AA▲▲ワンドロ文章「兄さん」
弟から差し出されたファイル。結びかけた視線は咄嗟に踵を返し、一瞥もなく受け取る。一瞬重なる指先、肩の深くから火花が散ったような熱と衝撃にびくりと震えれば、クダリは片眉を寄せて小首をかしげた。
「兄さん?大丈夫?」
クダリの手が、労りをもって私の肩に降りかかり、吹き上がる胸中の熱。私のモノでない激情を体内から飛散させるため、頬を伝う冷や汗。
──“彼”が、怒っている。
宥めるように無意識から胸を撫で、いっそう怪訝に歪むクダリの顔を視界の端で捉えてはいやな動悸に苦しめられた。
(ごめんなさい、ごめんなさい)
それは一体、彼に向けたものか、クダリに向けたものか。
私はクダリを振り返ることなく、その場を去った。
もはや、クダリとまともに対峙できなくなって長い。その他、女も男も、業務に必要な最低限の意思疎通しか取っていない。
それはちょうど“彼”が現れてからのことだ。
人工の明かりがうるさい夜。ヒウンシティの外れ。排気ガスが鼻腔を突き抜ける繁華街、そのうちに潜む居酒屋。大部屋で賑わう本社の顔ぶれ。
そこで私は死んでいる。いつものことだった。
やたらと酒を継がれ続ける私のグラス、ぐらつく脳髄に吐き気を覚えながらも、絶えず浮かべる笑み。
飲み下し続けるアルコール。
私の腰をさする、男の腕。
いつものことだ。
「おお」「おいおい」冗談めかしてあがるあきれ声に隣を見やれば、座敷に水たまりが広がり、その上をいくつかの氷がそよいでいた。
どうやら男がグラスを倒したらしい。
「掃除しなきゃ」
「ノボリくん頼むよ」
私は、這いつくばった。
かがんでみれば、畳が水気を吸ってしっとりちゃばみ始めている。水面をほこりがのって揺らめいている。
「飲め」「飲め」「飲め」「飲め」
合いの手と共に、分厚い手のひらたちがぶつかる音。
大丈夫。私は死んでいる。苦しくない。何も感じやしない。いつものことだ。
「こういうのがお好きなんですか?」
突然の、問い。喧騒はさぁっと遠ざかり、その澄んだ声が水平線のように世界に渡った。
それは、神の息吹だった。与えられたのは、救いの言葉ではなかった。この状況を止める、どこかの正義の味方の言葉でもなかった。だが不思議と、私の色あせきった魂が息を吹き返すのを感じた。
私ははたと顔をあげ、声の主を探して「誰です?」と周囲を見渡した。
「あなたはこういうのがお好きなんですか?」
2度目の言葉に、私はようやっと気づいた。
声が、自身の内側からしていると。生命のしずくが再びたらされ、ひからびた肉体が彩りを取り戻すように、冷えきった指先まで体温がしみる。
胸の奥の殻が破られ花が咲きみだれると共に、私はむしょうに悔しくなった。哀しかった。
こんなことをするために、サブウェイマスターとなったわけではない。
こんなやつらのために、磨いた笑顔ではない。
こんなことに耐えるため、鍛えた精神ではない。
私は、バトルサブウェイのために。
はるばる会いに来てくれ、応援をくれ、時に憧れてくるれるお客様のために。
魂と魂の衝突のため、最高のバトルのために。
誰がこんなことを望んだというのだ。
なにもかもが憎かった。
「こういうのがお好きなんですか?」
「──冗談じゃない!」
髪をふりみだして、腹の底から叫ぶ。涙が散った。
胸の内の“何か”が、微笑む気配。桜の花びらが首筋を撫で落ちていくような、桃色の、優しいくすぐったさがした。
「そう」
その声を最後に、私の意識は途切れた。
あれから、宴会に呼ばれることはなくなった。
何があったのかは知らない。どうでもいいことだ。
重要なのは、あれが、“彼”との出会いだったということだ。
“彼”が現れてから、日が飛ぶことが多くなった。
つまり、“彼”が私と入れ替わり、この身体の持ち主となることがあるのだ。
私は自身に起きていることを知るため、同じような体験をしている人々の本を読んだ。何度か、日が飛ぶことへの恐怖を口にする者もいた。
私はまったくかまわなかった。“彼”がしたいようにしてくれればいい。治る──つまり、彼がいなる方がずっと恐ろしいことだ。
そして話を見聞きするうち、何かそういった病とは別物らしいことが感じられた。
「ごめんなさい、偶然なんです、あなただってわかっていらっしゃるでしょう?」
“彼”をなだめるよう、胸を撫でながらかつかつと通路を急いで歩く。“彼”のご機嫌を伺うよう、クダリに触れた指先をハンカチで拭った。
とたん、心の隙間に沸いたクダリへの罪悪感。“彼”は見逃してはくれなかった。
「あなたは本当に要領が悪いですね」
「……ッ、しょうがないじゃありませんか! あなたとは違います! あなたのようにはできな……、ッ」
ずきりと喉がひきつる。首筋がビンといやな緊張を覚え、筋肉が気道をぎううと締め付ける。
「、ッ……うっ……」
「言い訳はおやめなさい。私たちは同じです。私にできてあなたにできないわけがないでしょうに」
「は、ぃ……っ い、気……をつけ、ます……ッ」
自室にたどり着くと、手を背にして鍵をした。
ファイルを乱雑にデスクへ放り、“これから始まること”のため、膝からくずおれながらもベットへ這いつくばる。
掛け布団をかき抱くと、合図と言わんばかりに太腿のあたりで熱が爆ぜる。それがぞぞ、とゆっくり腰へ向かって這い上がった。
「あ、あ、ぁっ……!」
私は布団の中へ潜り込むと、ベットヘッドに置いていた鏡を手に取り覗き込む。
「のぼり、さま、」
熱はじくじくと局部をいじめ、鏡はそれに苛まされる自身のはしたなく溶けた表情をありのまま写すばかりだ。
「のぼ、のぼりさま、のぼりさまぁ、」
恋い慕う相手を求め、鼻にかかった猫なで声でだらしなくねだる。
「すき、すき…………っ」
言いながら、1人昂って感極まったように涙がほろほろと伝った。
こんな、媚びた己の顔を見たいわけではない。あなたが見たいのだ。愛おしくてたまらない、あなたを呼んでいるのだ。私の主を。
ふいに、鏡の中の私が目を細め、口端をあげる。
私の意思ではない。これは、“彼”の。
呆然と見守るうち、ふわりと完成された笑みは、男をも女をも陥落させる魔性の表情。人と言うより、“彼”は悪魔だ。
近づけば魂をとられると知りながらも魅了され、触れざるを得ない存在。
その笑みの美しさに心奪われる。いつものことながら、自身の顔とはとても思えなかった。
私は、彼とひとつであることがうれしかった。
別々の人物であればよかったとは思わない。
だって、これなら“彼”を誰にも取られないから。
私が束縛されるぶん、それは彼だって同じなのだ。
だから、私はうれしいのだ。このままでいいのだ。
私のそんな考えを読んだのか、くす、と私のものでない笑いが零れる。
「可愛らしい私のノボリさま。どうぞ存分に。私に堕ちてくださいまし」
そう告げた唇がいっそう弧を描き、体の芯を鞭打つ熱に私はあられもなく身をのけぞらせながら、彼への恋心にひたすら陶酔した。
ああ、今夜もきっと酷い目にあう。