オメガバース蔵種(下3)次の日曜日。舞子坂中学男子テニス部部室には、他校生である白石の姿があった。他に集まっているのは1、2年生の部員達と、補助としての元部長、元副部長などの3年生達だ。同学年である元部長達は、白石とそれなりに親しげにしていたが、1、2年生達はどうにもギスギスしていた。
それもそのはず。少年達にも、プライドというものがある。突然現れた他校の中学生に教えを請うなど、到底素直に出来るものではない。
そこで白石は練習前のミーティングで、自身のW杯での経験を話した。W杯でいかに種ヶ島に世話になったか、そしていかに立海大附属中の生徒の活躍が多かったか。
四天宝寺中と舞子坂中は、普段の大会ではライバル校ではある。しかし世界を見据えた際は同じ関西圏として、切磋琢磨し合い、共に高め合う必要があるのではないか。白石はそう語り、部員達を鼓舞した。
元来、負ける為にスポーツをやる者など居ない。白石の話によって、1、2年生達の目の色はみるみる変わっていった。白石が完全にその場に受け入れられた訳では無い。寧ろ白石を利用してやろうという魂胆だったが、結果として彼らは団結し、熱気のある練習が始まった。白石の考えたメニューに従い、1、2年生達が貪欲に自身に欠けているものを吸収していく。
その様子を、校舎の窓から眺めている者があった。種ヶ島だ。ご丁寧に双眼鏡を構え、白石や他の部員達を観察している。
種ヶ島らが卒業してからというもの、舞子坂中学テニス部は、今ひとつ戦績が伸び悩んでいた。今以上の成績を、そしてゆくゆくは種ヶ島も成し得なかった、全国制覇を果たしてほしい。それが種ヶ島の、嘘偽りの無い気持ちだ。
種ヶ島は双眼鏡を覗きながら口元を緩めた。白石にコーチングを頼んだのは、ちょっとしたイタズラのつもりだった。しかし結果として、随分といい刺激を与えてくれたようだ。
「ふふ。かっこええなぁ」
何も知らずに部員達を指導する白石を、種ヶ島はいつまでも眺めていた。
日が沈み始める頃に練習は終わり、1年生達が片付けを始めた。白石はまだコートに残って、一人一人に声を掛けている。種ヶ島はそっと、コートに近付いていった。部員の一人が種ヶ島に気付いたが、種ヶ島はすっと口元に人差し指を当てた。白石は、まだ気付いていない。
いつもだったら、待つのは嫌いだ。しかし白石が舞子坂を思い、丁寧に一人一人に声掛けをしていくのを見るのは、先輩としてとても幸福な時間でもあった。
そうして最後の一人へのアドバイスが終わり、もう誰も残ってはいまいかと、白石が周りを見回した。夕暮れの太陽の最後の光が、白石の視界の邪魔をする。白石は身体のシルエットから、それぞれが誰かを推察する。今日の練習を思い出しながら、一人一人、あの少年、この少年と。そしてあれは─
中学生にしては完成されすぎた長身の身体に、夕陽に染まるふわふわの髪。ユニフォームではなく、制服らしきものを着ている。もう肌の色はよく分からなかったが、間違えるはずがない。今日会えるはずのない人物が、確かにそこに居た。
「えっ、なんでおるんですか?」
「ちゃい☆」
白石の切れ長の目が丸くなり、じっと種ヶ島を見詰める。
「え、そっち何時に終わったんですか? ちゃんとコーチしてくれました?」
「や、それがな」
「えっ、はい」
「やっぱりコーチとか恥ずいやん。行くの怖なってしもて、代わりに奏多に行ってもろたわ」
種ヶ島が大袈裟に怖がる素振りを見せると、白石は「はぁ?」と大声を上げた。
「えっ、ちょお俺、今日種ヶ島先輩と交換で行くんやと思て。練習のメニューとか、めちゃくちゃ真面目に考えて来たんですよ?」
「助かるわぁ」
「金ちゃんとかも、種ヶ島先輩に会えるのめっちゃ楽しみにしとったんですよ? 財前やって、部長として頑張っとったし。ケンヤとか、他の3年生らも見学に行くて言うとったのに」
「うんうん」
「入江先輩て、そんなんあります?」
「奏多に失礼ちゃう?」
「や、別に入江先輩が嫌な訳ちゃいますけど……。けど、あーっ、もう」
白石が頭を掻きむしった。珍しい姿だ。入江も悪い人間ではないのだが、話していると少々疲れる時もある。入江と四天宝寺の面々は、どんな時間を過ごしたのか。何とも面白いような気もするが、同時に少し怖い。
「わはは、悪い悪い。また今度そっちに行くから」
「ほんまに? 絶対ですよ?」
白石が子供らしく、ころりと表情を変える。その態度には、何のわだかまりも感じられない。そう、会ってしまえばそれまでなのだ。
種ヶ島は元U-17日本代表ナンバー2の選手であり、京都在住の高校3年生。白石も日本代表の選手であり、大阪に住む中学3年生。合宿で、W杯で知り合った、よい先輩と後輩だ。白石は種ヶ島をテニスプレイヤーとして尊敬し、種ヶ島は白石に目をかけていた。それだけは、何があっても変わることはない。特にここ、コートの上では。
「どうやった? うちの中学生らは」
「ええチームですね。基礎がちゃんとしとるし、全体的に能力が高くて、雰囲気もええし。せやけど─」
「けど?」
「まぁ今年も四天宝寺が、勝たせてもらいますわ」
「言うわぁ、ホンマに」
二人は笑い合った。そうしてひとしきり部活動の話をしてから、白石は種ヶ島の目をじっと見詰めた。夕陽でよく見えなかったが、やはりその瞳の奥には、以前とは違ったものが感じられた。
「でもほんまに、会えてよかったです」
「俺も」と言おうとして、種ヶ島は口をつぐんだ。白石は白石で、種ヶ島の返答など必要としていないかのように、「よかった、ほんまに」と繰り返した。
陽はゆっくりと傾き続け、二人の影を長くしていく。どちらの影がより長いのか、もう判断は付かない。部室の扉が開いて、元部長が顔を覗かせた。「白石ー、早よ着替えな鍵閉めるでー」とだけ言うと、また部室に引っ込んだ。
「あっ、俺もう行かな、あかんのですけど」
「うん。お疲れさん」
「や、あの、その前に聞きたいことあって……」
「何やった?」
「あの、種ヶ島先輩って。……俺に、電話とかしました?」
「え、知らんけど」
種ヶ島はシラを切った。とぼけた訳ではない、自己保身の為の嘘だ。
「あ……、はい。そうですか」
「誰かから、電話あったん?」
「や、俺、すぐに妄想とか、してまう方なんですけど」
「妄想?」
「最初はそんな訳ないって、思ったんですけど。後から、種ヶ島先輩からの電話やったんちゃうかなって、思ってしもて」
「……悪いけど、してへんわぁ」
種ヶ島は嘘を重ねた。嘘も二度重ねると、それは本人の中で真実となる。
「せやから、妄想なんですけど」
「何で俺やと思ったん? 声、似てたん?」
「や、それはあの……」
白石も、根拠なくそう思っていたのだろう。種ヶ島に追い詰められれば、気の毒なことに。白石の声はどんどん弱々しく、力を失っていく。
「全部俺の、妄想なんですけど」
「……うん」
「俺、ずっと、色んなこと、考えとって」
「……」
「ずっと、聞きたくて」
「うん?」
「何で、何であんなこと、したんですか?」