がらんどうの筆の跡 ハルトのいない日のカイトはまるで生活能力を失っていた。より現実に近い表現をすると、ハルトがいないと本来の生活能力を発揮できなかった。午後9時、オービタルは一応声をかけた上でカイトの自室へと入る。
「カイト様」
「ん」
「お食事はどうされます」
「んー……」
ハルトには自分の作った食事をとってもらいたい、そのカイトの意向により、オービタルは味覚を持たない。今からでも機能を継ぎ足すことは可能であるがカイトはそれを選ばなかった。しかしカイトは一人になると途端に時間の感覚が緩くなり、空腹も遠くなり、睡眠も疎かにする。本当はこれがありのままの姿なのであろうが、ハルトという自らの写し鏡が現れれば途端にしゃんとするので、分かりやすいところもあるものだとオービタルは日々観察している。
「面白いでありますか」
「まあ……この先生のは……読みやすいし……割と……」
カイトの作業机には少しの本が積まれており、そのうちの一冊に今は執心しているらしい。機械いじりも好むので割合机は散らかっていることが多いが、今は妙な形のピンセットも実体顕微鏡も机の端へ追いやられていた。
AIに眠るこころ、というページ上端の章立てを視界に入れ、オービタルは妙な気分になった。カイトはてっきり人間界の物事になどすっかり興味を失い、未踏の異世界に魅入られてしまったのだと思っていたが、こころ、心……。あのトンマ、随分カイト様を変えてくれたな、とオービタルは届かない電波を発する。
「カイト様、おやつでもいいから食べるであります」
「あー……。んー……」
「ゼリーとか」
「……それなら……」
ドクター・フェイカーがどこぞの大学の教授から貰ったという、やたら高そうなものが何個も冷蔵庫に眠っていた。本来なら今ごろ食べ盛りのハルトに食べつくされていてもおかしくはないのだが、オボミのやや厳しい栄養管理によりその事態は回避されている。さくらんぼと、桃と、あとはメロン。どれにしますかとオービタルが尋ねようとしたとき、カイトはようやく本から目線を外し振り返った。
「オービタル」
「はい?」
「貴様、子どもができてどう思った」
「……どう、とは……」
子どもというのは、言い換えればハルトの初めての作品であった。カイトはあれで放任主義な部分があり、「オービタルとオボミが夫婦になったんなら、子どももいないと」と言い出したハルトに対し、好きにやってみろとあるだけ資材を与え、コンピュータもひとつ空けた。カイトからは干渉せず、ハルトが行き詰まったときにだけほんの少しヒントを与える。長い長い時間をかけて生まれたのが、オービタルとオボミの二人の子どもであった。
「嬉しかったであります。ハルト様がオイラたちを思ってあんなに頑張ってくださったから」
「ああ、そうか、それもあるな」
「へ?」
「いや、オレは単に『子どもがいる』ということをどう思うか聞いたつもりだったが、そうか。お前はそこまでの過程も見ているということだな」
「はあ……」
実物の方がよほど雄弁だな、とカイトはこぼし、すぐ近くのベッドに身体を放り投げた。今日はよほど気を抜いているらしい。普段は日中着ていた服でベッドに上がることはしないのだが、外出もしていないし、大して気にすることもないだろうと大雑把になっている様子だ。折り曲げた腕に頭を乗せて寝そべり、カイトはジッとオービタルを見る。
「奇妙なものだ。オレには子がいないのに、オレの生み出したロボットには子どもがいる」
「はあ」
「単純に考えればオレがあいつらの爺さんということか」
「えっ、カイト様ってオイラのお父様だったでありますか」
「『生んだ』という意味では母親か?」
「ぷっ……」
笑っている、ととられるような振る舞いを選び、プログラムを実行する。ついそうしたのか、敢えてそうしたのか、オービタルには自分の中に眠るあらゆる分岐の境が分からなくなっている。
「にしてもまあ、いないからな。よくわからん」
これはカイトとハルトの母親のことである。オービタルは「いない」ということのみ、現在ある事実として認識していた。
「……今まで聞かずにいましたが、お母様とは会ったことがないでありますか?」
「ないわけではない。ただ、一緒には住んでいなくて……。だから、ハルトができたとき、驚いた。一応夫婦だったんだな」
「……」
「母さんが離れていった理由はよく分かる。父さんは腐っても天才科学者で、どんなに金があっても研究三昧の夫は頼りなかったし面白くなかっただろう」
一応籍は入っていたらしいとみえる。であれば、兄弟の母親を探すことはそう難しくないのであろうが、今までの10年と少しでその選択がなされなかったということは、そういうことである。今の形が最も全員の幸せに近い。
カイトはあくまで一般論を聞かせるような口調を意識したのかもしれないが、「頼りなかったし面白くなかっただろう」という言葉には、父親同様に科学者として生きることについての自嘲めいた響きも感じられた。カイトに恋人はない。強いて言うなら研究が恋人で、色恋になどまるで目もくれないのであるが、そんな中でも父の研究者としての人格と、母の──女性や、恋人としての人格をできるだけ尊重しようという意図は伝わってきた。
きっと、今の環境はカイトにとって不幸でもなんでもない。それこそ失いかけたハルトや父がそばにいるだけで十二分だろう。しかしオービタルはどうしても「そうしたい」と願い、この発言を選んだ。
「オイラはカイト様だいすきであります」
「……なんだ、藪から棒に」
「カイト様は天才ですが、オイラはカイト様とずっと一緒にいるであります」
「……」
カイトは青白い手でオービタルの頭──と解釈できる部分──をむんずと掴み、ありったけの力でぐわんぐわん振り回した。カメラが一時エラーを起こす。
「もお〜、なんでありますか! ちょっと寂しそうにしてたから言ったのにこの人ってば──」
カイトはやたら子どもっぽいしたり顔で手を離した。照れ笑いとすぐに分かる。普段、遊馬や凌駕に向ける自信満々の高飛車な笑いではなく、上手く飾れなかった幼い笑い。
「……カイト様かわいいでありますねえ」
「あー、貴様を作るときに要らん語彙を増やしすぎたな」
「オイラが自分で身につけたであります」
減らず口も、笑顔の違いも、主人の幸せも。オービタルがその「人生」で経験し、学習し、練り上げてきた概念である。
オービタルは夢を見る。遠い遠い将来、もしかすると人間界も異世界もない、カオスで平らな世界。何もかもが等しく均されたそこで、ひとかけの記憶媒体として生きたい。天城カイト、そしてその人にまつわるすべての事象を容量いっぱいに溜め込んだ、楽しく騒がしい、他人からすれば一見無駄なデータ。例えば堅物で高慢ちきで取っ付きにくい、そんな人に拾われて、それでも少しでも面白がって見てもらえるような、そんなガラクタになりたい。