羽化 いつになく眠そうな、もはや前後不覚という眼差しでベッドに横たわるカイトが視線を送る。
ハルトたっての希望で海に行った。夏真っ盛りの今であるのでカイトの望むひと気の少ない穏やかな海というのは実現しなかったものの、ハルトとしては多少ごみごみとしているほうが「らしさ」を感じたらしく、着くなり「人すっごく多いね!」「海っぽいね!」と本当に子どもか疑わしいような視点で海を捉え、オービタルと共に一直線で浅瀬へと駆け出した。
一方のカイトは先の通り、人の少ない静かな海で昼寝でもできればというのが正直な理想であったので、半日かけて全力で遊び倒し、潮水に濡れ日に焼け、というのは日頃の研究室篭りの生活から考えると相応に疲弊したようである。
そして遊馬は帰りが遅くなるというのでドクター・フェイカーから自邸へ泊まっていくよう促され、素直にその言葉に甘えて今は食事も入浴も済ませてカイトの自室のベッドに腰掛けているというところ。遊馬の方は体力的には何ら問題がなかった。運動神経がさほど良くないだけで、シャトルランはいつまでも走れるタイプであった。
「なんだよ、じっと見て……。顔なんかついてる?」
「違う…………………………肩だ」
「眠みいなら寝ろよ……」
カイトは遊馬のタンクトップから覗く肩を見ているらしいのだが、もうカイトの目はほとんど開いておらず、虹彩はほとんど光を跳ね返さない。これは黙って自分も寝てしまわないと、妙な負けん気を発揮してカイトはいつまでも起きているぞと遊馬は察知し、枕元のリモコンで部屋の照明を落とそうとした。が、カイトから待ったがかかった。
「まだあんのかよ!」
「……だから、肩……皮が剥けている」
「あん? ……ああ、そりゃ日焼けしたからな」
本来は化粧水かジェルの類をつけるべきなのであろうが、もちろん、そんな七面倒臭いことを遊馬は好まないので日に焼けたまま放置している。首をひねって肩の先だけどうにか見ると、確かに干からびた薄皮がペラペラと浮いていた。
「カイトは? なんねえの?」
「……赤くは、なったが……。そもそも、お前は、あれだ……授業で、普段から……プール……」
「あー、確かに。ぜってー授業で日焼け止めとかつけねえもんな」
カイトの青っ白い指がそろそろと伸びて来、死んでしまった細胞をひしと摘んだ。
「剥いていいか」
「え? いいけど……」
遊馬が答えるやいなや、カイトはすうっと慎重に指を引き、ぺりぺりと皮を剥がしていく。死んだ細胞なので特に痛みはない。遊馬は初めのうちはそれを目で追っていたのだが、これも赤子の寝ぐずりに付き合っているものと思って好きにさせることにした。カイトの自室にある本棚、その一冊一冊のタイトルを黙読することで暇を潰す。現代宇宙論概略、伝わる話し方、荀子全集、はじめて学ぶマクロ経済学……。
「遊馬、剥けた……」
「おー」
「気持ちいい……」
「さっきからだいぶ危ない言葉選びしてんの気付いてる?」
振り返ると、カイトの指には10cm弱四方の薄茶けた皮が摘まれていた。満足気に遊馬に持たせる。
「いらんわ、捨てるぞー?」
「いやだ……」
「じゃあここな、ここ。机おいとくから」
明朝にはもっと乾燥して、カサカサどころかパリパリになっているだろうと遊馬は予想しながら、カイトの作業机に自らの肩の死んだ表皮細胞を置いた。夏の思い出にしては侘しすぎる。
離れたついでに照明を落として再びベッドに戻るが、今度こそ遊馬はすぐ横になった。今のカイトに遊ぶ隙を与えてはならない。タオルケットを掛けるのは腹までにしておいて、仰向けに寝転がる。
時計は見ていなかったが、もう0時近いだろう。ハルトは眠りこんでいるだろうし、ドクター・フェイカーは起きているかもしれないが特に廊下を歩く気配もない。静まり返った天城邸。庭で暮らしているのだろう虫たちがヒリヒリと鳴いているのを、久々にじっくりと聞く気がする。初夏に差し掛かった辺りでは「虫が鳴くようになった」と気付いて気にして聞いてみたりするものだが、もう盆の直前とあっては珍しいものでもなくなっていた。まぶたの裏の白いモヤを追いながら、心地の良い音色を子守唄にいよいよ遊馬も寝入ろうかというとき、カイトの腕が遊馬の腹に回った。
「……どしたん」
「遊馬……」
「え?」
「……お前、来年……どこか行くのか」
来年、というのは中学卒業後のことである。遊馬は高校へ進学するか、それとも国内外どこでもいいがデュエルの修行に出るのかをいまだに決めかねていた。遊馬としては後者一択であったのだが、明里にこんこんと説教された内容が実に的を射ており、それゆえまだはっきりと決められずにいる。
「……行こうかなと思ってたけど。……姉ちゃんがさ、物を知っていることはそれだけで強さになるって、言うんだ」
これだけ眠そうにしているカイトがまともに話を聞いているとは思えなかったが、寧ろそれに期待して遊馬は話し続ける。
「デュエルでお金は稼げるかもしれないけど、稼いだあとどうすればいいのか、そのお金は生活に足りるのか、税金で多少持っていかれるけどそれが何に使われてるのか、何も知らないまま何となく社会に巻き込まれていって、オレが損したり、そういうのがないようにしてほしいってさ」
できるだけ多くを学んで、いろんな人と関わって、高校生の間にしかない穏やかな日々を楽しんでほしいということも話していた。
「……だから、迷ってる。どっか行くかもしれないし、行かないかも」
「……そうか」
カイトは興味があるのかないのか、どちらとも取れない返事をして、しかし身体はよりぴったりと寄せてきて、遊馬の肩に頬を擦る。
「……海だ。来年も海に行く」
「え、あ、そのために聞いたのかよ?」
「絶対だ……絶対いく」
「……楽しかった?」
「楽しかった。……お前がいないと、少しつまらなくなる」
カッと首筋が熱くなるのを感じた。カイトは気を許すとパーソナルスペースの狭さでそれを示す節があるのだが、反面、言葉にして伝えるということは滅多にない。遊馬は「目ェ覚めちまったな」とあくまで冷静を装って考えながら、たまらなくなって、カイトの方を向くように寝返りを打った。
もう夜目がきいているので、ドアの隙間から漏れる柔い光でカイトの顔はしっかりと見える。困ったように目を伏せて、しかしやはり暗がりでも顔が赤くなっていると分かった。遊馬がカイトの耳の輪郭に触れると、カイトはくすぐったそうに身を捩って、それでも目は合わせないまま、しかしクスクスと息だけで笑った。熱い。
「……楽しかったかあ」
「何遍も言うな」
「来年も行こうな、海。どこに行っても、夏だけは絶対に帰ってくるよ」
遊馬の胴に回る腕がいっそう力を込めたのを返事だと思おう。照れ隠しに「皮を剥くのが面白かっただけだからな」とまた語弊のありそうな言い回しで繕うのを返事だと思おう。来年でも何年でも、この深く安らかな寝息だけ、年に一度でも隣で独り占めをして聞ければいいと、思う。