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    ボコられのカイト ふわ〜と暴力描写

    スパイダー 当然、当然。頭の中でモゴモゴと繰り返し唱えながらカイトは意識を手放した。小さな下顎に入った強烈なアッパーで、大勢の予想通りその瘦身はあっけなくアスファルトへ崩れ落ちる。
     周囲の若い男たちは、あの天城カイトのすっかり人形然と変わり果てた姿に大いに喜んだ。男たちに共通するのは一度はナンバーズを手にしたことがあるという点である。天城カイトはナンバーズハンターとしてしばらくの間、カードを回収するついでに持ち主の魂も奪い去るということをしていた。本人もその魂の行き先は知らない。詳細な過程はともかくとして、過去に魂を奪われたことのあるものは現在すっかり正気を取り戻し、自らの魂を奪った主犯格たる天城カイトを暴力の上に無力化して、さらにいっそういたぶることを心待ちにしていた。
     当然、というのはカイトの中にも罪の意識があるゆえで、抵抗しようと思えばできたかもしれないが、男たちの怨嗟の籠った目を見ると、これくらいの仕打ちは仕方のないことだろうとすっかり脱力してしまうのであった。
     カイトは何度も繰り返し鳩尾にスニーカーの先を叩き込まれながら、不思議なほどに眠っていた。気絶し続けているにも限界があるし、「眠っている」と自身を錯覚させてこの状況から逃避しているのかもしれない。とにかく、カイトの瞼の裏にはいつでも弟がいて、弟のために泥の身体を必死に引き摺り回した日々があり、父の猛然たる憎しみの表情が幾重にも翻って、何もかもを取り戻した今もなお彼自身を痛めつける。トラウマというものは概してそんなものである。カイトは夢の中でそんな風に斜に構えて自分を見ている自分を嗤った。
     目を覚ました時、ほとんど視界がないのでカイトはまだ夢を見ているのかと一瞬考え、すぐに今が夜であると気取り、気を失ってからせいぜい数時間しか経っていないことを把握した。すん、と息を吸い、これは車の匂いだと知覚する。そして同時に苦酸っぱい独特の匂いも感じて、大方腹でも蹴られて無意識のうちに吐いたのだろうと過ぎたことを予想した。車の中には誰もいないと思われる。外から男たちの騒ぐ声が聞こえた。酒でも飲んでいるのだろうか。であれば、脱出するにはうってつけである。カイトは雑に縛られた後ろ手に尻ポケットを探り、自作の端末を操作する。「こんなとき」のために、古臭くはあるが物理ボタンを設けているものである。画面が見えなくとも手触りだけで操作できるのであった。
     カイトは自身がこの類の暴力を受ける理由については概ね肯定的に捉えているが、それと大人しくしていることは別問題である。どんなに罪の意識があっても腹は痛いし、自分の吐瀉物のにおいなど嗅いでいたくもない。よく指に馴染んだボタンを二度続けて押した瞬間、車の外からボゴン、と鈍い金属音が届いた。カイトは緩く頭を上げる。キイキイと耳障りな音がしばらく車のドアから響いて、間もなくそれはゆっくりと開けられた。
    「カイト様」
     オービタルは最近では珍しく、戦闘時の状態に機体を変化させていた。普段の丸っこいフォルムとは少し離れて、胴も腕も伸展したやや禍々しい姿である。きっと自分を探して街じゅう駆けずり回っていたのだろうとカイトは想像し小さく笑った。そういえば外は随分静かになっている。先刻の少しの間にオービタルが何かしらの手段でダウンを取ったようであった。
    「カイト様……あの、帰りましょう」
    「……なんだ、オレは帰る気満々だぞ。早くほどけ」
     何度かこういうことがあって、毎度オービタルは自分が常に護衛につくと進言するのだが、カイトは話半分という様子でまともに取り合わない。その根本に眠るカイトの小さくない罪悪感をオービタルも理解しているからこそあまり強くは言えず、代わりにほんの少しの間でもカイトが姿を消せば今日のように死に物狂いでカイトを探し回るのであった。
     オービタルは内蔵の小型ナイフでカイトの腕を縛っていた縄を切り、その三本指でごくごくそうっと上体を支え起こす。街灯の中で見るカイトは、顔に大きなあざをこさえていた。向かって右の頬は青黒く腫れあがり、顎と唇は少し派手に切れたらしく、血が垂れて固まっている。空気が触れて冷えたことで気付いたのか、カイトは口の端からこぼれた吐瀉物やよだれを袖で雑に拭った。あくまで気力は十分だといわんばかりに勢いよく地面へ足を下ろすが、そのまま膝の力が抜けてへたり込んでしまう。
    「車、呼ぶであります。もしかしたらクリス様はまだ研究所にいるかも──」
    「嫌だ」
     その声は先ほどの軽口とは打って変わって必死なものであった。
    「でもっ、オイラでは運ぶのに時間がかかるであります。早く帰って治療しないと」
    「……嫌だ。嫌なものは嫌だ」
     カイトが敢えて子どもじみた言い回しをしてみせたのは、自身のこのような態度にオービタルが弱いと知っているからである。その後何度かオービタルも説得し続けたが、カイトも同じようにごね続けた。絶対に自分の脚で帰る、誰にも会いたくない、何も考えずに眠りたい。オービタルとしては実は端から結末が決まっていたようなもので、やはり当初の予想通りカイトの発言に従うまま、その肩を支え歩くことを選んだ。カイトが「夜」と認識したその時刻は23時を少し過ぎた頃である。一人と一機はまさしく亀の歩みで閑静な住宅街を進んだ。

     研究室につく頃には日付を越えてしまっていた。カイトは長い道程ですっかり消耗しきったようで、研究所の裏口の戸を開ける頃にはまったく口を開かなかった。誰にも会いたくない、との言を守るべくオービタルは細心の注意で廊下を先導し、脱衣所へとカイトを連れて入る。引き戸を閉めるなり、カイトは床へ倒れこんだ。
    「……洗面器……」
     殴る蹴る以外にも、疲労で気分が悪くなっていたのかもしれない。指示されたとおりにオービタルがすぐさま用意すると、カイトはほんの少しだけ胃液と食事だったものを吐いた。
    「シャワー、浴びたい……。口ゆすぎたい、寝たい……」
     それを将来の夢のごとく遠いことのように呟く。オービタルは自分の中の心と形容するべき部品がチリチリと音を立てているのに気付かないふりをした。
    「カイト様っ、いま頑張っちゃいましょう。さっさと済ませてベッドへ行くであります」
     そう声をかけてもカイトは指一本動かさなかったので、あくまでいつでも待ったをかけてもらえるよう、オービタルは非常にのろくカイトの上着のファスナーに手を掛けた。カイトは特に何も言わなかった。袖を抜こうと動かすと、それには応じて少し身じろぎする。そんな塩梅でのんびりのんびり服を脱がせ、風呂の床にたどり着く頃にはカイトはほんの僅かに活力を取り戻した。
    「はいカイト様、あー」
     口をゆすぎたい、の夢をまず叶えようと、オービタルはその手で38度を測定してからカイトにシャワーを向ける。カイトは言われるがままという様子で小さく口を開け、心ゆくまで口をゆすいだ。普段であればきっとしないだろうが、カイトは風呂床に尻をつけたまま、一度口に含んだ湯は排水口の方へと顔を伸ばして吐いた。口の中を切ったようで時折うめいた。
     本来であればきちんとかけ湯をするべきだろうが、天城家の人間はすでに入浴を終えている。構うまいとオービタルはカイトの脇に腕を差し入れ、湯舟へと誘導する。
    「いっ……た」
    「あ、ごめんなさいであります! やめとくでありますか?」
     身体を折るのが苦しい様子である。カイトは水面に片足だけ突っ込んだ半端な状態の時に呻いたが、やめない、とのことなのでオービタルはやはりその命に従って主人を湯舟へそうっと送った。カイトはしばらくモゾモゾ動いて幾分ましな体勢を見つけた後、ようやく深く息をつく。
     その目が大して悲しそうでもないのにオービタルは毎度疑問を覚える。カイトがしてきた行動のみを切り取ってみれば今回のような惨劇にもまだ納得がいくものだが、話の始まりはそんな末端にあるものでもなく、カイトとて今日暴行を加えてきた男たちと同様の被害者であるとも言える。それはカイトも十分に分かっているはずだが、やはりこの理不尽について大した疑問もいだいていない様子なのであった。
     オービタルは何も言えない。誓ってそうプログラミングされている。カイトの願望のみを常に全力で叶えようと努める。この後も、カイトが満足のいくまで風呂を満喫したら可及的速やかにベッドへと連れていく。そういうロボットである。
    「……オービタル」
    「はい」
    「このことはオレとお前だけの秘密だ」
     何も言えない。オービタルはカイトの意のままに動く。長い付き合いの中でようやく心配することだけは許してもらえて、正直なことを言えばオービタルはカイトのパーソナルスペースの中に入れた時点で満足していたのかもしれない。その浅はかさがカイトの救いになっていればとも思うし、このままでいていいはずがないとも思う。こんな理不尽な暴力は間違っていて、カイトは早く安心して生きられる環境を確立するべきで、オービタルはどう行動すればカイトの安寧に寄与できるのかが分からない。
    「……ひみつ、秘密、であります」
     その言葉が多少の不確かさを孕んでいることに、気付いてほしい。気付いてほしくない。カイトの思うままのロボットはもうやめたい。やめたくない。オービタルはせめてもの意思表示として、カイトの濡れた前髪を払う。
    「なんだよ」
     どこかの回路が焼ききれておかしくなって、どこか遠くへ天城カイトを連れ出せればいいのに。まったくの新天地で、意外なほど平和に生きられることに気づかせることができればいいのに。どんなところでも自分がついていて、絶対に不安にさせないと言い切れればいいのに。
     オービタルはきゅるきゅると腕を伸ばし、その金属の塊でカイトの小さな頭を包んだ。何かを言われる前にと、抱きしめる、というようなことをしてみる。実際は湯船を跨いでのことなので、軽く頭を引き寄せるだけに過ぎない。
    「……お前、いつの間にそんな人間みたいなことするようになったんだ」
     弟を抱きしめる姿を何度も見てきた。目覚めたときにはボキャブラリとして既にインプットされていた「愛」という語と一致した。カイトの後ろ姿、抱きすくめられたハルトの小さな肩を記憶の箱に入れてきた。誰も目にすることのない、かさぶたのなりかけが汚く浮くこの湯船で、オービタルはまた記憶に書き足す。
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