付き合い始めの蔵種(後編)俺は、俺が一人で勝手に舞い上がって種ヶ島先輩の家まで来たことを。誰にも知られんように、急いで駅まで走った。
早く早く、誰にも気付かれんように。息が上がって喉が焼けて、肺が燃えそうになってもお構いなしに。1ミリでも先に足が届くように、ちぎれそうになるくらいに限界まで足を伸ばして。
周りの景色は溶かしたみたいに長く伸びて、ラケットバッグが振動に耐え切れず、うるさいくらいにガチャガチャと鳴った。
そうしてたどり着いた駅のホームで、丁度到着した電車に滑り込むように俺は乗り込んだ。
「……っ、はぁ」
そこそこ混んだ列車内で、俺は激しく肩を上下させた。苦しい。電車の窓ガラスには、情けない顔をした俺の姿が映っとって。俺は窓ガラスが視界に入らんよう、視線を落として電車に揺られた。
「……」
俺の最寄り駅までは、ここから30分以上かかる。息が整えばさっきまで熱かった身体は、まるで氷みたいに冷え切って、頭ん中が妙に冷静になる。帰ろう。帰ってまた頑張ろう。そうするしか、ないんやから。
何度も乗ったことのある電車はガタゴトと、いつも通りに乗客を運んで、いつもの駅に到着した。俺はもう走り出すこともなく、人でごった返したホームを流れに乗って、とぼとぼと歩いた。
「……っ」
ホームでは放送の声や、発車音や、スーツケースをごろごろと引いとる人の音でうるさくて。それがかえって、俺の心を平静な日常へと戻してくれた。
「……ケっ」
ほらこうして、デカい声で携帯で話しとる人も日常や─
「ノスケっ」
「え」
突然肩をがしっと掴まれて、びくりと身体が震えた。脳がフル回転で逆算して、その声が俺に向けられたものやと理解する。
「捕まえた☆」
俺の肩を掴んだのも、声を掛けたのも。俺が会いたくて仕方なかった人─種ヶ島先輩本人やった。
「え、あ、何で」
「せやからぁ、こっちの方が近かったんやって」
「そうやなくて……」
俺は、俺が大会まで会わんって言い出したんやから、種ヶ島先輩には迷惑かけたなくて。一目会うだけでよかったから、先輩の家にまで行ったのに。
結局こっちに来てもらったんやったら、余計なことさせてしもたし。そもそも忘れてください言うたんやから、忘れてほしかったのに。勝手なことされて、種ヶ島先輩に負担を掛けてしもて。それが俺の心の負担にもなって、全然思い通りではないし、完璧でもない。真逆や。
せやけど種ヶ島先輩に会えたことは、やっぱりめちゃくちゃ嬉しくて。凝り固まった心が温まって、じんわりとほぐれていくようで。俺は色んな感情で頭ん中がぐちゃぐちゃになって。何も言えずに、ただ口をもぐもぐとさせることしか出来へんかった。
そんな俺の様子を、分かっとるんか分かってへんのか。種ヶ島先輩は俺の手を取ると、反対方面の乗り場へとぐいぐいと引っ張っていった。
「こっちこっち」
「え、ちょお」
「一駅分だけでええから、お見送りして?」
「……ぁ」
俺は返事も出来んままに、今来た方向へと戻る電車に押し込められた。一駅分だけお見送りとか意味分からへんし、少し面食らったけども。種ヶ島先輩の表情は楽しげやったから、それだけは救いやった。
俺は今、自分がどんな顔をしとるのか知りたかったけど。目の前の種ヶ島先輩に視界を遮られて、自分の顔を確認することが出来へんかった。
「そっち、狭ない?」
「あ、大丈夫、です」
俺も背は高い方やけど。そこそこ混んどる電車内で頭一つ分飛び出た種ヶ島先輩は、いつものように飄々として言った。
「ノスケなぁ、急に電話くれるから、びっくりしたわ」
「あの、それは」
「俺が寂しがっとったから、会いに来てくれたん?」
「ちゃ、ちゃう」
「えー、ちゃうん?」
寂しがっとったのは、俺の方で。種ヶ島先輩は、楽しく他の人と過ごしとって。そう考えれば考えるほど、自分が情けなく、みっともなくて、消えてしまいたくなる。
俺は、こぼれそうになる涙をこらえるのに精一杯で。顎がカタカタと震えて、全然上手く喋れんかった。ほんでただただ黙っとったら電車が揺れて、俺の口元が種ヶ島先輩の肩の辺りにぽんと当たった。
そしたらいつもは香水みたいな、ええ匂いがする種ヶ島先輩の身体から、煙草やお酒みたいな大人の匂いが伝わってきた。
「あの、タバコ……」
「臭かった? 俺は吸ってへんけど、周りの奴らがなぁ」
「おさけ、は?」
「あー、はは」
「飲んだんですか? 種ヶ島先輩、まだ19やないですか」
「しーっ。人聞き悪いでぇ」
電車はがたがたとうるさくて。それでも種ヶ島先輩の少し高めの声は、よく通って耳に響いた。
「ノスケ、俺寂しかったんやで?」
「あ、あんまり言わんといてください」
「言うたらあかんの?」
「声、大きいから……」
俺がそう言うたら、種ヶ島先輩は俺の耳元に顔を近付けると、息を吹きかけるようにそっとしゃべった。
「これやったらええ?」
「……っ、はい」
俺は何やら背筋がぞくぞくしてしもて。顔が近くてほんまに恥ずかしいのに、離れてほしいとかは全く思わんくて。ずっとこのまま一晩中、そうしとってほしいくらいやった。
「ノスケは最近何しとった?」
「えっと、部活とか」
「部活の無い時は?」
「自主トレとか、イメトレとか」
「さよかぁ」
種ヶ島先輩がくすくすと笑うから、俺は馬鹿にされたみたいに感じて少しむっとしたけども。耳元がくすぐったくて心地よくて、全然悪い気はせんかった。
「俺なぁ、ノスケが会ってくれへんから、他の奴らと遊んどったけど」
「……はい」
「ノスケにしか埋められへん寂しさってもんが、ここにあるんやで?」
電車が揺れたからか、種ヶ島先輩がそうしたんか。先輩の胸の心臓の辺りが、俺の身体にぽんっと当たった。
「っ、ほんまですか?」
「ホンマやで」
「あの、俺」
「せやから、ごめんなさいして?」
「……ごめん、なさい」
「ん。ええよ」
種ヶ島先輩の声は、甘く優しく広がって。まるでこの車両に、俺ら二人しか乗っていないような、そんな気がした。
「それにしても、なぁ」
「え?」
「ノスケが、ふふ」
「な、何ですか」
「サプライズは、大歓迎なんやけど。次からはそれとなぁく、予定確認してな?」
俺はさっきまでとは別の意味で、急に自分が恥ずかしくなった。
「すんませんホンマに。飲み会、大丈夫やったんですか?」
「ええよええよ。途中で出たり入ったりの、気楽な会やから」
種ヶ島先輩の声に被さって、電車の音が段々とゆっくりになる。車内のアナウンスが次の駅への到着を告げた。
俺はもう一駅分だけ一緒に居たいって言いかけて、ぐっと我慢した。ここで我慢出来へんかったら、全部が全部、台無しになってしまいそうやったから。
「あの、ほなそろそろ」
「なぁ、後で電話してもええ?」
「えっ」
「時間決めて、電話しよ」
「っ、はい」
俺は電車から降りて、種ヶ島先輩は車内に残った。先輩が軽く手を上げたから俺も上げて、扉が閉まり、そうしてまた列車は走り始めた。寂しい、けども。心はぽかぽかと温かかった。俺また、頑張れそうや。
俺はもう一度、家に向かう電車に乗り込んだ。周りを見回したけども、見る窓ガラス見る窓ガラス全部、さっきの情けない顔の俺は映ってへんかった。