とある野良猫のはなし2000年×月×日
「ねえねえ、新人くん。あなた今日夜勤だったよね」
「あ、はい! そうです」
少し強面の先輩看護婦に突然話しかけられた私は声が裏返ってしまう。役職は付いていないけれど、かなり上の先輩で会話なんてほとんどしたことない人だ。何だろう、引き継ぎはもっと上の人たちで行うはずだし、昨日の業務で何かやらかしたのだろうか。そんなことを考えて内心冷や汗をかいていると、先輩の顔がずいと近付いてくる。
「ね、あなたが出勤した時、いた? 白黒の、おっきい猫」
「あー……あれ猫だったんですね。車の端になんか影が見えたと思ったら引っ込んだんで、何だろうと思ってたんですよ」
「やっぱりまだいるのね」
私の返事を聞いて思案顔になった先輩の眉間のしわがいつもより深くて、猫が周りをうろついてるのってそんなにまずいのだろうか、と不安になる。しかし先輩の口から出た言葉は私の予想を裏切るものだった。
「それが、本当に猫なのか、分からないのよね」
「え?」
意味がわからず聞き返すと、先輩はふいと顔を逸らす。つられて同じ方向を見ると、何もない壁だった。
「昨日の夜に、何人か赤ちゃんが産まれたのは知ってるよね」
「はぁ、まあ」
先輩は何もない壁を見つめていたわけではなく、壁の向こうにある新生児室を見ているようだ。
「昨日の夜から、新生児室の窓に影がチラチラ映るんだって。で、それが猫みたいなシルエットだったんだけど。――ホラ、ここ、三階じゃない。映り込むはずがないのよ」
ごくり、と唾を飲み込む。猫の話だったはずが、雲行きが怪しくなってきた。
「正体が何だか分からないわ影がちらつくのが夜中続くわで昨日夜勤の子が怖がってたんだけど、日勤の子が病院の入り口で大きな猫を見たって言ってて。とりあえずその猫の影が妙な具合に窓に反射して映り込んだんじゃないかって話で終わったんだけれど」
私は途中まで聞いて胸を撫で下ろしていたのに「けれど」と続けられたせいで視線を先輩に戻してしまった。
「その猫がね、妙な見た目をしているんだって。左右真ん中で白黒が綺麗に分かれていて、しかも黒の方はワラビみたいにクルクル巻いているみたい」
「ええ……?」
思わず困惑した返事をしてしまう。たしかに珍しいけれど、世界中を探せばそんな猫は一匹や二匹くらいいるのではないかと思ったからだ。しかもそれをなんで私に話すかも分からない。そんな戸惑いを感じたのか、先輩は視線を私に戻す。
「あなた、猫好きでしょう?」
「うぇ!?」
驚いた声を上げると先輩の目が愉快そうに弧を描いた。
「カバンに猫のマスコットが付いているの、知っているわよ。私も猫好きだから目についちゃって」
「はあ……」
「もし仕事帰りに見つけたら教えて頂戴。捕まえて保護するから。日勤の子は追い払っちゃったみたいで。まあ医療機関だし、衛生的にも良くないし分かるけどね。ああ、もし捕まえられそうなら、あなたが捕まえてくれても構わないわ」
そんなことを言われても、私はもっぱら見る専の猫好きである。実際の猫は猫カフェで触るくらいで、野生の猫を保護したことなどない。しかしそう言ったところで意味はないだろうと判断した私は、別の疑問を口にすることにする。
「先輩は気味悪くないんですか? そういう噂のついた猫ちゃん」
「ああ、言葉が足りなかったわね」
意味がわからず疑問符を浮かべると、先輩が満面の笑みになった。元々が強面の人だから、迫力も相まって――正直かなり、怖い。
「私、ホラーとかオカルトも大好きなのよ。不思議な噂の猫、是非うちで飼ってみたいわぁ」
逃げて、猫ちゃん。私は表情に出さないように気をつけながら、強く思うのだった。
2000年×月△日
今日は妻と娘の退院日だ。分娩に時間はかかったけれどその後の回復も順調で、母子ともに健康だと先生から判断されたため産後四日ほどで退院許可が出た。意気揚々と駐車場に車を停め、降りたところでいつの間にか車の前に一匹の猫がいることに気付く。そいつはかなり大きく、長毛種で毛ヅヤも良い。しかし奇妙なのは、左右で身体を割ったように白と黒に分かれた毛色をしていることだ。珍しい猫もいるもんだと車の鍵を閉めながら観察していると猫はまるでお辞儀でもするように頭を下げて車の影に隠れた。
どこかの飼い猫なんだろうか。毛が長くて首輪は見えなかったけれど。そんなことを考えつつ手続きを済ませ妻の病室へ行く。
「おはよう、えーと、ママ?」
「朝からお迎えありがとう。なんだかパパママ呼びするの恥ずかしいわね。ねー、立香」
はにかむように笑った妻は少しやつれているが、腕に抱いた娘へ愛おしげに話しかける様子は美しかった。
「荷物持つから、ママは立香をよろしく」
「うん」
妻は荷造りも済ませてくれているようで、いくつかの鞄を持つだけで退院の準備が終了した。お世話になった看護婦さんに挨拶を済ませて病院を出ると、入り口の真正面に先程の猫が座っているのが見える。
「あ! あの猫また……! すみません、追い払いますね」
たまたま近くを通っていた看護婦さんが箒を持って猫を追い払おうとしたのを見たからか、猫が物陰に隠れた。
「あの猫は地域猫みたいなものではないんですか」
気になって箒を準備している女性へ話しかけるが、彼女は「いえ」と否定してくる。
「数日前から急に現れるようになったんですよ。院内に入ってくることはないんですけど、医療機関なので野良が周りをウロチョロしてるとあんまり良くないという話になりまして……って、もういない」
彼女は箒を持ってキョロキョロしている。どうやら探し出してまで追い払う気はないようで「すみません、最後にバタバタしたところをお見せして。気をつけてお帰り下さいね。お大事に」と言って奥へ消えていった。
「あの猫ちゃん、さっきも見たの?」
「うんそうなんだ。毛艶も良かったからてっきりこの辺で飼われてる猫かと思ったんだけど」
二人で会話しながら車の方まで歩いていって、ドアを開けて妻を乗せたところで気配を感じて周りを見渡す。
「きゃっ」
妻の声が聞こえたのでそちらを見ると先程の猫が車に乗ろうと体を滑り込ませているのが見える。
「わ! だめだよ。君は連れていけないんだ」
白黒猫を追い払い妻側のドアを閉めたところで、隣の車の下から不満げな鳴き声が聞こえた。
「家が欲しいなら別のところで探しな」
そう言って自分も車に乗り、発進させる。バックミラー越しに猫が影から出てきてこちらを見ているのがわかった。
十五分ほど車を走らせて家の駐車場に車を止め、玄関を開けようと鍵を取り出して扉を見ると、扉の前にはなんと先程と同じとしか思えない見た目の猫が座っていた。
「ンナァ」
びっくりして妻と顔を見合わせる。
「さっきと同じ猫ちゃんだとも思えないけど、同じにしか見えないわね。うちに来たいのかしら?」
「んー、でもなあ。立香もいるし、危ないんじゃないか」
「そうよね。野良だとなにか病気とか持ってるかもしれないし……」
二人で相談して玄関から退いてもらうことを決め、妻には少し離れていてもらい猫を「しっしっ!」と追い払う。猫もこちらを攻撃してくるつもりはないようで、案外さらりと逃げていった。
「お待たせ。お帰り我が家へ」
「ふふ、ありがと」
扉を開けて妻を招き入れ鍵を閉める。これからきっと大変なことはたくさんあるけれど、楽しい三人での生活が幕を開けるのだ。――そう、思っていたのだが。
ンンンン、ンナアアアアア、ナオオオオオン、ンンニャア
家に入り入院時に使っていた物品を整頓し、立香をベビーベッドに寝かせ二人で一息つこうとしていた矢先、外から鳴き声のような、お経のような声が聞こえ始める。なんだなんだと窓へ近づくと、先程の大きな猫が窓の近くで鳴いていた。その声は体に見合ってかなり大きく、窓ごしにも無視できないほどの声量だ。
「えええ……」
「猫ちゃん、なんでそんなにうちが気になるのかしら」
妻と一緒に戸惑っていると、こちらに気付いた様子の猫が窓に近付いてきてガラスをカリカリ引っ掻く。まるで開けてくれ、と言っているようだった。
「そのうち諦めて何処かにいく……はず」
「え、ええ。もしうちに来てもらっても、ずっとあんな調子だと困るし」
それもそうだ、と思いながらレースカーテンを閉めて気を取り直しお茶とお菓子を用意する。どちらも妻が好きなものだ。これで少しでも英気を養ってもらえたら、と思い妻に出すと彼女は顔を綻ばせて喜ぶ。彼女の入院中に用意して良かった、と内心思っていたところでまた外から地鳴りのような声が聞こえ始めた。今度は無視するが、夕飯の時間になっても、風呂の時間になっても鳴き止むことはなく二人とも辟易し始める。立香だけは泣くことなく穏やかに寝ているのが不思議だったが。
「ねえ、あなた。その……ご近所迷惑にもなるし、あの猫ちゃん、一旦うちで保護するのはどうかしら。いっときのことなら立香とは違う部屋に居てもらったらいいし」
家に帰宅後授乳の時間まで仮眠を取る予定だった妻がげっそりした顔でそう言ってくる。家に上げて鳴き止むならいいけれど。そう思いつつ妻の言葉を無視もできずに頷く。
「わかった。とりあえず今日は別室にいてもらって、明日キャリーケース買って動物病院で相談してくるよ」
妻にそう伝えてフローリングの部屋に新聞を敷き、浅い皿へ牛乳を満たしたあと意を決して家の扉を開ける。扉が開いたのに気付いた猫が近寄ってきたのを見て、俺は真顔で猫に話しかけた。
「なあ、今日はうちに泊まっていいから鳴くのをやめてくれ。うちには産まれたての子供と疲れた妻がいるんだ。寝かせてやって欲しいし、君は病気を持ってるかもしれないから会わせられない。明日君を朝イチで病院に連れていって検査してもらう。里親も探す。だから家では静かにしてほしい。それが守れないならうちには入れられない。わかった?」
我ながら猫に話を分かってもらおうなんて無茶な話だ。そう思いながら話し終えると、猫は神妙な面持ちで「ンにゃあ」と鳴いた。
「お? 分かってくれたか? じゃあ、こっちにおいで」
自分のすぐ近くで止まった猫に手を伸ばす。触れるか分からなかったため頭を撫でてみるが嫌がることもなく大人しくしている。そのまま抱き上げると、ずっしり重い体躯と艶やかな毛並みの触り心地が気持ち良くてクセになりそうだった。体もあまり獣臭くなく、土のような、草のような匂いがした。
「足を拭くからな、大人しくしてろよ」
玄関先に用意していた濡れ雑巾で足先を拭くときも大人しくしている。まるで本当に言葉がわかっているようだ。そんなことを思いながら新聞を敷いたフローリングの部屋に猫を入れ「ここで一晩静かにしてるんだぞ」と言って扉を閉める。明かりを付けておいてあげたほうがいいのか悪いのか分からなかったから、電気は消してカーテンを開け外の明かりが入るようにしておいた。リビングに戻ると妻が心配そうに顔を覗き込んできたので笑顔を作る。
「おつかれさま、ありがとう。怪我はない?」
「ああ、大丈夫だよ。不思議なやつで人の話が分かってるみたいだった。俺は風呂に入ってくるから、先に寝てて」
「うん」
妻と会話を終えたあと風呂に入り、先に寝た妻を起こさないように布団へ滑り込む。二階に寝室があるが、ベビーベッドを二つ買うのも勿体無いし、移動させるのも現実的ではないし、という理由で授乳が必要な間はリビングで川の字に寝ることにした。今日は一日色んなことがあったな、と思いながら目を閉じた途端、意識が遠のく。その日は疲れもあってか泥のように眠った。
2000年◯月×日
早いもので、立香が産まれてから半年以上が経った。
病院から我が家に帰ったと同時に転がり込んできた珍客も結局そのまま家族になった今、我が物顔でリビングに伸びている。猫ちゃんは夫が初日言っていたようにこちらの言葉を理解している様子で、一度家に入れてからはほとんど鳴かなくなった。夫に病院へ連れて行かれ、採血されたり洗われたりしても暴れることなく(文句は言っていたようだが)大人しくしていた猫ちゃんは一通りの検査を終えてから立香と対面させた。立香を見た猫ちゃんは小さな声で鳴いて娘のベビーベッドへ上がり、娘を包むように横たわった。立香はどうするだろう、と思って見ていると猫ちゃんの毛なみが気に入ったようでにこにこ笑っており、これなら大丈夫かしら、と胸を撫で下ろしたのを覚えている。
それからは二人と一匹で立香を育てる日々が始まった。立香はどんなおもちゃより、猫ちゃんと共にいることを好んだ。猫ちゃんも立香のことが好きなようで、毛を涎まみれにされても叩かれても「ンンン」と鳴くだけで立香の好きにさせている。猫ちゃんが私たちに向かってにゃあにゃあ鳴く時は立香がおむつを濡らしていたり、本格的にぐずりそうな時だけ。おかげで私たち夫婦はあまりストレスを抱えることもなく子育てが出来ている。警察に迷い猫の届出が出ていないか調べたりはしたけれど、猫ちゃんが私たちの家族になるのにそう時間はかからなかった。うちで飼うことを決めたとき、名前をどうするかという話が出たが結局夫と「立香に決めてもらおう」という話になった。我が家で一番猫ちゃんに懐き、そして猫ちゃんが懐いているのが立香なのだから結論として当然といえば当然だ。そうして立香が喋れるようになるまで「猫ちゃん」呼びになった猫ちゃんは、立香が寝ている隙にベビーベッドから抜け出してリビングで大の字になっているのだった。
「ふふ、猫ちゃんいつもありがとう。今晩は良いご飯出すからね、楽しみにしてて」
そう言って猫ちゃんの頭を撫でると、目を開けないまま耳がぴるっと動いた。猫ちゃんの耳の先には毛だけの部分があり、それがくるりとワラビのように巻いているので私は心の中で「ワラビちゃん」と呼んでいる。
「んぁ、アぅー」
立香が昼寝から目を覚ましたのか、ぐずり始める。それを聞いた猫ちゃんが目を開けてベビーベッドに駆けていった。
「ンナァ」
「あらあら、起きちゃった。やっぱり猫ちゃんが近くにいないと嫌なのかしら」
「ぅ。う……」
立香は夫に似たオレンジの目を猫ちゃんに向けて何か喋ろうともごもご口を動かしている。そうして、大きな声で言葉を発した。
「どまん!」
「あら」
「ン」
猫ちゃんの首の辺りの毛を掴みながら、何度も「どま! どーま!」と言っている。土間? 頭に疑問符が浮かんだが、猫ちゃんの方を見て何度も言っているところを見ると、猫ちゃんのことを呼んでいるようだった。
「……どまちゃん、って呼んだら良いのかしら?」
私が猫ちゃんに向かって呼びかけると、猫ちゃんはこちらを向いて「ンナァ」と返事をした。どうやら猫ちゃん的にもOKらしい。
「それじゃ、これからはどまちゃんって呼ぶわね」
「ンナ!」
「どーまん!」
今日は立香が産まれて初めて喋った日だ。そうして猫ちゃんの名前が決まった日。記念日なんだから張り切ってご飯を作らないと、と内心腕まくりする私なのであった。
2017年△月◯日
あたしの友達、立香の家には不思議な猫がいる。名前はどーまんって言うらしい。すごく賢くて、ちょっと意地悪で、見た目が変なでっかい猫だ。立香の家へ行くたびに会うから、なんだか見慣れてしまったけれど。普通猫って知らない人がいると隠れるものじゃなかったっけ? そういうところも変わってるな、って思う。
「ただいまー!」
「お邪魔しまーす」
「ンナ」
今日は立香の家で勉強しようという話になり自宅にお邪魔する。案の定、玄関で待つ大っきい白黒の猫が出迎えてくれた。立香ママ曰く、どーまんは彼女が帰ってくるまでほとんど玄関から動かないらしい。立香が産まれた時家に来た野良猫だからそこそこの年なはずだし心配だ、と嘆く立香ママの姿を覚えている。玄関で過ごす時間が多いどーまんのために、藤丸家の玄関ラグはふわふわだ。もう少し寒くなるとどーまんのためにヒーターも出すらしい。
「ンン」
「もう、今日は早く帰ってきたでしょ。友達と勉強するんだから邪魔しないでよね」
「ンンンン?」
まるで会話でもしているみたいだ。そう思いながらリビングにいる立香ママに挨拶して二階にある彼女の部屋へお邪魔する。シンプルだけど所々女の子らしい荷物が置かれた彼女の部屋は居心地が良い。そして立香の足に纏わりついていたどーまんも当たり前のように部屋に入ってきた。
「そのどーまんってさ、立香に四六時中べったりなの?」
「ん? うん、そうかも。喧嘩した時は離れることもあるけど」
猫と喧嘩? 不思議に思ったあたしの顔を読み取ったんだろう、立香が困ったように笑う。
「あはは、変だよね。修学旅行に行く時とか、部活の早朝練習とか、家を開ける時間が長くなりそうな時ってバレるみたいで邪魔されるんだよね。鞄の上に乗られたり、物を隠されるなんてのは可愛いもんでさ。部活のシューズ噛んでズタズタにされたり、服を爪でビリビリにされたりしたこともあったかな。あと仮病使われたときは怒った。そしたらどーまんも逆ギレして引っ掻いてくるわ噛みついてくるわで喧嘩した。そんな時は部屋から閉め出して一人で寝るんだけど、ずうっと部屋の前で鳴くし扉を爪で引っ掻くしで大変だよ」
「わぁ……愛が重い」
予想より派手な喧嘩だった。そして綺麗な顔で立香の膝に乗り上げている猫はわがままキャットだった。友人に困ったヤツだよーって言われながら撫でられているその顔が心なしかドヤ顔している気さえしてくる。
「立香ーお茶が準備出来たから取りに来てくれる?」
階下から立香ママが呼んでいるのを受けて立香が「はーい!」と返事した。
「じゃあちょっと待っててね。どーまんも」
「うん」
「ンー」
膝から降りようとしないどーまんの脇に手を入れた立香が立ち上がると、長いお腹が現れる。猫の胴体は伸びるって本当なんだーなんて思っているうちに立香が部屋から出ていって、残されたどーまんは扉の前で待つ姿勢をとった。こっちなんて見やしない。ほんの少し悪戯心が出たあたしは、どーまんに向かって話しかけた。
「ねえどーまん。アンタ立香が大学で一人暮らし始めたら置いてかれるかもよ?」
どんなに賢いとはいえ猫だ。あたしの言葉なんて分からないだろうと思って言った言葉は、意味を含めてどーまんにきっちり届いたらしい。どーまんは勢いよく振り返ってあたしを威嚇した。その表情は家猫のそれではなくテレビで見るライオンやチーターの顔で、初めて見るどーまんの異様な様子にまずいことをしてしまったのだと気付く。低く唸るような声を出したどーまんがこちらに近付いてきたとき、階段を登る軽快な音が耳に届いた。
「お待たせー! あれ、どしたの?」
お盆を片手に乗せて部屋に入ってきた立香も異様な雰囲気を察したらしい。状況を聞かれたあたしは素直に謝ることにした。
「おかえり立香。いやごめん、どーまんにちょっと意地悪したら怒っちゃって。ごめんね、どーまん」
「……」
どーまんは表情を緩めてくれたものの不機嫌なままで、尻尾を絨毯に何度も打ちつけている。
「わ、ほんとだ。珍しい。何したの?」
「あー……立香が大学で一人暮らし始めたらアンタ置いて行かれるかもよって言った」
「なるほど」
立香が理解した様子で頷きながら机にお盆を置き、どーまんを撫でた。
「私は一人暮らしするなら君も連れてく気だったけど、この家にいる方がいい? どーまん」
「! ンナ、ン♡ なァん」
「はいはい」
立香の言葉に黒目を大きくさせ甘えた声を出すどーまんは(先程の挙動を記憶から消せば)正直可愛く見える。子供の頃から藤丸家にいるとのことだが、なんというか、立香とは恋人みたいな関係だなと見ていて感じた。
「でも結構歳なんでしょ? どーまん、環境変わって大丈夫なの?」
「かかりつけの獣医さんにも相談したんだけど、検査上は超・健康体で肉体的加齢も見られないらしい。家での様子を伝えたらどーまんにとっては私と離れる方がストレスかかって大変なんじゃないかって言われた。まあ一人暮らしだと日中私がいなくて心配だけど……大学の近くに住んでお昼帰ったりすれば何とかなるかなって」
「その様子じゃ、たしかに立香と離す方が大変そうだわ」
立香の膝上に乗り上げて彼女の頬を愛おしげに舐めるどーまんを見ながら言うと、立香も嬉しそうに笑った。
2019年5月◇日
ゴールデンウィークの初日。今日は姉さんが家に帰ってくるため家の中がいつもより慌ただしい。なんでかって? 姉さんに、彼氏が出来たらしいのだ。
姉さんが進学のため三月ごろ家を出て、無事大学に入学した一週間後、母さんへ電話がかかってきたのだ。いつもはメッセージでのやり取りなのにどうしたのかしら、と言いながら出た母さんの声がリビング中に響き渡って驚いたのを覚えている。
大学のカフェでバイトを初めて、そこで知り合った常連さんらしい。どうやらサークルのトレーナーらしく、だいぶ年上みたいで騙されてないのか大丈夫なのかと心配する両親に「ゴールデンウィークに家へ連れて行くね」と姉さんが言ったのだ。お陰で両親はおおわらわ、季節外れの大掃除をするわ「変な人だったらどうやって立香を説得しようか」と毎日のように家族会議まで開かれて、この一ヶ月てんやわんやだった。もし変なやつだったらどーまんが黙ってないでしょ、と俺が言うと両親は「それもそうか」とちょっと落ち着いたけど、それでも心配そうだった。
……なんて、平気そうな顔をしているけれど実は俺もかなり気になっている。どれくらい気になっているかっていうと、部活の合宿を休むくらい。今まで猫のどーまん一筋だった姉さんが大学デビューしたとたんに男と付き合い始めるなんて、相手はどんな人なのだろうと思ったのだ。
ピンポーン
「はいはーい! うん、立香ね? 今開けるわ」
母さんがインターフォン越しに一言二言会話してから玄関へ向かっていく。父さんは昼食後みんなで食べるためのケーキを買いに出ている。母さんの後ろについて玄関にいくと、扉ガラス越しに人影が二つ見えた。オレンジの髪は姉さんだろう。もう一つは……かなりおおきい。母さんが一段降りてスリッパを履き、ドアを開ける。
「ただいまー! 連れてきたよ」
「まあまあ、こんにちは、いらっしゃい」
母さんが大きく扉を押して二人を招く。どーまんのキャリーはどうやら彼氏さんの方が持っているみたいで、姉さんは身軽だった。視線を少し動かし男性の方を見る。女性と見間違いそうなほど綺麗な顔立ちに対し、身長が異様に大きく体格は筋肉質。なにより目立つのは左右で白黒に分かれた髪色だ。なんだかすごく既視感がある。服装はおしゃれだけれど、他の要素がてんこ盛りすぎて細かい要素が入ってこない。そう思いながら俺がまじまじと観察していたのに気づいたらしい。男性は俺と目を合わせて美しい笑顔を見せた。
「ンン。お初にお目にかかりますーー」
その人は、自分のことを蘆屋道満、と名乗った。