えりちゃんのお弁当浜北公園を見渡す場所にある高層ビルの最上階。全面ガラス張りの窓から差し込む日差しの柔らかさに春の訪れを感じて、鎌滝えりは頬を緩めた。
一番ホールディングスの社屋は浜北公園の目の前という好立地にあり、その最上階の社長室からは横浜のみなとみらいなども一望できる最高のロケーションだ。
公園の一角がうっすらとピンク色に染まっていて、あれは桜かなあと思ったところで、昼休憩を告げるチャイムが鳴った。
近代的なビルの、大勢の社員が働く上場企業で、一斉に鳴るチャイムなど珍しいかもしれない。
朝夕と、昼のチャイムの発案をしたのは御歳七十を超える、えりの祖母だった。会社がこんなに大きくなって、働き方が多様化する中で大丈夫なのかなとも心配したが、社長本人が満開の笑顔で賛成した。今では社員の間でも区切りになっていいと好評を得ているようだ。
「はー終わった!よし、昼にしようぜ、えりちゃん」
「はい、お疲れさまです」
チャイムに大賛成した社長の春日一番は、神室町のソープランドで生まれて極道になり、殺人を犯して十八年間服役した。その後、横浜の異人町でホームレスとなり、そこから這い上がってきたという特異な経歴を持つ男だ。
地元の名士と頼りにしていた野々宮の死をきっかけに知り合い、潰れかけの煎餅屋の経営立て直しに手を貸して貰った。彼の人脈や人望のおかげで、しがない煎餅屋は様々な事業を抱えるホールディングスにまで成長し、横浜異人町の一等地とも言える場所に自社ビルを構えるほどになった。
誰も気に留めない煎餅屋の社長だった頃はよかったが、事業が大きくなるにつれ、春日の経歴を取り沙汰されることが増えていった。
敵対していた宝条コンツェルンの嫌がらせも含め、社長の経歴を知って、取引や商談を打ち切りたいと言ってきた相手もいた。
春日は、自分が悪様に言われることにはまるで無頓着だったが、会社経営に影響が出ることだけは心配だったらしく、自分は身を引いて裏方で支えるから、えりか祖母のトメを代表にしてはどうかと言ったことがあった。
その提案に、えりは猛反発した。
客観的な業績の数字やデータ、社長本人の人柄を見ることもせず、殺人の前科や元極道という過去だけで判断するような会社はどうせ先が見えているし、そんな会社との取引などこちらから願い下げだと半泣きで訴えたところ、春日はオロオロとしながら慌てて撤回してくれた。
えりの言ったことはあながち間違いでもなく、春日の経歴を知った上で取引をしたいと言ってくる会社やその経営者には胆力があったし、社会貢献をしたいという趣旨に賛同してくれる先も多く、優良な取引先にも恵まれて、一番ホールディングスの今がある。
春日は口癖のように「俺には学がねえから」とか「頭が悪いから」などと言うが、確かに学ぶ機会はなかったのかもしれないが、地頭の良さと勘所の良さは相当なものだとえりは思っていた。
取引先や投資先、買収先の選別にしても、決して勘だけに頼ることなく、会社概要や決算報告書を読み解く力があり、その上で先を見越した判断が出来る。
たまに失敗することもあるが、それで自分や誰かを責め立てることはせず、いい勉強になったと前向きに捉えて次回に活かそうとする。
本当に、いい人と巡り会えた。
「えりちゃん、最近弁当作ってんだな」
保冷バッグに入れていたお弁当箱を取り出すと、春日は何が嬉しいのか、にこにこしながら声をかけてきた。
「あ、はい。ちょっと節約のために…。昨日の残り物と冷凍食品ばっかりですけど」
「それでも毎朝作ってるんだろ?偉いじゃねえか。ん?でも、節約って…?」
そこまで言って、何を想像したのか、春日が心配そうな顔をする。
「ち、違います。別に、借金とかじゃないんで!もう大丈夫ですから!」
「そ、そうか?足りないようなら、人事に言って給料増やしてもらっていいんだぜ?」
「ダメですよ、そんなの。お給料は充分すぎるほどもらってますから!」
尚も眉を下げたまま心配そうな顔をする春日に、えりは苦笑する。
「…実は、夜間大学に通おうと思って、授業料を貯めてるんです」
「夜間大学?」
「はい。働きながら、夜に通える大学で…。私、会社を継ぐために中退したので、もう一度ちゃんと学び直したいなって」
父の庇護の元、お気楽な女子大生だった自分。なんの目的もなく、ただ周囲が進学するから、そんな理由で通った大学で、なにも学んで来なかった。
「社会に出て、自分の甘さや知識の無さを痛感した今だからこそ、もう一度しっかり勉強したいなって。そうしたら、もう少し会社の役に立てるんじゃないかなって思ったんです」
「そっか…。偉いなあ、えりちゃんはよ」
春日はようやく安心したように肩の力を抜き、慈しむような目を向けるので、父に褒められたようでくすぐったくなる。
「けど、夜間でいいのか?普通に昼間に通った方が…」
「いえ、今さら若い子たちと一緒にというより、夜間の方が色んな職種や立場の人がいて面白いし、刺激になります。あと、会社のプラスになる出会いもあるかもしれないし」
「そうか。仕事熱心なのは嬉しいが、あんまり無理はしねえようにな」
「はい。ありがとうございます」
心から労って、優しい言葉をくれるその柔らかい声に、ともすれば耳が熱くなる。
でももう、わかっている。
この人は、みんなに平等に優しいのだ。
一時期、自分の中に恋愛めいた感情が芽生えた気もしたが、それは尊敬と思慕の入り混じった感情を錯覚しただけだと今はわかる。
情の深いところや周りの空気をパッと変えてしまう明るさに、亡き父の面影を重ねていた部分もあったと思う。
年上で、様々な経験を積んでいるからこその落ち着きや、気遣いの出来る言動に憧れのようなものを抱いたのだろう。
しかし、彼や、その仲間達との交流の中で、とても自分の手に負える相手ではないと悟ったとでもいうか。
一番製菓から一番ホールディングスへと会社が成長を遂げるのと並行して、彼の人生は大きく動いていた。
祖父と父が残してくれた会社を立て直してくれたお礼にと、えりも彼の仲間になり、危険を覚悟の上で共に行動し、彼の過酷なまでの人生の激動を間近で見てきた。
あれだけの辛い思いをした彼を、自分では支えきれないなどという話ではない。
だって、私は。
そこまで考えたところで、春日の携帯が鳴った。デスクの上で軽快な音を鳴らしながら震えるそれを、春日は大慌てで手に取る。
そして。
「よう、趙」
名前を呼び、複雑な虹彩の目を甘く蕩かす。
だって、私は。
彼にあんな顔をさせることは出来ない。
清々しいほどの、完膚なきまでの敗北。嫉妬心も湧き起こらず、惨めな気持ちにすらならない。
いっそ、彼を、こんな幸せそうな顔にさせてくれてありがとうと言いたいくらいだ。
電話の相手は、横浜で商売をするならその存在を知らずにはいられない異人三の一角、横浜流氓の元総帥。武闘派中華マフィアなどと言われる物騒な組織の長だった人だ。横浜流氓という存在は知っていても、これまで幸いにも関わるようなことはなかったので、都市伝説かテレビドラマや漫画の世界の話のような気がしていた。しかし、春日と関わるうちに『裏社会』というものが本当に実在することを改めて知った。
そして、そういう組織に在する人達が、悪人ばかりでなく、居場所を失って寄り添って生きている人達の集まりであることも初めて知った。
マフィアのボスなんて、どんな貫禄のあるオジサンが出てくるのかと思ったら、格好は奇抜でも、目鼻立ちの整った若い男の人が総帥として現れて、とても驚いた。終始穏やかで、気さくに話しかけてくれるし、美味しい料理を振る舞ってくれることもある。
でも、ちょっとした言葉の端々に、やはり『あちら側』の人間なんだと感じることがあった。
それは、春日も同じだ。
だからこそ、自分では敵わないと思ったし、同時になぜだか安心した。
「えりちゃん、俺ちょっと外で食ってくるわ」
そわそわとこちらを気にしながら電話を終えて、春日は浮き足だった様子でそう言った。
「趙さんですか?」
「へ⁉︎あ、ああ、そ、そう」
ちょっとした悪戯心でとぼけて聞いてみると、春日は飛び上がる勢いで動揺し、声を裏返りしながら答える。
「なんか、弁当作ってくれたらしくてよ。下に来てるから、一緒に食わねえかって、その…」
言わなくてもいいことまで言ってしまって、春日も途中で自覚したのだろう、居心地悪そうにどんどんと俯いていく。
「いいですねえ、趙さんのお弁当!社長、いっつもお昼コンビニとかの揚げ物とか味の濃いもの食べちゃうから心配してたんですよ。これから毎日作ってもらったらどうですか?」
にこりと笑ってえりが言うと、コケコッコが同意するように一声鳴いた。
それに春日は笑って、照れくさそうに頭をかく。
「いや、毎日なんてそんな贅沢、バチが当たるし、申し訳なくて頼めねえよ」
はにかみながらそう言って、じゃあとか何か口の中でもごもご呟いて、春日はそそくさと社長室を出た。
その様子に笑って、えりはお茶を淹れようと席をたつ。何気なく窓の外を見て、会社前の歩道脇の木陰に、趙を見つけた。
見慣れたレザーに派手な柄シャツ姿ではなく、白いシャツに淡い色のジャケットを羽織っていた。髪もいつもより柔らかく下ろしていて、そのいつもと違う雰囲気にどきりとする。まったく雰囲気の違う軽やかな装いに、ああ春になったんだなあと、改めて時間の流れを感じた。
ほどなく、会社のエントランスから赤いスーツを着た男が飛び出して来た。トレードマークになったそのスーツの色は勿論だが、すらっとした長い足と、均整のとれた上半身のバランスの日本人離れしたスタイルで、春日はとても目立つ。
会社へ戻って来た社員達に、すれ違う度に声を掛けられて律儀に答えている。けれど、その目はそわそわと趙のいる方に向けられていた。
人並みが途切れたところで焦れたように駆け出して、抱き着きそうな勢いで趙の元にたどり着く。
勢い余って躓きそうになった春日の肩を、趙が笑いながらやんわりと受け止める。
それを受けて、春日が笑い返す、その柔らかで幸せそうな顔。
「よかったですねえ、社長…」
えりは思わず声に出して呟いてしまう。
正直、二人がどういう関係なのかはよくは知らない。
春日は間違いなく趙のことを好きなんだろうし、趙も悪い気はしていないはずだ。
付き合っているかどうか、どんな深い仲なのかはわからない。
紙袋を掲げた趙が、公園の方向を指差す。
春日は嬉しそうに頷いて袋を受け取り、二人は公園の方に歩き出した。
それを見届けて、えりは今度こそお茶を淹れ、自席へ戻ってお弁当を開ける。
昨日の夕飯の残りの、祖母の作ってくれた蓮根のきんぴら。そして、これだけは自分で作ると決めた少し不恰好な厚焼き玉子。菜の花のおひたしと、冷凍食品の唐揚げ。子供の頃から大好きなふりかけを散らしたご飯と、映えのない、けれど好物ばかりで嬉しいお弁当をもぐもぐと口に運ぶ。そのうち、どうしても二人が気になって、弁当を抱えたまま窓辺に向かってしまう。
公園を見渡すと、海を眺める位置にあるベンチに二人の姿があった。さすがにここからだと小さくしか見えないが、それでも春日の髪が目立つのですぐにわかった。
顔を寄せて覗き込んでいるのは、趙が作ったお弁当なのだろう。
「いいなあ、趙さんのお弁当…」
思わず呟い向こうで、二人が趙の手作り弁当を食べながら、時折り顔を寄せて笑いあったりしている。
そのうち、あっという間に食べ終えたらしい春日が、いつものように行儀よく両手を合わせて頭を下げる。
あれはいつもの『ごちそうさま』のポーズだ。
それを受けて趙が恭しく頭を下げた。しばらく並んだまま何かを話しているようだったが、急に春日が趙のこめかみの刈り上げの部分を触って、邪険に手を払い除けられていた。めげずに二、三度繰り返したところで、趙が仕返しとばかりに春日の爆発した髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
そんなじゃれ合いを遠くから眺めて、えりは笑う。
さて、席に戻ってちゃんと食べようと目を離した視界の隅で、趙が春日の肩に、甘えるようにことりと頭を乗せたのが見えた。
それを受けて、春日がごく自然に肩に手を回して、労わるように撫でる。
なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、えりは体温がぶわりと上がった気がした。
その後は居た堪れなくて、窓の外を見ないように自席に戻ってお弁当を食べ終えることに集中した。給湯室でお弁当箱を洗おうと席を立ち、恐る恐る窓の外を覗くと、先ほどのベンチにはもう二人の姿はなかった。
エントランスにも見当たらず、えりがキョロキョロしている後ろで扉が開き、春日が飛び込むように戻って来た。それと同時に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
「間に合った!セーフだな!」
満開の笑顔で告げる春日にえりは苦笑して「遅れたっていいんですよ」と告げる。すると春日が「そういう訳にはいかねえよ」と口を尖らせるので、えりはまた笑った。
「趙さんのお弁当、美味しかったですか?」
「ん?ああ、めちゃくちゃ美味かった!いっつも出来立て食わせてもらってるけど、冷めてんのもまた別の美味さがあるんだなと思ったぜ」
にこにこと嬉しそうに告げる春日の頬が若干上気しているのは、なにも慌てて戻って来たからという理由ばかりではないだろう。
「あ、そうだ、コレ」
そう言って春日は手にしていた紙袋を差し出した。
「え?」
「趙がよ、あとでえりちゃんと食えって、デザートくれたんだ」
「私にもですか?」
「おう!」
嬉しそうに返事をする春日から、紙袋を受け取ると、ふわりと甘い香りがした。
「ドライフルーツ入れたパウ…?なんとかケーキって言ってたな」
「嬉しい〜。ありがとうございます!」
こんなものまで作れるのかと驚いたが、よく見るとラベルが付いていて、有名なカフェの名前が付いていた。これは確か、紗栄子がなかなか手に入らないと言っていた人気のケーキだ。しかも切り分ける必要のない、一切れごとに個包装されたタイプ。
「夕方になると甘いもの欲しくなるだろって、そんなもんかな」
「そうですよ。お煎餅もいいですけど、やっぱり甘いもの欲しくなりますよ。さすが趙さん、優しいですねえ。モテるだろうなあ」
最後にチラリと意地悪を添えると、春日は眉を下げて笑う。
「だよなあ。オレに弁当作ってる場合かって話だよな」
「違いますよ。ちゃんと捕まえておけって話ですよ」
春日がまったく見当違いの自意識の低い発言をするので、えりは思わず口を尖らせて言い返す。
「ん?え?」
えりの言葉に動揺して春日が体を揺らした途端、薄紅色の小さな花びらが一枚はらりと落ちた。
よく見ると、いつものもじゃもじゃの髪にはいくつも桜の花びらが絡まっていて、えりは自然と手を伸ばそうとして止める。
いや、これは。
夜にあの人に取ってもらえばいい。
そう思うとなんだか浮き浮きとしてきて、えりは目の前で戸惑うばかりの春日に笑いかける。
「いや、えりちゃん…」
「ひひひひひ…」
思わず祖母とよく似た笑い声が出て、春日が弱り切ったように「ヒヒヒじゃねえよ」と呟く。
「春ですねえ」
えりはのんびりと呟いて、受け取ったパウンドケーキを手に給湯室へと向かった。
紙袋の中にも、花びらが数枚。
それを見て、えりは再び綻ぶように笑った。