「先生も酷いよね。魈にくらい、神様を辞めるってこと伝えてあげてても良かったのに」
俺は望舒旅館の最上階、テラスで1人璃月を一望して佇んでいた少年に後ろから声をかけた。
「…お前が、良く切れる小刀を持っていたとする」
俺の言葉に魈は振り返らず、落ち着いた声で俺が彼に振ったものとは全く違う話をし始めた。
「貴重な石と高度な技術で作られたそれは生き物を捌くのに重宝したとしよう」
拓けたテラスに風が良く通る。風に煽がれる様に無意識に顎が上がる。空には溶けて滲むみたいに薄い雲があちこちに広がっていた。ぼんやりとそれを眺めながら魈の鼓動の様な声で語られる話を聞いていたが、魈の言いたいことが分からず「何の話?」と聞き返す。
魈はそれを疑問ではなく相槌として受け、俺の訝しげな声音にお構いなしに「だがいくら小魚を上手く捌けたところで、鹿を狩ってもその小刀では断頭できない」と続けた。
「オイ!回りくどいぞ!何が言いたいんだよ!」
せっかちな相棒パイモンは、着地点の分からない魈の例え話に早くも苛立っている様子だった。風に靡く魈の装飾品よりも激しく揺れて不満を全身で訴えている。
「お前ならどうする」
そんなパイモンの苛立ちなど意にも介せずに振り返らないままそう尋ねてきた。パイモンは無視をされてもどかしそうにその場で足をパタパタさせるが、諦めて俺と魈の話の行き着く先を待つことにしたらしい。俺の前をふよふよして、おいどうするんだよ、と言いたげに覗き込んでくる。
「大きい刃物を買う…?」
俺はパイモンの視線になんとなく急かされ少し焦りながらそう答えると、それはどうやら魈が予想していた答えだった様で、すぐに頷いた。
「その際に小刀に罪悪感を抱き、新しい刃物を買うぞと報告するか?」
俺がもう一度その問いに答えようとするのを遮って、遂に耐えられなくなったパイモンが更に前に出た。
「するわけないだろ!小刀は拗ねたりしない!」
魈の顔のすぐ隣まで飛んで行って、当然だとばかりにそう言った。
「そういうことだ」
そのパイモンの答えも予想していた答えだったらしく、またすぐに頷いてそう言うとパイモンに視線をやり、それから体ごと俺に振り向く。
しかし俺とパイモンが理解出来ずにぽかんと口を開けているのを見て「つまりこの場合の小刀は我で、大きな刃物は鍾離様の"神を辞める意思"だ」と付け加えた。
俺はそれで何となく理解したが、パイモンは尚も疑問符を浮かべて首を傾げているので、魈は呆れたようにため息をついた。元々お喋りが好きでは無いだろうから、話し始めたことを後悔しているように見える。
「我は鍾離様が魚を捌きたいときに役に立てればそれで良い。鍾離様が大きな獣の肉を食いたくなれど、それを我に伝える必要なんてない。我は唯の刃物だ。使い手が刃物に話しかけるなんて馬鹿らしいだろう」
そう言いながら数歩下がって腕を組み、欄干に背を当て凭れた。
そこまで聞いて俺は、ああ、と思う。
なんと分かりやすい例え話だろうか。
魈が自分をどういう風に見ているのかがよく分かる。声に皮肉っぽさなど微塵もなく、本当に心からそう思っているんだと、分かるだけに悲しいよ。
いつだったか魈という名はモラクスから与えられたのだと話していたとき、魈は本当にその名前を大切そうにしていた。
そしてかつてモラクスであった当の先生も、ちゃんと魈を気にかけているのを、俺は知っている。
だけど2人の認識の間には少しズレがある。
本人達にはズレていても問題はないんだろうけど、俺から見ると悲しいズレだ。
先生も不器用な人だから、そのズレに気付いたところでうまく正せないのかもしれない。本質的にズレていても、根本的には同じだから。
魈は先生のために璃月を守り恩返しが出来ればそれだけで良いと思っていて、先生は魈が自分の意思を持てるのなら尊重しようって思って今の形があるんだとしたら。それは双方から見れば相手のことを思ってることで間違いないんだろうけど、魈の視点だけで見ると先生の大切にしてるという気持ちがうまく伝わりきれてない気がする。
何やってんだあの人は!背を叩いてやりたくなる。部外者ながらもどかしい。
「鍾離は薄情だぞ!魈は鍾離の為に戦ってるのに!」
情に熱いパイモンは、魈の話を聞いて結局また先生は冷たい人だという本題に引き戻した。
「お前は我の話を聞いていたか?」
魈はパイモンの先生批判にあからさまに不愉快そうに眉を顰める。
「次に鍾離様を侮辱したらその首を落とすぞ」
「ひっ!」
魈の殺気にパイモンはひゅるんと音を立てて俺の背に隠れる。
きっと魈はずっとこうなのだろう。他者から何と言われようと、彼の長い年月で根付いた価値観はそう変わるものじゃない。
「ふん、まあ凡人に理解される必要もない。それに我は彼の方が神であったからお慕いしていたわけでもない。我の意思は何も変わらない」
魈は俺達から顔を背け、また遠くを眺めた。
魈の見つめた方角には帰離原があり、更にその向こうには璃月港がある。
俺は欄干に歩み寄り、魈の隣に黙って立った。
パイモンは慌てて魈とは反対側に浮かんで俺の肩越しに魈を伺っている。
魈はそれをちらりと横目で見て、何も言わずにまた視線を遠い海へと戻した。
強い海風が俺達3人を撫ぜながらくぐもった音を立てて横切って、それがさらさらと木の葉を揺らす優しい音に変わる。優しい風の音と混ざり人々の話し声とエレベーターの稼働音、そして周囲を囲む水が揺らぎ続けている音が心地よく俺の体を纏っていた。更に温かな日光も相まって眠たくなってきた俺は欄干に腕を起き、それに顎を置いて目を閉じる。そして呟くように隣の少年に声をかけた。
「先生が生きてて良かったね」
何も言葉は返ってこない。
勿論意外にも思わなかったけれど、ふと目を開けて魈の顔を見て驚いた。
それは普段の鋭く尖った雰囲気とは違っていて。
息を飲むほど美しく、見た目と相応の幼さを持った少年の横顔は、深く安堵した日の記憶を鮮明に手繰り寄せ抱きしめているかのような穏やかな表情で目を細め、そっと頷いたように見えた。