幇助犯 将来の夢、と称して構わないほどに、遠くて実現可能性の不確かな希望であった。瑠那が初めてそれを耳にしてからもう5年が経とうとしている。
「お誕生日が来たから、ってことかしら」
天城カイトは九十九遊馬に惚れている。その響きがいささか軽率に聞こえるほどに惚れている。
今日起きた一切を「言ってしまった」とだけ簡潔に白状したカイトは、ラボの広すぎる玄関で雨に降られたまま座り込んで、もう二度と立ち上がれないのではと思われるほどに意気消沈していた。瑠那がバスタオルを差し出しても応じなかったので頭に被せてやったが、それにも反応しない。この貧弱な男のことである、どうせ放っておくと風邪をひくので瑠那がぐしゃぐしゃと髪を勝手に掻き混ぜれば、ようやくカイトは座ったまま少し身じろぎした。
「言うんじゃなかった」
天上天下唯我独尊を地で行く天城カイトに後悔をさせる男、それが九十九遊馬である。遊馬に嫌われたくないとか、自分では分不相応だとか、瑠那にはカイトの考えそうなことが手に取るように分かる。仕事の後、こうした文句を聞かされる生活が実に5年続いたのであるから。しかし今朝までの5年間と、今からの未来は丸っきり異なるものになってしまった。敢えて瑠那は問う。
「どうして?」
「……こんなに怖いと思わなかった」
平静からは考えられないほど覇気のない声であった。怖い、と素直に認めたカイトは昨日までより随分大人びて見えたし、異常にその肩を薄く小さく感じた。
「……別に、言う必要なんてなかったんだ。遊馬と恋人同士になれなくても話すことはできるし、一緒に出かけることだってある。オレでなくとも、遊馬が誰かとでも幸せになるのなら、それを見ているだけでも十分だったのかもしれない」
「すっぱいぶどう……でもないわね」
「真剣に話してるんだ、こっちは」
「分かってるわよ。じゃあ、あなた今日のこと間違ってたって考えてるのかしら」
カイトは先の饒舌をすっかり隠して、バスタオルの隙間から瑠那を睨めつけた。間違っていると認めた瞬間に自分の恋心を否定してしまう、そう眼差しが語る。正しいと主張することが天城カイトの恋心を昇華させる前提条件であった。
瑠那も瑠那で、「こう」なることはすっかり分かりきっていたのでいちいち真に受けて応じる必要もなかった。思い描いた筋道通りにカイトは歩き、たった今沈みこんでいる。5年もの間、瑠那は進展しない話を延々聞き続け、今日で御役御免というところであるから、おめでとう、お疲れ様。そんな簡単な言葉でこのずぶ濡れの男を放置していてもよかったのである。
「……意地悪だったかしら」
「自覚しているならやめろ」
「そうね」
こうしてカイトが文句を言うのを、瑠那は好ましく思っていた。誰に対してもそうそう心を開かないカイトが、瑠那を無害と判断し、絶望そのままの顔で遊馬への想いを吐露したあの日。私でよかったんだ、と瑠那はすっかり安心しきったし、同じ職場の上司としても、歳の近い友人としても、きっと上手くやっていけるだろうと直観した。カイトの話すことなら変に構えることもなく素直に受け止められるという気がした。
カイトはこと恋愛においては概して消極的であった。ほんの少し遊馬と話せた記憶、デュエルをしながら一瞬目があった記憶。そんなささやかな物だけでいつまでも延命できたし、どんなささやかな物でも手繰り寄せて大切にした。欲張ることを知らなかった。進展など望んでおらず、いわば画面越しに芸能人でも眺めるような心地なのではと瑠那は分析していたが、いつしかカイトの中に眠る恋は変質し、普遍といえば普遍だが、遊馬のただ一人の男になりたいと願うようになった。
18になるまで待つというカイトの主張だけは一貫していた。時間が経つにつれ、遊馬の背は伸び、声は低くなり、身体は厚みを増した。カイトの薄い軽い身体とは似ても似つかない、大人の体格に近づいてゆく。それに気付かされるたびにカイトは乱された。目線を下ろさなくても遊馬と目が合うようになったとき。ふと耳元で名前を呼ばれたとき。何気なく肩が触れたとき。カイトは静かに、徐々に正気を失った。
──どうにかなりそうだ
──なればいいじゃない
──なったら、きっと、遊馬の知るオレではなくなるな
あのときは自らを鼻で笑ってみせたのに、今カイトがとにかく想いをぶつけてみたというのは瑠那から見れば随分な成長に思えた。
そろそろ風呂に入れないと、と瑠那が一度は下ろした腰を上げようとしたとき、床に滑り落ちていたカイトの端末がメールの受信を通知した。九十九遊馬と表示されている。
「あ」
瑠那は思わず声を漏らし、慌てて口を押さえた。恐る恐るカイトの顔を伺い見ようとして、そこに至るまでに、先程まで投げ出されていたカイトの右の指先がすっかり青黒くなり、細かく震えているのを見とめた。後先は何も考えていなかった。カイトの右手を、両手で握った。見た目通りに冷えきった指先を必死に温めながら瑠那は口走った。
「ま、間違ってないわよ」
「……何を……」
「あなたが遊馬を好きになったことは間違いじゃないし、伝えたことも間違いじゃない。遊馬があなたの何になろうとあなたの何も損なわれないしっ、寧ろ『言う』って選択をした時点で、少なくとも昨日までのあなたとは違うのよ。先に進む選択をしたの。だから、だからっ……」
捲し立てながら、瑠那は理解していた。この告白にカイトのプライドなどは一切関わらなかった。ただ、カイトが遊馬と今までのようには付き合えなくなってしまう、そこが大きく関わっていて、肝要であった。瑠那がどんなにカイトの価値を証言しても、カイトと遊馬の仲がうまくいかないのであれば、自分自身の価値などカイトにとっては何の意味もなかった。
「えっと、それで……あ……」
瑠那は自分の言葉がカイトの何にもならないことをここで理解した。あくまで瑠那は傍観者であり、一切の介入は無意味であった。なのにどうして、こう何かを伝えたくなるのだろう。
カイトはカイトだと伝えたくなってしまうのだろう。
「私は……ずっとここで……冴えない研究員でいるから……」
カイトは瑠那の言葉を聞き終える前によろよろと立ち上がった。端末を拾うことも忘れない。握られたままの瑠那の手をぐいと引っ張り、一緒に立ち上がらせた。
「涙もろいな、瑠那は」
「……あ」
カイトの濡れたグローブが瑠那の頬を拭った。瑠那は冷たさに一瞬肩を跳ねさせ、慌てて自らの手で顔を乱雑に擦る。
「ハルトのときも、父さんのときも、お前の方が泣いてたな」
「……別に、泣きたくて泣いてるんじゃない」
「分かってる。明日も研究、明後日も研究、土日休んで、来週からも研究。何も変わらん」
自分自身にも瑠那にも言い聞かせるような口調であった。
「……もしもし、遊馬……」
自棄にも思えるようなスピード感でカイトは電話をかけた。そのままの勢いを殺すまいと、カイトはカツカツと足早に廊下を進む。その声音が柔く、湿ってゆくのを瑠那は聞いている。
「ずっと、待ってたんだ。……待ちくたびれた。やっとだ」