人虎 瀟洒ではあるが宮人が近づくことを禁じられている館がある。
宮の一画らしく美しく手入れされているが、その館の主を見た者はいない。
ゆえに滅びた蜀や魏の公主が住まわされているのだとか、はたまた孫堅――今は全権を息子に譲りほとんど隠遁生活を送る江東の虎――秘蔵の妾なのだとか、さまざま噂は立つもののこれといった確証は得られない。噂とはそういうものだ。火のないところに煙は立たないと言えど、たいていその火の在処までは判別し得ないものだ。
館の主の身の回りは少人数の身分高い侍女が世話するが、侍女たちの口は驚くほど固い。聞くところによると、宮の内部を少しでも話せば本人を含め一族を殺されても承知する誓約を交わしている上、侍女としては破格の高い給金を得ているからだという。そういった事情もあり、宮人はこの館を恐ろしく思っていた。亡国を祀る廟があり、近づけば呪われるといった話も囁かれたために、この辺りはいつもひっそりとしていた。
館の主はかつて威風堂々たる体躯をしていたと思われる男だった。世話は最低限にとどめられ、その世話をされる際も紫の頭巾のような絹布をかぶっていて顔は誰にもわからなかった。侍女たちは、この男はどこぞの国の貴人で、今は捕虜になっているのであろうと想像した。
侍女が朝の世話を終えて日が高くなる頃、孫堅が館にやってくる。孫堅が訪問することすら侍女以外は知らない。そのくらい本宮とこの館は人々の心情的に隔てられた場所だった。
孫堅は知っている。彼が今どれほどの思いで、凄まじい屈辱で生きているか。自死も許されず、尊厳は完膚なきまで破壊され、祖国は呉によって滅ぼされ、共に戦った者たちに後れを取った。利き手と利き足の腱を切り、迂闊な真似をしないように処置されたような男が自分を許すはずはない。けれどどこまで恨まれようと、孫堅は彼を離すことができなかった。
二人の仲は黄巾の乱のころから始まった。最初はただの武将同士、連合軍としての暫定的な協力関係だった。そこからどうしてこんなことになったのかは、思い出すと長くなる。思い出しているうちに館に着いてしまう。
絹布を取って窓辺の光に素顔を晒している男を見て、孫堅は静かに声をかけた。
「孟徳」
男は応えない。こちらを見ようともしない。
「さぞ恨んでいるのだろうな。俺を」
孫堅は、こんなものがただの執着で、愛情や慕情などという崇高なものではないことは嫌と言うほど知っていた。世間一般の情愛とはいっそ真逆の、地の果てほどにかけ離れたものであることは承知していた。いやしくも魏王曹操を生かして囚え、自ら処断しこの宮に押し込め飼い殺しにするなどという行為がどれほど申し開きのできぬ悪行なのかということも。
それでも欲しかった。幾度となく重ねた夜の続きを夢見た。一縷の望みに全身全霊を賭けた。孟徳が欲しかった。『文台』と自分を呼ぶ、深い夜だけに棲む孟徳が欲しかった。
囚えたのは曹操だ。自分が欲しいのは孟徳だ。この目の前にいる曹操が孟徳になる日はいつだろう。すべてを諦めて、受け入れて、自分にすがり、あのときのように切ない熱に浮かされた瞳で自分を見る日はいつやってくるだろう。
孫堅は焦がれていた。相手と相手の大切なものを徹底的に破壊し尽くして(国としてはそうせざるを得なかったのだが)たったひとり残った男に、それまで感じたことがないほど恋い焦がれていた。
ここに連れてきてからというもの、黒い衣だけを望むのでそうしてやり、食べるものも過ごすところも貴人にふさわしいものにした。舞台は用意した。あとはここでいつ踊ってくれるか。それだけだ。
「……おぬしが欲しいものは知っている。それが分からぬほどわしも暗愚ではない」
「俺は待つ」
「待って思い通りになるかどうかは、さすがの虎も計りかねているということか。賢明だ」
孟徳は深く、それは深くため息をついた。囚えて以来身体を重ねたことはない。孟徳が嫌がるからではなく、落ちてくるのを待っているからだ。虎は待つことを知っている。獲物が最も弱ったところを狙い、確実に仕留める。虎と呼ばれた男もまた同じだった。
「あの頃おぬしと交われたのは、わしがおぬしと同等だったからだ」
「孟徳。本当にあの頃、俺たちは『同等』だったか?」
曹操は左手を痙攣させるように震わせ、顔を覆った。孫堅にはそれがまるで泣いているように見え、思わず歩を進めそうになった。
虎は獲物が弱るのを待っている。追いかけ回し、傷つけ、常に追い詰めて神経を摩耗させ、喉笛に食らいつく日は刻々と近づいている。
まだずっと若い頃に林中で射止めた大虎の安らかな死に顔と、今目を閉じて窓辺に佇む孟徳の横顔がなんとなく重なって見えた。