紙魚自陣小説「それでは今回、良部賞の最優秀賞に輝いた『月裏荘の彼ら』の作者、月野亜裕夢さん。そして優秀賞に輝いた『マジェンタ』の作者、衣川箔さんのご登壇です!」
この声に一歩踏み出すと、普段履くことのない綺麗に磨き上げられた革靴の音がカツンと会場に響く。恐ろしい程の静寂と一身に向けられる視線の群衆に心臓が軋むように跳ねているのが自分でもわかる。ひたすら心臓を落ち着けるように、革靴の均等に結ばれた蝶々結びを見ていると、少し前から「大丈夫っすよ~」と気軽な声がして、その声に思わず手にきつく力を籠める。すると客席からざわりと困惑の声が上がる、だって仕方ないじゃないか
「あら…!ふふ、それではお二人に盛大な拍手を!」
司会の女性の笑顔に促され戸惑いつつも拍手が沸き起こる。その音に包まれながら、俺は共に賞を受賞した衣川箔の手を握り、授賞式の舞台に立っていた。
『 ぼくたちは魚。 文字の海を泳ぐ、ちいさな魚。 』
東京に本社を構えるとある出版社。編集者として勤める山嵐笑子は丁寧に封をされて出版社に届いた紙に目を通すと、その手を震わせていた。それは段々と大きくなり体全体に伝わると、溜まらずに山嵐は歓喜の声をオフィス中に響かせた。近くのデスクでそれを見ていた上司の田中はそのあまりの声量に抗議の声をあげようとしたが、田中の声が上がる頃には事務所の扉は開け放たれ外の空気を招き入れていた。
開けた窓の外で蝉が鳴き始める季節。畳のい草の香りもすっかり抜けほこりの匂いが漂う一人のしがない小説家の作業場兼自室は、今日も彼にとっての日常と平和の形をしていた。今日も今日とて原稿に向き合っている。その頭の中では思い描く世界が常に移ろい、指が軽やかにキーボードを滑る。物心ついた頃から本屋を営む祖母の影響で本に囲まれ、気付けば小説家にまで成り果てていた。とはいっても細々となんとかやっているようなものでいつの間にか燃え上がるような熱意や情熱というものは熱を失いかけていた。しかし、実は最近作品の方向性を変えてみたところ、新品の筆が手に馴染んだように調子が良かった。
キーボードを叩く手を止め初夏の風を楽しんでいると、古いアパートの鉄骨階段を革靴で登るカンカンと鳴る音が勢いよく近付いてくる。思わず玄関を振り返ると同時に派手に玄関の扉が開け放たれ湿度の混じった空気が一気に部屋に流れ込んでくる
「月野くん!!!ついに、ついにやったよ僕たちは!!」
山嵐笑子。半年前から俺の担当編集になった男で、小説に対する情熱が溢れんばかりといった風でとにかく声がでかい。担当になった当初はこんなにテンションの高い人間ではなかった気もするが、果たして山嵐なりの人見知りだったのかは謎である。
「うるさいぞ山嵐……なんだ?」
入ってくるなり主語なく語り続けそうな様子の山嵐を制す、この言葉で山嵐は大人しく扉を閉め部屋にあがると流れるような仕草で畳の上に正座する。古臭い畳に山嵐の真っ赤で皺ひとつないスーツが酷くアンバラスに映る。ふとその手を見るとその手に強く握られている封筒があった
「本当に嬉しくて僕もなんて表現したらいいか…」
とわなわなと震える手で封筒を抱き締めるように胸元で握り締める。何やら痛く感動しているらしい。いつまで待っても話の全貌が見えないので溜まらずに口を開いた
「いいからそれを見せてくれ」
素直に封筒を寄こす山嵐から封筒を受け取り開封済みのそれを抜き取り開く。無機質で事務的な文章が広がっていた
・・・
『良部賞の受賞候補入選通知および受賞意思確認』
良部倉太賞実行委員会による厳正なる審議の結果、月野さんの作品『月裏荘の彼ら』が良部倉太賞の受賞候補作品に選ばれました。つきましては、受賞意思の確認および最終選考のご案内をさせて頂きたく存じます。
・・・
それを読み終わる頃には、俺も山嵐よろしく手がわなわなと勝手に震え、全体にしっとりと汗をかいていた。やっと紙から視線を外すと山嵐に向かい声を絞り出す
「これは、どういうことだ……?」
それから文字通りあれよあれよという間に最終選考会の日がやってきたかと思えば、俺は気が付けば舞台上で視界が焼けこげそうな程のフラッシュに囲まれていた、ということだ。
授賞式の会場は都内のホテル、スーパーボリア東京。天井から降りるシャンデリアが反射した光が、舞台上に置かれた金屏風に届きより一層その存在感を際立たせている。普段ほこり臭い汚れたふすまの四畳半に住んでいる身としてはあまりに場違いな空間に、特段好きでもなかったあのほこりの匂いが恋しくなる。あまり理解の追いついていない頭で現実逃避をしながら記者会見の準備が整うのを待っていると、気の抜けた声がそれを引き戻した。
「あ、すいません遅くなりましたぁ」
見ると会場にサブカルっぽい一人の男が入ってきた。藍色の髪はナチュラルにセットされ、日向でのんびりしているような、懐いた猫のような目をしている。周囲に気軽に挨拶を交わしながら、こちらを見つけると足早に近づいてくる。
「あっ、月野先生どうも衣川伯です!最優秀賞おめでとうございます」
「……よ、よろしく」
衣川が下からずいと体を伸ばすと視界は弾けるような笑顔で埋め尽くされ思わず逃げ出したくなる。しかしこちらに元気よく伸ばされた手を無視することも出来ず、握手に応えるとその輝きはさらに増して俺に襲いかかってくる。
「いやぁ月野先生の作品読みましたよ、素晴らしかったです!」
「…君のも、よかったよ」
「あ、僕の作品も読んでくれたんですか、ありがとうございます!」
今回の受賞候補にあげられていた本は全て目を通した。その中でも衣川の作品は18歳とは思えない文章構成力で、物語の切り口も斬新で思わず喉が鳴ったのを覚えている。もし話す機会があれば伝えられればいいと思っていたが、振り絞って出たのはその一言だけだった。作家の癖にこういうときの言葉選びにはいつも苦しまされている、こんなんじゃ感じたことの1ミリも伝わらないじゃないか。と勝手に自己嫌悪に入りかけた俺の顔を衣川が覗き込む。
「実は僕も、先生の作品は以前から拝見していて!こんなすごい賞を、しかも先生と一緒に頂けるなんて光栄です!いやぁうれしいなぁ……緊張しますね!」
しっかり目を見つめて伝えてくれる衣川に自分との差を感じつつも、自分の作品の感想をこんなに真っ直ぐ伝えてもらうことに恥ずかしいような誇らしいような気持ちになり返す言葉を探していると、スタッフから山嵐に声がかかる。どうやら記者会見の準備が整ったらしい。いよいよ心臓がどうにかなりそうな音を立て始める。
「君なら絶対大丈夫、こんな素晴らしい作品を書いたんだから…」
山嵐がいつもの調子で口角をぐいと引き上げると俺の背中を押す、その様子を見ていると少しばかり安堵を覚える。こいつのこの調子が狂う日などあるのだろうか。押されるままに衣川と舞台裏に案内される。山嵐はああいったものの、呼吸が浅くなり到底喋れそうにないのだが…。山嵐と考えたコメントを必死に反芻し頭につなぎ留める。スタッフから「まもなく登壇です、よろしくお願いします」の声がかかり、いよいよ溜まらず俺は目の前の衣川に声を絞りだした。
「き…衣川、手を握ってくれないか」
というのが記者会見で衣川と手を繋いで登壇した経緯である。ちなみにその写真はあらゆる広報に使われ今ではこの上無い程後悔している。普段写真を撮られる事なんてないのだから仕方ないだろう。