小夜啼鳥の夜明け(side G) 少しの酩酊が、理性の糸を緩ませる。泥酔しているわけでもなく、ゆらゆらと良い気分でマーヴェリックのベッドに向かった。甲斐甲斐しく支えようと伸ばされた手を掴んで、逃げられる前にベッドに引きずり込む。しなやかな筋肉を纏う身体は、キャロルや他の女性のものと違って硬く重い。それでも身長差のおかげか、マーヴの身体はすっぽりと腕に収まって馴染み良いのだ。
腕の中から出ようと踠いているのがわかる。しかし、自分は酔っぱらいなのだからそんなことには気づかない、と己に言い聞かせ、動きを封じるように腕の力を強めた。今日こそ逃がすものか。
いつからか、マーヴェリックを抱きしめて眠ろうとすると、するりと逃げられるようになった。酔っぱらったふりをして拘束を強めれば、仕方がないとばかりに眠ってくれるが、大抵は捕まえる前に一人でソファに逃げて行った。無理矢理連れ戻すのも違う気がして、そんな日は一人寂しくベッドで寝る。勝手にベッドを占領しておいてこの言い草。怒られそうだ。
暫くしておさまりが良い場所を見つけたのか、それとも単に諦めたのか。踠いていた身体が脱力し、こちらに体重を預けてきた。その内に、すうすうと規則正しい寝息を立て始めたのを確認して腕の力を緩めてやる。つむじに触れるだけのキスをして、そのまま顔をうずめて眠ることにした。
心地よい夢から現実に引き戻されたのは、腕の中の身体が身じろぎを始めたからだ。もぞもぞと動くマーヴの髪が顔をくすぐる。眠い。もう少しこのまま眠らせてくれ。小言は起きてから聞いてやるから。
もう一度抱きしめ直そうとして、果たしてそれは叶わなかった。ひゅ、と息を呑む音と共に途端こわばった身体が腕の中からすり抜ける。掴もうとしたが間に合わなかった。
何かあったのか、と耳をそばだてる。ギシ、とソファが沈む音がして、続いて衣擦れの音と、それから……。
「……Talk to me, Goose.」
それならどうして逃げたんだ。聞こえないふりをして目を閉じた。
―――
長い一日だった。
座学を上の空で過ごしたマーヴとは、やはり飛行訓練でも連携が噛み合わずに二度の模擬戦ともキルされた。帰投した後も思いつめた表情で、ずっと視線を落としたまま。辛うじて拾った音は「ごめん」と聞こえた。
―――
「今日は散々だったな、どうした?」
とりあえず飲みに行こうぜ、と促す。朝から、ともすれば昨夜腕の中を逃げられてから、あからさまに様子がおかしい。
あの後、結局朝までマーヴのベッドで過ごした俺は、キャロルに「浮気なんてしてないコール」をかけていた。電話越しに訝しむ声がするが、いつものことなのでさほど気にならない。可愛いものだ。気を利かせたマーヴが電話口に向かって「大丈夫だよ、ハニー」と声をかけ、その声に納得したのか話もそこそこに通話を終えた。
悪いなマーヴ、と見遣れば幼さの残る大きな目の下に酷いクマが出来ている。昨夜、あれから眠れなかったのか。伸ばした指先が柔らかな頬に触れる前に背を向けられてしまう。
拒絶。
それだけで、普段のあいつと違うのは明白だった。
距離の近さが感覚を鈍らせる。抱いているものが家族としての情なのか、親友としての情なのかわからない。そのどちらでもあるが、きっとそれらだけじゃ足りない。曖昧な関係で複雑に絡み合った感情を、今更解くことはできそうになかった。足りない部分に抱いているものに気づいてはいけない。気づかせてはいけない。俺も、お前も。
反応のないマーヴにもう一度「飲みに行くぞ」と声をかけ肩を叩く。強張った体の拒絶を感じたくなくてその肩を抱くことはできなかった。最後に彼の瞳に己の顔を見たのはいつだったか、未だに交わらない視線が、もどかしい。
「……あ、あぁ…悪い。今日は、用事が、ある…から」
一瞥も寄越さずに嘘を吐く。隠す気があるのかわからないそれを咎めることはしない。俺に言えない何かがあるって? そう思いながら踏み込まないのは保身かもしれない。
「相棒の俺より愛しの彼女、ってことか? わかったわかった。ちゃんと慰めてもらってこいよ!」
何ということもなく普段通りを演じる。ひらひらと手を振って送り出してやれば、安堵の息が漏れるのが聞こえた。
「……悪いな」
はは、と力ない笑いを残してロッカールームを去る背中を見つめる。いつもならニコニコと見上げてくるその顔が、こちらを向くことはついになかった。
―――
「あら、珍しい。今日は一人なのね」
ニコッと笑顔を作ったチャーリーの目線が、俺の横、後ろと続き、言外にマーヴェリックのことを尋ねられる。生憎俺の相棒はあなたに慰められに行ってるらしいんですよ、なんて考えながら苦笑してやり過ごす。
「その、放っておいて平気なの? ……あなたに言うべきかはわからないけど、彼、様子がおかしかったでしょう? 講義にも集中できていないみたいだったし」
控えめにグラスを叩く指が心配を物語っているようだ。
「あなたが心配していたって伝えておきますよ」
ウィンクを一つ残して騒がしい仲間内に潜り込む。喧噪と共に気を紛らわしたかった。ハイペースに浴びるアルコールが喉を焼く。「一人か?」「マーヴェリックは?」なんてくだらない質問はやめろ。あいつが今どこにいるのかって? 教えてくれよ、マーヴ。
結局、喧騒もアルコールも、俺が抱えるくさくさした気持ちを紛らわすことはなかった。それどころか幾人かからの無用な質問が頭を冷やしていく。いい加減馬鹿馬鹿しくなり適当にその場を切り上げれば、自然と足が向かったのはマーヴェリックの部屋だった。あの抱き心地の良いぬくもりを腕にして眠りたい。
「……ったく、どこに行ったんだよ……」
主のいない部屋を前に独り言つ。あの状態のマーヴェリックを独りきりにしたのは間違いではなかったか。あいつが馬鹿なことをするか、或いは良からぬことに巻き込まれるか……。不安が過る。拒絶されたとしても、無理にでも捕まえておくべきだったんじゃないのか。手当たり次第に探し回りたい衝動に駆られるが、それはあまりにもリスクが大きすぎて躊躇する。無益な問題を起こしてしまえば、今度こそ共に戦闘機に乗ることはなくなるかもしれない。
「放っておいて平気なの?」バーでのチャーリーの声がリフレインする。放っておけないから困ってるんだ。
―――
アルコールのおかげで浅い眠りを繰り返し、お世辞にも爽やかとは言えない朝を迎える。昨夜自宅に辿り着いたのは日付変更線を過ぎて暫く経ってからで、結局それまでにマーヴェリックが部屋に戻ってくることはなかった。どこかで女でも拾っているならいい。最近のチャーリーへのご執心具合からそれはないと知りながらも、悪い想像をかき立てる焦燥感をどうにかしたかった。
嫌な想像を振り払いたくて準備もそこそこに朝のワークアウトに出る。向かうのはマーヴの部屋がある官舎の方向で、我ながら過保護だなとも思う。いや、過保護なんて純粋な気持ちではないかもしれないが。――Got to tell this world that you’re mine…… 何度二人で歌ったか知れないフレーズが過る。お前は俺のものだと世界に伝えられたらいいのに。
官舎周辺のランニングコースをおざなりに往復していると、馴染みのある小柄な姿を捉えた。その背中に向かって「マーヴ」と声をかける。こちらを振り向いた顔は不思議そうにしているが、昨日の悲壮感は消えていた。俺が何故ここにいるのかという疑問すら、ワークアウトをしていると結論付けたのかすぐに霧散したようだった。
「おはよ、グース」
おずおずと上目遣いに視線を寄越す。
「昨日は、その……悪かった……ごめん…」
普段とは違うオーバーサイズのシャツから覗く指先が、控えめに俺の服の裾に触れる。
「今日はガンガン撃墜しようぜ」
な? と吹っ切れたように満面の笑みを向けられるが、俺の思考はマーヴが着る見慣れないシャツに囚われていて、幾ばくか反応が遅れた。一瞬マーヴの瞳に不安の色を見つけてしまい、反射的に「頼むぜ」と大袈裟に背中を叩いて不安を拭ってやる。
「昨日は本当に散々だったからな! 愛しの美人教官に慰めてもらって、今日は完全復活したか?」
朝帰りご苦労! と揶揄い交じりにわざとらしく大声で笑う。
「……チャーリーがどうしたって? 昨日はそんなんじゃ…………」
あぁ、馬鹿だなマーヴ。
お前の瞳は雄弁だから、動揺を浮かべたその奥に、言えない秘密が滲んでいる。
「……ふーん、じゃあ昨日はどこに行ってたんだ?」
感情の乗らない平坦な声が響いた。この気持ちに気づいてはいけない。気づかせてはいけない。
そういえば、お前の愛しの彼女がすごく心配していたけれど、それは言わなくてもいいよな。
「マーヴ?」
さあ、答えてみせろよ。
縋るように揺れる瞳が、俺の望む答えを探して問いかけてくる。
(Talk to me, Goose.)
悪いな。教えてやれない。