見られない天秤 だんだんと身体が傾いているのは横目に認めていた。
「元也」
「んえ」
「着く」
聖臣は分かって黙っていた。左肩を丁度いい高さの枕として使われたのは鬱陶しいが、殊更拒む理由など、どこを探せどなかった。
夕陽の滲みる青梅線で、意外なほど静かに乗車時間は途切れた。
いつまでもボディバッグの中を漁る元也の尻ポケットからは、革のカードケースが見えている。聖臣がそれを掬って手渡すと、元也の口からはオオ、と驚きか生返事か分からぬ声が出た。
改札を出た先は見慣れた風景である。二人は陸橋を降りてまっすぐ実家の方角へと向かう。
「なんで起きてられんの」
「お前が寝たからだろ」
「ごめんって」
元也にとって、今回の帰省は今までのものとは少し意味合いが違う。
聖臣と元也は、自分たちの関係に「従兄弟」以外の名前をつけようとした。結局のところそれは未遂に終わったのだが、その過程で確信したことが一つ。己で選択してきた人間関係の中で、最もプライオリティが高いのがお互いであった。
言葉はない。聖臣が寝床から起き上がれなくなれば呼び鈴を押しに行くのは元也であったし、元也が延々便所に籠もっているのであれば喉奥に指を突っ込むのは聖臣であった。
そういう実績の積み重ねを、そろそろ家族にも気取られるのではないかと、それを元也は気にしていた。
一方の聖臣も聖臣で、元也の数日前から続く挙動不審ぶりに大体を察した上で、絶対に今回の帰省も一緒に帰るのだと言って聞かなかった。
逃げれば終わりだと思ったのだ。
今も心なし自分から離れて歩くその背中を、聖臣は恨めしげに見つめる。本当は、周囲にはどうとでも言わせておけばいいのだ。そのどこに向いているのか分からない苛立ちでもって、聖臣は元也の左手をむんずと掴んだ。反射的に掌を開かれたので、対抗するようにさらに握り込む。五十キロを優に超える握力に元也も流石に音を上げて、肩越しに聖臣を見遣った。
「……ごめん」
「先歩くな」
「うん……」
振り返りはするのだが、元也の方から手を握り返すことはしない。腕を揺すっても指先に力が入ることはない。聖臣はいよいよ自棄になって、元也の指に自分の指を絡めた。
「お……」
「……」
「あは、やべー」
「やばくない」
「お前のさー、そういう、自分の中で折り合い付いたら無敵になっちゃうやつ真剣に憧れるわ」
「……」
元也が敢えて煽るような言い方をするのにも、聖臣は安直とわかりながらやはり腹を立てた。
こういう物言いを介する必要がある社会にも、適切の言葉の掛け方が分からない自分にも。
「……別に、気にしないわけじゃない。男同士で一緒にいるとか、生産性ないし」
「あはは」
言っていて急激に自信を失って、聖臣はあっさりと指を離す。大して人の多い町でもないので、手を繋いでいるのか、いないのかなど何ら意味を持たなかった。
何が恐ろしいのか。
どんなに要素分解しても、きっとそれは「自分がどう思われるのか」その一点に集約されるのだと思う。
「生まれた頃からこの土地にいて、血縁あって、二人ともプロで、変な目で見られるに決まってるし」
二人が実家を出たのは高校卒業と同時のことだ。小学校の学区も同じで、中学校もそのまま公立校に進み、その頃には二人がバレーボールで全国的に成績を残していることを近所の人は知っていて、登下校の時間にはしょっちゅう声をかけられた。冗談めかして二人まとめて井闥山へ来ないかとスカウトを受けて、そうしない理由がないので快諾した。
表面的なことでいえば、絵に描いたように順調な半生である。
しかし、どこかで梯子をかけ違えたのかもしれない。足元へは見向きもせず突き進んで、こんなところまで上ってきてしまった今、自分たちの立ち位置を理解して、その梯子を外すのかどうか、その瀬戸際に立っている。
選ぶことは必ずしも必要ではない。何も決めず、決めないままの状態が継続することもまた、梯子をさらに上っていった先にあるのだろう。
聖臣はそれをよしとしない。薄紙一枚分でも後悔の可能性があるのであれば、絶対にそんな選択肢は取るべきではないのだ。
それゆえ言い切る。
「だから何なの?」
「あ、え?」
「生産性とか、人目とか、『決めた』って事実以上のウェイトになることってある?」
川沿いの歩道でタイヤの擦れる音に紛れないよう、できるだけゆっくり、大きく発音する。
「決めた」、その事実が単なる思念であることを聖臣は理解している。何もかもを認識が担保するが、一方で夢物語ですら事実と認識してしまえば、言葉通りの事実になると理解している。
そのあやうさを抱きしめている。
書類も、承認も、何もない。お互いの間にのみある確信と、あやふやな実体として漂うやや過剰な尊重と。
言葉の外にあるそれらを愛している。
「……世の中には、なる人もいるかもなあ」
「お前は」
「……聖臣みてえになれりゃいいけど」
「……」
「まだ、怖いかなぁ」
一方の元也にとって、地位や名声は多少なりとも捨てがたいと感じる要素である。食っていけるかという観点だけではなく、自己実現に絡む事柄として、捨てがたい。
自分が聖臣のそれを奪うのが怖い。
もう、聖臣以外に自分を預けられる相手などいないのだと二十年と少しで分かってしまった。この短い人生で「分かった」と主張するのを誰かは単なる決めつけだと言うかもしれないが、それでもあながち間違いではなかった。他の誰にも自分を明け渡すつもりはない。
その個人的な我儘を聖臣が許容することは分かっている。好意ゆえのそれで自分たちが傷つくことが心底怖いのだ。
俺たちを繋いだのはバレーだから。
自分たちの関係が、自分たちのバレーボールプレイヤーとしての人格に疵を作っていいのか、それを元也は懸念している。
聖臣は前を歩き始める。
「なあっ」
「あ?」
元也が既に後悔しているのは、一瞬でも聖臣との関係を不安に思うような素振りを見せてしまったことだ。
もうレールは敷いてあって、途中で迂回したり、一時停車することはあっても、終点は変わらない。中途半端ができない聖臣は、もう走り始めてしまった。そこに何の異存もないのに、レールに石を置くようなことをしてしまった。
「俺、怖いのはっ」
その石を取るぐらい、当然自分でしなければならない。
「怖いのは、お前とバレーができなくなることだ」
「……うん」
「母さんとか、父さんとか、親戚に言うのが怖いんじゃなくて、根っこはバレー」
「うん」
「お前といるのも怖くない」
「……うん」
なのにどうして、今まだ、聖臣の手を握ることができないのか。
怖さの理由が分かっても、怖さを取り除くことができない。聖臣と二人でいれば無敵なのだと自信を持って言いたい。全部笑い飛ばせる強さがほしい。
「弱くてごめん」
こんなことで謝りたくはなかった。こんなことで謝ったのは今まででただの一度もなかった。強さが関係の保証になっていたからだ。弱点があれば練習すればよかった。手の施しようのない弱さに出会って、それを取り除かなければならないのは初めてだった。
聖臣は歩道から伸びる脇道へと歩いていく。河原の方へ降りるのだ。元也も黙って着いていく。もうこれ以上は逃げられないのだという仄暗い脅迫に背を押されながら。
「元也はさあ」
「ん?」
「俺に何かしてもらってるって意識なの?」
「……えっと」
「なにが『ごめん』なの?」
「……それは」
「……」
「……まず、不安に思ったのが……失礼なんじゃないかっていうのが一つ」
「……」
「あと、聖臣に気を遣わせてることもそう。俺が普段どおりにしてたら何も気にしなくてよかったのに」
「……そ」
河原の石はどれも小さい。長い道程で角はすっかり取れて、皆一様にまろやかな球となっている。聖臣はじゃりじゃりとそれらを踏みしめながら話し始める。
「……オレが、数学で〇点とったときのこと覚えてる」
「うん……? ああ、あーっと、なんだっけ、一問目の問題が解けなくて……」
「そう。一問目が解けなくて、俺は分からないのを飛ばして他の問題に手を付けるっていうのができないから、そのまま〇点」
「はは、高校上がってからだっけ、びっくりしたなーアレ……」
聖臣の「始めてしまったら必ず終わりまでやる」という性質がよく表れた事件である。基本的な性質がそれなので勉強もそつなくこなす方ではあったが、その時は教師の気まぐれでたまたま難しい問題が、たまたま一問目に置かれていたのであった。
「元也」
「うん?」
「二問目から解いてもいいって、教えたのはお前だよ」
「……ん?」
「お前がいたから、俺は〇点以外の可能性を見つけたんだ」
「えっと」
「あとは、点数積んでいくだけ」
雑木林から橙の光線が伸びる。いつ、この光景を懐かしいと感じるようになったのだろう。
「お前がいなきゃ、バレーには出会ってなかった。生きづらい俺に、指針を寄越したのは、元也、お前だ」
らしくない聖臣の台詞に、元也の脳味噌は徐々に動きを緩める。
「……そんな、別に俺じゃなくても……」
「お前が一番分かってんだろ。俺はこういう人間だし、直らないし、直す気もない。今の俺のままでいいように、お前がずっと足がかりを作り続けた。だから直さなくていいって思える」
「してあげる」などという驕った考えは持っていない。今に至るまで、一貫して、元也は純粋な享楽のままに聖臣の隣を歩いただけだ。
「借りを返してるだけ。負担じゃない。借りっぱなしで終われるほど、お前を蔑ろにはしてないつもり」
隣を歩いたことをそんな風に重さを持って受け止められると、元也としてはそれはそれで申し訳なくも思う。貸したつもりはない。返してもらう必要もない。元也に今の発言を喜ぶ筋合いはない。
それでも、もし自分が楽しいと思ってしたことが、聖臣の何かしらの助けになっていたのだとしたら。
今になって初めて聞いたことなので当時は知る由もなかったのだが、聖臣はあのとき家庭内でも学校内でも孤立していることに自覚的で、今の元也が思っている以上に苦しんでいたのかもしれない。
今ならもっと上手い言葉がかけられたかもしれない。でももう、いい。
あのやわい原石を見出したという事実があれば、それでいい。
「……泣くなよ」
「あは、な、泣かしといて、よく言う……」
献身、と形容するのは言いすぎだろうか。知れず自分の行ったことが大切な人の「何か」になっていると知らされて、身の毛のよだつような歓喜に覆われるのは、普通なのだろうか。
うつむいた視線の先に、握り返せなかった手がある。傷を作っては治し、作っては治し、やりすぎなほど労って、今や何の苦労もしていなさそうに見える手がある。
聖臣の丸く小さく揃えられた爪に触れる。日々のルーティンにより、爪は桜貝のようにつややかだった。今度は聖臣の方からは握らない。
恐ろしいのは、無力だからだ。
恐怖をはねのける根拠がないからだ。
根拠を揃えていく。自分は自分のままで、自分たちは自分たちのままで、外因的な変化は一切不要で、ありのまま生きる、そのための根拠を揃えていく。
「ずっと、一緒にいよう」
選択肢を増やしたのが元也であるならば、そこから脇目も振らず、黙々と解いていくのは聖臣である。躓いたら一緒に考えて、その結果〇点なら、また解き直せばいい。
空白が埋まれば、語れることが増える。経験の蓄積が根拠になる。
聖臣の掌は汗ばんでいた。