オメガバース蔵種(下4)「何で、何であんなこと、したんですか?」
白石が、気力を振り絞るかのように声を上げた。スポーツの世界では、特に上下関係というものに厳しい。三つ年上の先輩を問い質すなど、勇気のいることだったろう。
種ヶ島は、黙ってその場を立ち去ることも出来た。しかし白石と身体を重ねたあの日を思い出すと、W杯での輝かしい記憶が、花火のように爆ぜるのだ。
種ヶ島は白石を傷付けぬよう、慎重に言葉を選んだ。しかし頭に思い浮かべた言葉はどれもがすぐに、泡となって消えてしまう。
「すまん」
それが種ヶ島にとって、精一杯の言葉だった。
「や、あの、別に謝ってほしい訳やなくて……。理由を教えてほしいんですけど」
到底納得出来ないであろう白石が、種ヶ島に詰め寄る。しかし白石が続けた言葉は、種ヶ島の予想していたものとは全く違うものだった。
「俺がゼウス様に負けても、その次の試合で勝てばよかったやないですか」
「え、そっちの話?」
種ヶ島は面食らった。
W杯ギリシャ戦S3、白石はオーラに気圧され、戦わずしてゼウスに負けた。その白石に代わって勝利を収めたのが、種ヶ島ではある。しかし何故その話が蒸し返されるのか、種ヶ島には見当も付かなかった。
「徳川さんやって、まだおったのに。種ヶ島先輩やって、ゼウス様より他の選手と試合した方が、確実に勝てたんやないですか?」
「はは、そりゃそうやけど……」
白石の言う事も尤もだ。結果としてギリシャ戦で3タテを達成し、その後の優勝に向けて大いに勢い付くことが出来た。
しかしS3にチーム松の主将である種ヶ島をぶつけるよりも、捨て試合として白石を仕向けた方が、戦略としては妥当だったろう。
「あそこは賭けやったなぁ」
「フランス戦の前の晩やって、何であんな時間に、外をふらふらしとったんですか」
「それはノスケもやん」
種ヶ島が白石の為に君島と交渉したことを、白石は知らない。
「決勝メンバー決定戦やって、大曲先輩とペア組めばよかったやないですか」
「それは、中学生と組んだ方が人数制限的にええから」
「ほな、金ちゃんと組んだ方がええやないですか」
「せやからそれは─」
言い掛けて、はたと止まる。種ヶ島の目論見通り、トーナメント戦にて白石らの力により、遠山をダブルスプレイヤーとして育て、大曲と共に決勝戦へ送り出すことが出来た。
無論、自身が負けたかった訳ではない。白石が大曲と組むよりも自分と組んだ方が、遠山をダブルスプレイヤーとしてより育てられると思ったからだ。そして育った遠山ペアよりも自分達の方が強ければ、当然自分達が決勝戦に出場するつもりだった。しかし─
「それは……」
中学生とペアを組もうとした時に、真っ先に思い浮かんだのは誰の顔だったのか。遠山を育てたいと思った際に、もう一つ別の形で、隣で並んで育てたいと思ったのは誰なのか。それが白石ではないと言えば、嘘になる。
「俺なら─」
「種ヶ島先輩、なら……?」
「俺ならもっと、ノスケを上手く育てられるって、思ったから……」
「え……?」
大波のような感情が、種ヶ島を飲み込む。W杯期間中の様々な思い出が渦となり、今回のW杯だけではなく前回のW杯や、それ以外の様々な大会、何年も前の古い記憶を引っ張り上げる。初めてラケットを握った幼い日の種ヶ島を、今の種ヶ島が育てることが出来るのならば。一体どうやって、彼を育てるというのだろう。
「あー……、気に入ってしもたんやなぁ」
「はい?」
「好きってことやで」
種ヶ島は笑って誤魔化した。
助けたいと思った。支えたいと思った。誰よりも高く、光の当たる場所に居てほしいと思った。それが白石に過去の自分を見た種ヶ島の答えだった。しかしその感情は本人にぶつけるようなものではないと、種ヶ島は理解していた。
ならばいっそ、「好き」という陳腐な言葉で誤魔化してしまった方が、いくらかマシというものだろう。
「えっと、あの」
「ノスケは俺のこと、好き?」
「……育ててもろて、ありがとうございます」
答えに窮した白石が、ぺこりと頭を下げた。やはり種ヶ島の白石に対する感情は、不適切なものなのだろう。どうにもすれ違っている気がする。バツの悪くなった種ヶ島は、白石を促すかのように、部室に向かって歩き始めた。もうコートには、誰も居ない。種ヶ島に少し遅れて、後ろに白石が続く。
「あー、せや、ノスケ好きな子おるって言うとったやん。あれからどうなったん? 顔向け出来た?」
「あ……。あの俺、今薬を飲んどって」
この世界には、アルファ用の薬も存在する。オメガのフェロモンを感じにくくさせる薬だ。副作用があり、また耐性も付いてしまうので常用するものではないが、白石はそれを毎日飲んでいた。
「匂いとか、全然分からんようになってしもて。好きやった子の匂いも、全然思い出せんくて」
「あらら。寂しいなぁ」
「……はい」
「ほな、俺の匂いは? ええ匂いがするとか、言うとったやん」
「種ヶ島先輩の、匂いは」
種ヶ島が少し身体を屈ませると、白石が種ヶ島のうなじに顔を寄せた。同時に白石の汗の匂いが、ふわりと種ヶ島の鼻を掠める。
種ヶ島も、今日は過剰なくらいに抑制剤を飲んでいた。もしほんの僅かなフェロモンが漏れ出ていたとしても、白石に気付かれる量ではないだろう。
「えっと、香水とか付けてはります?」
「んー? 少し。せやけどオーストラリアでも付けとったで?」
「そうなんや……。や、ほんまに、香水の匂いしか分かりませんわ」
間近に、しかし決してふれることのない距離で。白石の顔が種ヶ島のうなじに近付き、すんすんと匂いをかぐ。その僅かな空気の動きが、種ヶ島をくすぐったい気持ちにさせる。
「種ヶ島先輩の匂いも、どんなんやったか、完全に忘れてまいましたわ」
「さよかー。残念やなぁ」
「……そしたら」
「ん?」
「そしたら、今俺の中にある気持ちが。アルファとかフェロモンとか何も関係ない、本物の気持ちってことですね」
どうやら白石は、自分の中にある感情を正しく理解しているようだった。種ヶ島には、それがひどく眩しかった。
確かに種ヶ島は、白石に対して特別な感情を抱いていた。しかしそれが思慕の情なのか、終わってしまったW杯への執着なのか、種ヶ島には区別が付かなかった。
部室のドアが開き、帰り支度を終えた部員達が顔を覗かせた。しかしまるで、唇がふれてしまいそうなくらいに顔を近付けている種ヶ島達を見て、ぎょっとした顔でドアを閉めた。
白石は焦った様子もなく、ゆっくりと種ヶ島から離れた。真っ直ぐな瞳で、射抜くように種ヶ島を見詰める。
「あの、また会いに来てもええですか?」
「ん、ええよ」
夕陽が最後に一際きらきらと輝いて、それから沈んだ。
「それで、仲直りは出来たの?」
帰宅後、種ヶ島の自室にて。携帯電話を片手に種ヶ島は、今日の功労者の入江と電話をしていた。
「仲直りもなにも、別にケンカしてへんけど」
「えー、ホントに?」
「まぁ、久し振りに会えてよかったわ」
「あはは、ボクに感謝だね」
「奏多の方はどうやったん? 四天宝寺のみんな、どないやった?」
「それがひどいんだよ? ボクが現れたら、皆まさしく落胆の表情を浮かべちゃって」
「あー……」
やはり入江には、少々気の毒なことをしてしまったのかもしれない。
「あんまりだから、ちょっとイジワルしちゃった」
「怖いわー、ホンマ☆」
種ヶ島は反省を撤回した。
「ボクの話はいいとして。それより修さん、今後は白石くんをどうするつもり?」
「どうって、何もせんよ」
「白石くんにあんなに入れ込んでたのに?」
「あの時はな」
「今は違うって言うの?」
「どうやろ。今日はほんまにありがとうな。ほな、また」
入江との電話を切ると、種ヶ島は携帯電話を少し眺めてから、そのまま白石の連絡先を消去した。おそらくもう、四天宝寺にコーチに行くことも無いだろう。もうその必要性は無いのだ。
種ヶ島の中で、ようやくW杯が終わった気がした。
この数日後、舞子坂高校の卒業式の日に。バラの花束を持った白石に告白されることを、種ヶ島はまだ知らない。