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    kk_69848

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    kk_69848

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    蔵種first kissシリーズ最終回です。
    エピローグに続きます。

    no title3(後編) 今でも時々夢に見る。高校最後の夏。あの年は、1年に夏が2回あった。
     ビスっちの返した球が俺の頭上を越えて、俺の精一杯伸ばしたラケットにかすりもせずに、静かにコートにインした。俺の、俺達の夢が潰えた瞬間。俺のミスで、S1の平等院に繋げられへんかった。俺のミスで、日本は負けた。俺のミスで。俺の俺の俺の。
     そこで毎回目が覚めて、全部夢やったと気付く。現実では俺のミスは赤福にカバーしてもろて、俺達は勝った。続く決勝戦も制して、日本は優勝した。
     奇跡やったと思う。たまたま中学生も参加することになって、こっちは枠減らされて面白なかったけど。どいつもこいつも癖のあるオモロい奴らで。どんどん成長してくるんが楽しくて、俺も目ぇ掛けてやったし、こっちも随分と助けられた。
     世界ランク23位のチームの、信じられへん快挙。せやけど、それだけ。優勝したんか、すごいなぁって。世間の反応はそれだけやった。
     平等院とかはその経験を活かして、プロとしてしっかり活躍しとるけども。ビスっちやら、他のドイツチームのプロかて大活躍や。あの試合で勝ったのは俺らやったけど、そんなもんは何年も前の一瞬の話で。俺があれ以上の瞬間を経験することは、もう二度とない。ただあの時の重圧だけが残り続けて、こうして俺に悪夢を見せる。
     俺は重い身体に鞭打って、朝の支度をした。黒い髪にスーツに、極め付きの眼鏡。どう見ても真面目な教育実習生や。ほんでバス停まで歩いて、懐かしい通学ルートで母校まで行く。バスはぐねぐねと遠回りをしながら、色んな景色を見せてくれる。寺とか神社とか、最近オープンした流行りの店とか、いつか通ったテニスコートとか。
     それらを全部通り過ぎたら、舞子坂中学に到着や。まずは実習生に割り当てられた空き部屋まで、荷物を置きに行く。部屋には他の実習生もおって、ちょっとした同窓会気分や─って言いたいとこやけど。浪人した先輩とかもおるし、普段やったらこのメンツで集まったりせんやろなって感じで、そこだけはちょっとオモロい。
     それから職員室に朝の挨拶に行って、指導教員の授業の見学をする。ほんで授業についての感想を書いたり、小テストの丸付けとかもやる(雑用やらされとる)。来週からは俺が授業やるから、教材研究して指導案を書いたりもする。
     授業の見学する時は、教室の後ろで見とるだけでええって言われとるけど。子供らも俺のことが気になるみたいで、チラチラ見てくるし。俺もついつい話し掛けては、指導教員に怒られとる。怒らんでもええのに。
     ほんで授業が終わると、「修二先生、部活の指導してくださいよ」って、引っ張ってかれてまう。俺も打ちたいんやけど、俺の練習相手になれる奴なんておらんし。しゃーないからホンマに指導だけしたる。残念ながら俺らの代と比べると、舞子坂のランクもだいぶ落ちとって。寂しくはあったけど、みんな「修二先生、修二先生」って懐いてくれるし、悪い気はせんかった。
     中には、「元日本代表や言うても、アマチュアの大学生やん。平等院プロとかに教えてほしかったわ」とか言う、ひねた奴もおったけど。そんな奴でさえ、少し気に掛けて褒めてやるだけで、簡単に懐いたから。中学生をたぶらかすやなんて、ホンマに簡単やなって思う。
     ほんでようやく部活から解放されたら、またバスに乗って家に帰る。寺とか神社とか、洒落た美容院とかテニスコートとか、朝とは逆向きの景色を見ながら。コートでは誰かが壁打ちしとるのが遠目に見えて、俺も打ちたいなって思ったけども。再提出になった書類が頭をよぎって、しぶしぶそこのバス停を通過する。
     毎日同じルートを走るバスに、同じような顔ぶれの乗客。いつも通り、自宅の最寄りのバス停で下車をする。そしたら見慣れない女子高校生(多分)も一緒に降りた。何の気なしに見とったら、えらい髪の綺麗な子で。その子が歩く度に髪がさらさらと揺れて、思わず見入ってまった。俺は、髪の綺麗な子が好き。ほんでそうやって綺麗な髪の後ろ姿を見とると、その姿を色んな子に重ねてまう。
     U-17W杯で優勝して、帰国した日。日本で待っとってくれた彼女も、喜んでくれるって思っとったのに。帰ったらもう、他の男と付き合うとった。
     テニスばっかりで構ってやらへんからやって、周りも彼女に同情的で。確かに長い間会われへんかったけど、俺かて寂しいのを我慢しとったのに─っていうのは、テニスを選んだ俺の勝手な言い分らしく。せめて二股みたいなのは勘弁してほしいわって言うたら、「修二かて、そういうことあったやろ」って言われてしもて。まぁ正直、過去にはそういうこともあったけど。    
     や、ホンマにちゃうんやって。彼女がもう別れるって言うたから、別れたんかと思て他の子と付き合うたら、やっぱりまだ別れてへんとか言われて。そんなんめちゃくちゃやんって思ったけど、それも彼女とちゃんと向き合わんかった俺の落ち度らしく。恋愛って楽しいけど、そういうのが続くと面倒になってしもて。しばらく女の子とは付き合う気になれへんわって、そう思っとったらノスケに告られた。
     W杯で随分と懐かれたわって思っとったけど、バレンタインにクッキーくれたから、俺も近くの自販機でココア買ってやったんやけど。そしたら脈があると思われたんか、ホワイトデーにマシュマロ渡されながら告られて。そっち系やったんかって驚きもあったけど、わざわざ「付き合うてください」とか、面と向かって言うてくるのがいかにも中坊で。
     一度は断ったんやけど、それでもテニスは今まで通り教えてほしいとかしつこいし。ノスケも逆ナンがトラウマやって言うとったから、男同士ってのも逆に有りかなって思て。ノスケも綺麗な顔しとるし、男でもイケる気ぃして。
     ほんで付き合うてみたら、ホンマにえらい可愛らしくて。目に見えて浮かれとって、付き合うだけで幸せなんかなって思っとったけど。やっぱりスケベやんな。練習の帰りに、唇もごもごさせて。キスしたいんかなって思ったけど、俺もほっぺたならともかく、男と積極的にキスしたい訳ちゃうし、自分から言い出すまで黙っとったんやけど。いざキスしてみたら、えらい照れくさくなってしもて。あ、好きかもって思った。
     せやけど逆に上手くいかへんこともあって、別れようと思ったこともあったけど。すこーしだけ好きが上回ってしもて、えらい長々と付き合うてしもたわ。ノスケが真っ直ぐやから、俺も迷わず進んでこられたし、ええ関係やったと思う。まぁそれももう、過去の話なんやけど。
     ほんで俺はまたぼんやりと眠って、ぼんやりと目を覚ます。また朝の支度をして、バスに乗る。流れる景色を見ながら、それぞれの行き先に向かって、行き交う人らを見ながら。
     そうして、3週間の教育実習が終わった。何やよう分からへんけど、最終日は教員が「修二先生からのプレゼントや」言うて、HRの時間に何か一発芸しろって言われたわ。何がプレゼントや、罰ゲームの間違いやろって思ったけど。しゃーないからあっち向いてホイで、クラスの子ら全員倒したったわ。さすがに全員を相手するんは疲れたけども、最後の一人(指導教員)を倒したら拍手喝采で、あれはなかなか気分がよかったわ。
     子供らにも教員にも、「ほんまの先生になって、また舞子坂来てや」って言われてしもて。そういう未来もありやなって、少し気持ちが揺らいでしもた。
     ほんで学校が終わってからは、実習生同士で集まって打ち上げをやることになった。来週からは皆バラバラやなって、寂しい気持ちになってしもたけど。結構みんな、子供って可愛いな、先生ってええ仕事やなって気分になっとって。ほんまに教師になったら、また舞子坂で再会しよかなんて言い合うて、盛り上がって別れた。
     週が明けて、月曜日。久し振りに大学に行ったら、俺のおらん間に着々と卒論を進めとる奴もおって。皆で近況報告し合っとったら、あっという間に一日が終わった。
     火曜日。真面目に卒論関係の調べ物をした。
     水曜日。さすがに部活に顔を出したいんやけど、久し振りやから一人やと行きにくくて、奏多を誘った。そしたらレポートがあるからって断られた。
     木曜日。そろそろ懐が寂しいから、がっつりバイトをした。
     金曜日。今日こそは部活に行くつもりやったのに、高校の同級生に合コンに誘われてしもた。しばらく恋愛する気もないんやけど、ずっと断わり続けとったし、気分転換も兼ねて行ってみた。女の子達はみんなレベルが高くて、久し振りの夜の街は華やかやった。楽しかった。
    「なぁ修二くん、酔ってしもたんやって。送ってくれへん?」
     女の子の一人が、合コン後に声を掛けてきた。正直幹事に任せたかったけども、別の女の子とシケこんどるんか、もう幹事の姿はなかった。
    「タクシー呼ぼか?」
    「一緒に乗ってくれるん?」
    「大人なんやから、一人で帰り」
    「一人とか、寂しいわぁ」
     女の子の身体が俺の腕にしなだれかかった。白い肌、柔らかい身体。寂しいのは俺もそう。せやけど今は、寂しいままでよかった。
     俺はタクシー代を握らせると、女の子をタクシーに押し込んだ。あーあ、これで昨日稼いだバイト代がパーや。
     俺はヤケになって、繁華街から家に向かって歩き始めた。結局使わへんかったラケットバッグが重いけど、もうどうでもええわ。朝までには着くやろ。
     人通りの多い道を避けて、細い道、細い道へと入って行く。そしたら行き止まりにぶち当たって、ほんまにアホやなって思いながら引き返す。地図も見んと、寺とか神社とか見て、今この辺りやろかって思いながら。洒落た美容院や、最近オープンした流行りの店の前を通り過ぎる。
     そうやってまるで酔っ払いみたいに、フラフラと歩いとったら(酒も少しは入っとったけど)。ふと、遠くにテニスコートが見えた。いつか通った、クレーコート。街灯の下、誰かが壁打ちしとるのが遠目に見えた。
    「……」
     そんなはずは無いって思た。こんな所におる訳ない。今頃あいつは、薬学部で勉強を頑張りながら、部活でも大会上位─いや、優勝を目指して頑張っとるはずや。こんな場所におるはずがない。絶対に気の所為や。
     俺はそのまま道なりに、家の方角に向かって歩き続けた。せやけど、歩けば歩くほど、どんどん足が重なって。もしホンマにそうやったらって、気になって気になってしゃーなくて。居ても立っても居られんくなって、気ぃ付いたら俺は、コートに向かって走り出しとった。

     コートの隅では一人の男が、黙々と壁打ちをしとった。俺は走って来たくせに声を掛けられんくて、息を切らせながら黙ってその姿を見とった。色素の薄い髪と肌と、テニスに適した伸びやかな身体。そして何より、美しいフォームやった。
    ─ポンッ
     ラケットに当たったボールが一際高く宙に浮いて、そのまま地面をトントンと跳ねた。男がこっちを見て、目が合うた。頬を伝って流れる汗に、街灯の光が反射する。
     会ったらあかん。会って色々言われたら、きっと絆されてまうからって。そう思っとったのに、男は何も言わへんかった。跳ねたボールは俺の方に転がって来ると、ゆっくりと減速して止まった。
    「……」
     男はボールなんて無視して、黙って俺の目を見据えた。彫りの深い目元に、ガラス繊維みたいなまつ毛がキラキラと光る。綺麗に通った鼻筋に、人を魅了する唇。その唇が動いて、梅雨時の夜の蒸し暑い空気を、少しだけ震わせた。
    「俺が、高1の時─」
    「……」
    「ここで俺が来るのを、待っとってくれたんやろ?」
     3年前の、答え合わせ。約束やなんて、何もしとらんかったけど。まるで引き寄せられるみたいに、俺ら二人、今同じコートにおる。
    「や……、あの時は別に、待っとった訳ちゃうけど」
    「けど?」
    「会えたら、ええなって」
    「俺もまた、修二に会えた」
     深く、優しい声やった。周りの空気が、急にカラッと軽くなった気ぃした。
    「会えてしもたなぁ☆」
    「せやな……」
    「いつからここにおったん? 通った?」
    「毎日やないけど、結構待ったわ」
    「えー、1ヶ月くらい?」
    「あー……、分からん。そんなには待ってへんかも」
     男は苦笑しながら頭をかいた。ぼんやりとした街灯の灯りでは、細かい表情なんて分からへんかったけど。男はまるで慈しむかのように、薄く笑って言うた。
    「待つのって、長く感じるな」
     俺達が恋人になる前から、なった後の少しの期間。俺が練習相手になってやった、思い出のコート。俺がスランプになってからは、思い出のまま、閉じ込められとった場所。そこに可愛らしい後輩はもうおらんくて。今おるのは3年前の俺よりも、大人になったノスケの姿やった。
    「なぁノスケ、試合しよか」
    「試合?」
    「俺のこと、負かしてくれるんやろ?」
    「……ええで。3セットマッチにしよか。腑抜けたおっさんにはキツいやろ」
    「誰がおっさんや」
    「おっさんはおっさんや」
     可愛げのない後輩を背に、ラケットバッグからラケットとシューズを取り出した。靴を履き替えてコートに入って、ネットを挟んでノスケと向き合う。いつだって、一番好きな瞬間。せやけどふと、何やら違和感に気付く。
    「あれ?」
    「ん、何やった?」
    「そのラケット」
    「あー……、これな」
    「お揃いやん」
     街灯の下に浮かぶ、真っ黒なラケットの黄色いライン。ノスケの手にあるのは、俺の持っとるのと全く同じラケットやった。
    「別にお揃いちゃうて。俺、ここのメーカーが好きなんやって」
    「へぇー、そうなんやぁ……」
    「ほんまにちゃうて」
    「あ、ええこと思い付いた」
    「今度は何や?」
    「なぁ、それ貸して。交換しよ」
    「はぁ? 何でや」
    「ええからええから」
     半ば強引にラケットを交換してやると、妙にしっくりと手に馴染む。いつ買うたんか知らんけど、昨日今日買った訳ちゃう。使い込んでボロボロになったラケットが、俺の手の中にあった。
    「……ええ趣味しとる」
     俺は念入りに手首を回すと、ラケットをしっかりと握り直した。やる気のない合コンで、ラフな格好やったのが都合がええ。俺は軽く素振りをして、その感触を確かめた。いける。
     いつもより狭く感じるコートの、ネットを挟んで向こう側にある、ノスケの顔。余裕そうな顔をしとるけど、目だけは怖いくらいにギラついとって、思わず全身がゾクゾクしてまう。
    「ほな、いくで」
     サーブ権も決めてへんのに、ノスケが勝手にサーブを打って。刺すようなサーブが俺のコートに打ち込まれた。
    「……っ」
     梅雨時のクレーコートは、湿気を含んで重たい。ボールはあんまり跳ねへんし、スピードも落ちる。いける、追い付ける。俺の伸ばしたラケットが重い球を受け止めて、ノスケのコートに返した。ほんまにええラケット。ガットの張りも最高。さぁ、次はどこに打ち込んで来るんや。
    「修二、やるやん」
    「元、日本代表ナンバー2やからなっ」
     ノスケは難なくボールを受け止めると、次はコートの逆側の隅にボールを返してきた。しょっぱなから、めちゃくちゃ走らせてくる。容赦ないわホンマ。せやけど俺は、ラケットに当てさえすれば全部返せる。全部返したる。
    ─已滅無
     ノスケが絶対に返せへん場所にボールが落ちた、はずやったのに。次の瞬間にはもう、ノスケのラケットがボールを捉えとった。
    「どんどん技出してええで。全部返したるわ」
    「はっ、そうこなオモロないわ」
     打っても打ってもノスケが返してきて、せやけど俺も全部打ち返したった。全身が燃えるように熱いし、手のひらがグリップと擦れてひりひりと痺れた。汗で服も髪も肌に張り付いて、砂にまみれてボロボロで、みっともなくて。それでもガットにボールが触れたら、その振動が全身をビリビリとふるわせた。
    「このセットは俺のもんやな」
    「アホ言うな、俺のや」
     そうして何度も打ち込んで、打ち込まれて。何ゲーム目かも分からんくらいになりながら、コートの中を必死に走り回った。身体はもう限界やったけど、自分でも驚くくらいにボールを返せた。
    「っ、これでどうや」
     痺れを切らしたノスケが、渾身のスマッシュを打ち込んだ。すごい球や。俺のコートのラインぎりぎりに、地面を抉るように打ち込まれた。こんなん打たれたら返せへん、けど。
    「……惜しかったな、アウトや」
    「って、おい修二」
     審判がおらんくて自分のコートをセルフジャッジする場合、際どい球はインとして扱うんが通常のマナー。せやけど、俺には見えたから。
    「ゲーム&マッチ。俺の勝ち☆」
    「俺に勝たせるんちゃうんか」
    「気ぃ変わったわ」
     ノスケは「何やねん」とか不服そうなことを言うとったけど、表情は案外清々しかった。俺はぜーぜー肩で息をしながら、手のひらの中でラケットをくるくると回した。
    「なぁノスケ、俺とダブルス組まへん?」
    「ダブルス? 何かの大会に出るんか?」
    「またオーストラリア行きたいわ。全豪オープンとか」
    「全…、はぁ?」
    「あ……」
    「え、プロになるってことか?」
    「や、あー……」
     肺も心臓もグツグツ煮え滾っとるのに、ノスケに顔を覗き込まれたら、頭も背筋もスーっと冷えてしもて。重苦しい梅雨時の空気が、途端に全身にまとわり付いた。
    「え、プロになりたかったん? ダブルスで?」
    「んー……」
    「なるとしても、俺が大学卒業する頃には修二おっさんやん。無理やろ」
    「何やねん、さっきからおっさんおっさんって。傷付くわぁ」
    「無理やろ。飛行機も乗られへんのに」
    「あー……ノスケが手ぇ繋いどってくれたら、飛行機乗れるかも」
    「かもって何やねん」
    「何やろな」
    「無理やろ」
    「んー、せやなぁ」
    「……」
    「……、帰ろか」
     ラケットバッグにラケットを仕舞おうとしてから、それがノスケのラケットやったと思い出す。黙ってノスケに突き返すも、ノスケはラケットを受け取らんかった。
    「ノスケ」
    「……」
    「なぁ、帰ろ」
    「俺、薬学部に入ってしもたから、6年間あるし」
    「分かっとるて。帰ろ」
    「……それとも俺に、大学辞めろ言うんか?」
    「言うてへん。そんなん言うてへんわ」
    「俺が受験勉強頑張っとったの、知っとるやろ?」
    「知っとるし」
    「無理やわ」
    「せやな」
     プロになんかならんくても、皆それぞれの道を楽しく生きとる。それが一番ええことやから。
    「……っ、なんやねん。俺、今の一瞬で色々想像してもうたわ」
    「……」
    「そない半端な気持ちで、誘わんでほしい」
    「……すまん」
    「すまんって何やねん。修二が大学辞めろ言うんやったら、辞めるし」
    「そんなんせんでええて」
    「大学なんて、それこそおっさんになってからでも入り直せるし。プロになるなら今しかないやろ」
    「俺そんなつもりちゃうし。入学金も授業料も高かったやろ。プロになっても稼げへんで」
    「ええわ別に。顔だけでスポンサー取ったるわ」
    「ふふ、俺も見た目には自信あるけど」
    「ほんなら、俺に大学辞めろて言うてほしい」
     ノスケが真っ直ぐに俺を見詰めてくる。現実感の無いまま、得体の知れないプレッシャーが、足元からぞわぞわと這い上がってくる。背中にじっとりと汗が浮かぶ。
    「そんなん……そんなんで人生決めてええんか」
    「修二の覚悟を聞いとるんや。辞めろ言われて、ほんまに辞めるかどうかは別の話やわ。うぬぼれんなや」
    「手厳しいなぁ」
    「甘やかしたりせえへんで」
    「はは、ホンマにかなわんわ」
    「っ、修二」
    「……」
    「修二……」
    「……言わなあかん?」
    「アカン……」
     音として口に出すだけなら、簡単なことやった。言うだけやったら誰にでも出来る。せやけど今は、瞼すら重い。
    「……」
     どうとだって出来る。このまま笑って帰ることだって出来る。希望しとった実業団の、内定やって出とる。ノスケかてきっと、大学に入って色んな関わりが増えた。そういう道やって、きっと一つの正解や。
     俺は重い瞼を上げて、ノスケの目を見た。ノスケの真っ直ぐな目が、俺を見とった。頭ん中がぐるぐるして、身体が熱い。あぁ、せやけど。
     俺も真っ直ぐにノスケを見ると、口を開いて声を絞り出して、二人の間の空気を震わせた。
    「大学辞めて、俺と世界一のダブルスプレイヤーになってや」
     ……言った、言うた。パンッて風船が割れるみたいに、周りの重苦しい空気が、全部吹き飛んだ気ぃした。
     そしたらノスケの手がこっちに伸びてきて、砂でざらつく指先が俺の頬にふれた。ほんでノスケが整った顔を幸せそうに歪ませると、何度も何度も俺の頬を撫でてから、「ん」って言うた。
    「んって何や」
    「……なる」
    「ほんまにええの? プロになるにしてもシングルスもあるし。もっとよお考えてからでも─」
    「シングルスもあるけど─」
     ノスケがラケットを差し出して、二人のラケットがコツンと鳴った。
    「修二がテニスの楽しさを忘れたら、俺が教えたるし。俺が忘れたら、修二が教えてくれるんやろ?」
     そう言われて俺は、目の前が火花みたいにチカチカと爆ぜて。この先何が起きても、今日という日を糧に生きていけるわって思った。
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