ハロー・アゲイン(グスマヴェ懐古編)「マーヴは寂しがり屋だから、俺がずっと隣にいるよ」
それはまるで白昼夢だった。朝の光を背にして浮かぶシルエットが、耳に馴染んでいるそれよりも幾分低い声が、やわらかい記憶をくすぐる。
グース、とこぼれた掠れた声は、誰にも届かずに消えていく。
取り落としそうになったレンチを握り直し、軽く手を挙げて応える。声をかけたのはルースターだった。
「……ブラッド、起きたのか」
おはよう、と返した声は震えていなかったか。気取られないように近づき、動揺に覚束無い手を隠すようにタオルで拭う。
「で、なんだって?」
鼓動が焦燥を告げる。胸のあたりがじくじくと落ち着かない。
「親父の夢を見たんだ」
「グースの?」
それで、どうしてあの言葉なんだ、と思わずルースターを見つめる。頬を掻くルースターは少しの逡巡を見せたが、元々話すつもりだったのだろう。ぽつりぽつりと探るように語り始めた。ルースターがまだ子供の頃の、可愛いブラッドリー坊やと子煩悩なグースのあたたかい思い出。
「俺さ、小さい頃、マーヴが本当に俺の家族だと思ってたんだ。可笑しいだろ」
恥ずかしそうに笑うルースターに、幼子の面影を見る。
「それは……僕としてはすごく、嬉しいけど」
僕が夢見ていた、だけどどうしても手に入らない「家族」という存在。グースを通じてどこか彼の家族の一員になったように過ごしていた幸せな非日常。それを幼いブラッドリーが本当に「家族」として享受していたなら、それはとても嬉しい告白だった。
「うん。で、ある日マーヴが本当の家族じゃないって知って。それで親父に聞いたんだ。『どうしてマーヴはいつもダディと一緒にいるの?』って。ほら、俺は家族だから一緒にいるんだと思ってたから」
その光景が目に浮かぶようだった。きっとグースは少し困った顔をして、だけど最後にはニヤリと笑って的確な言葉を紡ぐんだ。いつだってグースが、僕に答えを与えてくれていたように。
「それで、グースはなんて答えたんだ?」
“Talk to me, Goose.” と心の中で唱えてルースターを見つめる。グースの言葉を聞かせてほしい。
「マーヴはすごい奴だけど寂しがり屋だから、俺がずっと隣にいるんだ、って」
あぁ、まただ。やわらかい記憶が刺激される。
「……大切な奴に、寂しい思いはさせたくないだろ、って」
大事に仕舞ってある目映い思い出がよみがえる。自然と潤む瞳に涙が流れないようにと堪えながらルースターを見つめた。
「お前にまで、そんなこと言ってたんだな」
あたたかい思い出だった。軽口を交わす中の言葉のひとつだったが、グースの声で紡がれたそれは一等綺麗で、宝物のように大切に覚えている。
「言われたことがあるんだ、グースに。『マーヴは寂しがり屋だから、俺がずっと隣にいてやらないとな』って」
ずっと、と確かめるように口をついた言葉は音にならなかった。
―――
馴染みのバーでバドワイザーの瓶を傾けながら、マーヴェリックはぼんやりと店内を見渡していた。アップテンポな音楽に、あちこちから響く喧噪。少しの静寂が自身の周りに流れているが、それは不思議と心地よくマーヴェリックを慰める。
カウンターを背に立つマーヴェリックに向かって、店の隅の方からグースが向かって来るのが見える。遠くない距離だというのにあちらこちらから声を掛けられてその距離が縮まるにはもう少しかかりそうだった。
グースは顔が広い。人好きのする性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。だから行く先々で自然と人に囲まれることも多かった。大抵はそんなグースのそばを離れずについていくマーヴェリックだったが、今日はいつとはなしに喧噪がグースを攫って行っていた。
「マーヴ」
やっとのことでマーヴェリックの元へ辿り着いたグースが「どうだ? 大丈夫か?」と声をかける。少しかがんで視線を合わせるグースに、マーヴェリックはニコリと笑顔を向けて応えた。グースが続ける。
「気が付いたらいなくなってるからさ」
心配した、と手に持つ瓶をマーヴェリックが持つそれにコツンと当てて小さく乾杯する。
「……別に、おれはここから動いてないだろ」
うらめしさが態度に出ないようにしたかったが叶わなかった。グースは驚いたようにマーヴェリックを見遣り苦笑する。
「はは、そうだな、悪かったよ」
マーヴェリックの肩へ腕を回し、まるい頭をわしゃわしゃと撫でる。マーヴェリックは手にしているバドワイザーが落ちないようにと気にするばかりだった。髪の毛もぐちゃぐちゃだ。
「ひとりにして悪かったって。心配だからちゃんとくっついて来いよ。寂しかっただろ?」
乱暴な腕から解放され、ニッと笑うグースと目が合う。マーヴェリックは、軽く髪の毛を整えながら視線を彷徨わせた。
「別に心配されるようなこともないだろ。……ゆっくり飲めてよかったよ」
「ふーん、俺は隣にお前がいないの寂しかったけど?」
「グースは寂しがり屋だもんな」
「そうそう、だから俺をひとりにしないでくれよ」
顔を見合わせてクスクスと笑う。グースが隣にいるだけでこんなにも楽しくて、穏やかで、幸せな気持ちになれるのは不思議だった。
「じゃあグースも…」
おれをひとりにするなよ、と続けるはずの言葉がマーヴェリックの口から音になることはなかった。グースは溜息をひとつ吐き、マーヴェリックを横手に抱き寄せる。
「マーヴは寂しがり屋だから、俺がずっと隣にいてやらないとな」
酔っぱらいの戯言だと聞き流したかったそれが、たしかに心を満たしていることにマーヴェリックは気づいていた。相棒で、親友で、唯一の家族と呼べる存在。どんな名前の関係でも良かった。ずっと一緒にいるのだという他愛もない約束は、マーヴェリックが抱える孤独や寂寥感を溶かし、やわらかな幸福を与えた。
―――
そうだ、ずっと、ずっと。隣にいるはずだった。
それを反故にしたのは、僕だ。
「……僕は、そんなに寂しそうに見えるのかな。アイスにも言われたことがあるよ。僕は一匹狼なのに寂しがり屋だって。別に、独りで、平気なのに」
独りでも平気だった。だけど心のやわらかいところは、すべてグースに明け渡してしまったままで、あの日からじくじくと鈍い痛みが止むことはない。平気なのに。平気なはずなのに、もうずっと。
「独りが平気だなんて言わないでくれよ」
途端手を引かれ抱きすくめられる。僕をすっぽりと覆う大きな身体が、どこか懐かしい。グースとハグをしたことは幾度となくあったが、こんな風に抱きしめられることはなかった。僕を抱きしめているのはブラッドリーなんだ、と妙に実感した。
「親父がいなくなってから、俺はずっとマーヴのそばにいてやらなきゃって思ってた。『寂しがり屋のマーヴ』を独りにしちゃ駄目なんだって。俺も親父みたいにマーヴと一緒に空を飛んで、ずっと隣にいるんだって」
やさしいブラッドリー坊やが、幼心にそんな決意をしていたなど想像だにしなかった。父が遺した寂しがり屋の相棒を、守ろうとしていたというのか。
「ずっと、寂しい思いをさせて、ごめん」
立派になったな、と思う。僕はあの日からずっと時間が止まっているのに、この子はすっかり成長している。あんなにも傷付けてしまった僕を、許そうとしてくれている。
「マーヴは寂しがり屋だから、俺がずっと隣にいるよ」
グースの声がリフレインする。にじむ涙を止めることが出来そうになくてルースターの胸板に顔を押し付けた。そうだよ、僕は寂しがり屋だから、ずっと、ずっと隣にいてくれないと嫌だ。そんなわがままは言わなかったけど、そんなわがままを許してくれるグースだったから。
きっとあの日を境に果たされなかった約束を、この子もずっと、抱えていたんだ。
「……謝るのは僕の方だ、ブラッドリー。僕が、もっとお前の気持ちを考えてやるべきだったし、ちゃんと話し合うべきだった。……子供のお前が、責任を感じることなんてないんだ」
すまない、ブラッドリー。僕が、グースを奪ってしまったから。結局のところ、全ての元凶はそこに行き着くしかないんだ。
「違うよ、マーヴ。違うんだ」
抑えきれない感情をぶつけられるように一層きつく抱きしめられる。軋む強さに身を委ねていた。
「俺がマーヴの隣にいたいのは、責任とかじゃない。マーヴに、寂しい思いも、悲しい思いもさせたくないんだ。それは責任がどうとかじゃなくて、ただ……」
ルースターの声は、悲痛な祈りの色を帯びている。
「ただ、マーヴのことが好きだから、大切だから、マーヴと一緒にいたい」
“please”とか細く聞こえたのは幼いブラッドリー坊やの声だろうか。
「俺も、マーヴがそばにいないのは寂しいよ」
本当に、そっくりだな、と思った。あまりにも似ていて、あまりにも違う。グースが僕を大切にしてくれていたのは痛いほどにわかっていた。だけどそれをルースターにまで負わせるのは酷じゃないか? そう思うのに、紛れもない喜びが駆け巡るのを感じている。その事実が苦しい。
「お前に、そうやって言われるのは、なんだかくすぐったいな。……でも、嬉しいよ」
嬉しい。そうだ、嬉しいと思ってしまった。
きつく抱きしめられていた腕の力が穏やかになる。こんなぐちゃぐちゃな感情のまま、彼に顔を見せることは出来なくて、ぎゅう、としがみつけば、一呼吸おいてあやすように背中を撫でられた。
「……子供の頃、マーヴを本当の家族だと思ってたって話したろ」
そうだ、それは可愛いブラッドリー坊やの話。あたたかいハグの中で聞くにはあまりに美しい話だ。
「俺は今でも、マーヴと家族になりたいって思ってるよ」
時間が止まったような気がした。或いは過去の、いつかの幸せな時へ戻ったのかもしれない。ルースターが、あの可愛いブラッドリー坊やが、今でも自分と家族になりたいと思っている? 思いがけない言葉にルースターの顔を見遣る。しかしそこで自分を捕らえたのは家族へ向けた慈愛の眼差しではなく、情欲を湛えた熱い視線だった。
あぁ、ブラッドリー坊やはどこだ?
「だから、俺と結婚してよ、マーヴ」
熱を孕んだ瞳が逸らされることはない。逃げられない。
撫でるように触れた唇が、何度も己のそれを食んでいく。愛おしむように繰り返されたバードキスで緩んだ唇は、腔内への侵入も容易く許してしまう。粘膜から与えられる刺激に夢中になって、互いに求めあうように舌を絡める。熱くなる身体に思考がまとまらない。
「……っふ…ぁ…」
名残惜しそうに離れる唇に声が漏れる。
「……ね、お願いマーヴ」
幼いブラッドリーが「お願い、マーヴ」と上目遣いに強請ってくる。今では僕の方が、彼を見上げる形になってしまった。
どうしよう、グース。どうしたらいい。教えてくれ。
「マーヴは寂しがり屋だから、俺がずっと隣にいるよ」
いつかのグースの声が重なる。
そんなの、駄目だ。手放せなくなってしまう。
頭半分上にあるルースターの瞳を縋るように見つめる。どうしたらいいか教えてほしかった。もう自分がルースターに助けを求めているのか、それともグースの面影を探しているのかすらわからない。
ルースターの気持ちに報いたいとは思う。それすら言い訳だってわかってる。だって、きっと、僕も……。けれど、その先を認めるのが恐ろしい。
「マーヴ、その顔はやめて」
僕は、どんなふうに君を見てるんだろう。
「……いつもの顔だ」
「そうなの? そんなにいつも俺のことが欲しくてたまんない、って顔してたら我慢できないよ」
クスクスと笑うルースターが、もう一度優しいキスを降らせる。甘い歓びを享受しながら、幸福が全身を包むのを感じていた。
あの約束が果たされることがなくなっても、僕の隣にはいつだってグースがいた。
この手を取ることを、お前は許してくれるかな。