、自分の血縁でもない人間の墓参りに行くと、先客がいた。鈴村京介である。この男、朝早く家を出て行ったと思えばこんなところに。
    「莉杏じゃん。どうしたんだよ」
    「…………なんとなく、思い出したから。あんたがいるなら帰る」
    「なんで」
    「なんかすっごい嫌な気分になったから。顔見たくない」
    「珍しく殊勝なことしようとして、見られたから恥ずかしくなったって正直に言えよ」
    「今日帰ってくんなよ」
     海の見える場所に建てられた墓。京極家之墓、と掘られており、首をかしげる。
    「…………あれ、場所間違えた?」
    「あってる」
    「苗字違うじゃん」
    「あいつの母親が死んだ時に、あいつだけ母方の親戚に引き取られて、そんときに苗字変わったんだと」
    「だけって何よ」
    「兄貴がいんの」
     タバコに火をつける。髪を染めなくなり、生来の出無精で伸びっぱなしの髪は、卒業式の時と比べてずいぶん長くなっていた。
    あたしが高校三年生を塾に通い詰めて、必死になってギリギリ入れた大学と、この男が適当に決めた大学は口惜しくも同じで、大学近くにアパートを借りたあたしの家に上がり込むようになった。深夜にもインターホンを鳴らされるのが苦痛で合鍵を渡したあたしも不用心だが、家賃の三分の一を納めたり、手土産を持ってきたりするので好きにさせている。
    「…………というか、あんたは何しに来たの」
    「誕生祝い」
    「墓場で?」
    「生きてる頃からずっとこれ」
     風谷の母の命日と、誕生日は同じ日のようで。なら出産時に何かあったのかと思えば、そんなことはないらしい。風谷は大して悲観的に受け取ることもなく、ただそういうこともあるだろう、とでもいった様子で、誕生日には兄と墓場でケーキを食べるのだと語っていたそうだった。
    「誕生日」
    「そう」
    「今日?」
    「おう」
    「…………なんもないけど」
    「渡すような間柄でもねぇだろ…………」
     ケーキどころか、適当に手を合わせて済ませるつもりだったので、供える花さえ持っていない。バッグの中を探してみれば、朝を食べ損ねた時用に常備している携帯食があり、それを墓前に置く。
    「うまそう」
    「ケーキ食べたんじゃないの」
    「朝食べてねぇからなぁ〜…………」
     もうおやつ時という時間だ。墓前に置いたとて、地獄の風谷の腹が膨れるわけでなし。京介に投げ渡す。
    「夕飯なに?」
    「帰って来んなって言ったよね?」
    「怒んなよ…………帰り運転してやるから…………」
     予定通り、手を合わせて数秒目を閉じる。願うことも感じることも特にない。京介を連れ立って駐車場に戻り、助手席に座る。ここは地元だから、アパートまでは一時間以上かかる。それを運転しなくていいのは、正直楽だ。
     車が発進する。風が嫌いなので、京介の開けた窓を閉め、車のクーラーをつける。夏なんだか、まだ梅雨が続いているんだか。湿気が強くて嫌な感じだった。最近流行りの音楽が、ラジオから流れてくる。
    「なぁ」
    「なに」
    「終わりそう?」
     何が、と問い返すのはきっと愚かだ。この三年間、京介はずっと真実の口で、鏡だった。見たいところも見たくないところも、嫌ってくらいに見てくる。そんなところが昔嫌いだったけど、今となっては、悪くない。
    「あの女を見て、ひとつだけいいことがあった」
    「へぇ」
    「どの女を見ても、まぁ男でもだけど。全員等しくブスに見える」
    「はは、違いない」
    「…………ソクラテスって、いるでしょ。あれと一緒。自分があの女以下って分かってない美男美女なんかより、あれ以下だと分かってるあたしの方が、よほど懸命で可愛げがある。そうは思わない?」
    「人によると思う」
    「今する返事じゃないな…………」
     雲が流れていく空を見る。昼間に星が見えないのは、太陽が強すぎるかららしい。あの女は即ち、焼き尽くすばかりの、太陽だった。ならば、昼間にかき消える星があったとしても、仕方がない。
     遠い明星ではなかった。照らし、乾かし、輝くばかりの太陽。太陽に寿命が来た日には、太陽系もろとも潰えるように。あの女は死ぬまでまとわりつく。
     じゃあ、仕方ない。焦がれるのも焼かれるのも、仕方ない。そんな存在がいくつもあっては、この世はとっくに狂っているのだから、あたしがそうなれないのも仕方ない。
     この諦念は見苦しいだろうか。弱虫の逃げ道だろうか。それでも、そう思えている限り、あたしはちっとも辛くない。
    「莉杏」
    「なに」
    「お前は風谷ほどじゃないけど、美人だし。あいつよりよっぽど可愛いよ」
    「は」
     告白みたいな言葉に一瞬驚いて、おかしくなって、バカみたいに大声を上げて笑う。はは、あはははは! 本当になんなの、あんた。あたしはすっかり良い気になって、窓を開けて嫌いな風を浴び、塩の匂いで肺を満たす。
    「京介!」
    「なに」
    「ねぇ、結婚しようか! ――――きゃあ!」
     急ブレーキがかかって、シートベルトに守られた腹が痛む。交通量の少ない山道でよかった。玉突き事故にはなっていない。いや、というか、そんな山の中だからこそ、そんなことをするなよ。
    「ちょっと!」
    「ちょっとはこっちのセリフだ、このバカ! 付き合ってもないくせに変な冗談言うな!」
    「え、まぁ、そうか。…………ごめん?」
     車を再び発進させ、数分静寂が保たれる。破ったのは京介だった。
    「さっきのだけど」
    「だからごめんて。安全運転して」
    「明後日くらいに、指輪取りに行くつもりだったんだよ。だからそれまで気を変えんなよ」
    「…………は?」
     明後日。開けておけと言われていたので、開けておいた日だ。というか、指輪ってなんだよ。お前の方がよほどおかしい順序じゃないか。
    「…………あたしたち、付き合ってないよね?」
    「百年前なら交際ゼロ日で結婚なら珍しくもない」
    「今は現代だけど。てか、なに。あたしのこと好きなの?」
    「好きでもないのに家に入り浸るかよ」
    「それもそうか」
     納得して、それでもやっぱり何かがおかしい気がして。そんなこともどうでも良くなって、また大声で笑い出してしまった。バカにされているとでも思ったのか、京介は数分だけ眉を歪めて、それでも途中で呆れたのか、同じように笑い始めた。
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