なにもしらない あぁ、グースは、アイスマンとだってあんな風に談笑するんだ。その目で、その声で、その手で、触れて。
「マーヴェリック、お前、すごい顔してるけど。……そんな顔、俺が見てよかった?」
「は? 何が……」
いつもベタベタとアイスマンに纏わりついている長身が珍しく体を寄せてきたのに釣られてマーヴェリックは高い位置にある顔に目線を移した。狭いロッカールームに図体のでかい男ばかりで、お世辞にも爽やかとは言えない熱気と湿度が立ち込めているのに、間近で漂う獣のような匂いにくらくらする。
グースと並んでも遜色のない長身の男――スライダーはトップガンに来てからやたらと絡んでくる男ではあったが、マーヴェリックが直接言葉を交わすようになったのはほんの最近だった。人付き合いの苦手なマーヴェリックのつっけんどんな物言いにも軽いノリで応じるその態度に、少なからず話しやすさに似たものを感じていたかもしれない。
「もしかして自覚なかったのか? ま、俺はお前のそういう顔、結構好きだけどな」
ニヤニヤと「そういう顔」を舐める不躾な視線に不快さを覚え眉を顰める。
「はぁ? だから、どんな顔だって、」
「マーヴ」
苛立ちを隠しきれずにスライダーに食って掛かろうとしたところを背後から伸びる手に阻まれる。ぽすんと抱きしめられた感覚に、マーヴェリックは先ほどまでの怒りがひっそりと萎えていくのを感じた。背中をあたためる熱は、噎せ返るほどの暑い日にもとげとげした心をそっと撫でる。じんわりとした嬉しさが広がり、自然と口元が綻ぶ。
「グース! もういいのか?」
弾む声と共に視線を合わせたくてグースを振り返ろうとするが、思ったよりも強い拘束に身動ぎだけで終わってしまう。
「グース? どうした?」
「マーヴ、もう終わった? 帰ろうぜ」
「おれ、お前を待ってたんだけど……」
もごもごと不満を紡ぐ間も緩められることのない拘束に若干の違和感を覚える。しかしどうすることも出来ずに視線だけで眼前のスライダーを窺えば、とうに興味を失くしたのかその瞳がマーヴェリックを捉えることはなく、己の頭一つ上に目線が向けられていることに気づく。
グースとスライダーはアナポリスの頃から面識があり、マーヴェリックの知らない時間を共有している。そんな普段は気にも留めないことが、こうして時折自分の知らない何かを二人の間で交わしているのを見つけては、少しばかりマーヴェリックの心に暗いものを落とした。それは、一抹の不安と、寂しさと、独占欲にも似ている。
グースの腕から逃れることも出来ずにスライダーの顔を見据えていると、ふいにニヤついた視線が己に移り、先ほどまでの苛々した感情が頭を擡げてくる。思わずグースの腕の中から飛びかかろうとして、はたと動きを止める。頭上から降るグースの声が、いつもより低く咎める響きを持ってスライダーの名を呼んだことに驚いたのだ。
「マーヴも。もういいだろ、帰るぞ。……あー…と、先に出とけ。すぐ行くから」
口早にそう言われ追いやるように背中を押される。ドアが閉まる瞬間にもう一度怒りを湛えたような低い声がスライダーの名前を呼ぶのを耳にしながら、マーヴェリックはやはり多少の疎外感を覚えてドアの向こうの壁に背を寄せた。
―――
「なんだよ、マーヴェリックが寂しがるぞ。せっかくお前に構ってもらえるって喜んでたのに」
グースはハァーッと嫌そうな溜息を吐き、くつくつと喉を鳴らすスライダーを見遣る。互いに手の内がわかっている相手だ。下手に隠し立てするつもりは最初からなかった。
「あのなぁ……わかってんだろ」
「いや、いいもの見せてもらったぜ? あんなすげえ顔でお前のこと見てるんだな」
「あいつは気づいてないんだ。余計なことは言わなくていい」
「何、自覚ないまま欲情してるような顔晒してたら危なくねえ?」
俺は優しさで忠告してやろうと思ったんだよ、と嘯く言葉にグースは頭を抱えたくなった。
マーヴェリックから向けられる視線に熱が帯びていることなど、もう随分前からわかっている。好意を伝える表情は愁い、嫉妬や羨望を湛えた鋭い視線が独占欲ごと俺を焦がす。そんなはしたない顔を、俺以外の前で晒してくれるなよ、とは思う。だけど、それを無理に抑えさせるつもりもなかった。どちらにしても、マーヴェリックのあの表情が向けられる相手は、俺しか有り得ないのだから。
それなら、
「俺がそばにいるからいいんだよ」
「ひっでえ、生殺しじゃねーか」
人聞きの悪いことを言う男に指を突きつける。
「でも、あんな顔して俺のこと見てるんだから、お前には万が一にも可能性がないってわかっていいだろ」
「いや、つーか、俺はハナからそんなつもりねーんだけど……」
可愛い顔してんのは認めるけどな、と軽口を叩く男にひと睨み利かせる。スライダーにその気がないことは重々わかっているが、不埒な輩はそこかしこにいるものだ。どうせ牽制するのなら、最初から期待するだけ無駄だとわからせておいた方が早い。
それに、とグースが付け加える。
「ああやって、欲しい、って顔されてんのは単純に嬉しいもんだからな」
「お前のその最低なところ、なんでマーヴェリックにバレてねえんだよ……」
大袈裟な溜息を吐くスライダーに、「あいつ、俺のこと大好きだから」と上機嫌に笑ってみせる。
「……お前も大概、マーヴェリックのことが好きなんだろーが」
スライダーの言葉には何も返さず、グースは今度こそロッカールームを後にした。
あいつが俺のことを好きだから、俺は、あいつが望む「何も知らないグース」でいられるんだ。
―――
ドアの開閉音が響き、ロッカールーム前の壁に寄りかかりながら手持無沙汰に体を揺らしていたマーヴェリックは視線を上げた。出てきた人物がグースだと認めると、嬉しさと、そして少しのくさくさとした気持ちが胸を刺す。
「もういいのか?」
「あぁ、別に。大した用じゃないしな」
「あっそ」
それじゃなんでおれを追い出したんだよ、と考えて一層面白くない気分になる。おれには教えられないのに、スライダーたちとは何を話すんだ。悔しさまで募ってきて、頬を膨らませながら大股に歩く。大人げない自覚があったが、苛立ちを抑えられない。
「おいおい、不貞腐れんなよ。可愛い顔が台無しだぞ」
むくれた顔のまま返した「どうせ可愛くねーよ」の言葉が存外ぶっきらぼうに響く。
「さっきスライダーにも、すごい顔してる、って言われたし」
「ふーん……なにそれ、お前どんな変顔してたの」
「知らない。……そうだ! 聞こうとしたらお前が……」
「え、何、俺のせい? お前、何かすごい顔するくらい変なことでも考えてたんじゃねーの?」
「変なこと、って」
何だよ、と記憶を反芻する。
あの時。
グースが、アイスマンと話をしてて。
そうだ。あの視線も、声も、肩を叩く手も、全部、
あ、やばい。
「ちょっとマーヴェリックさん、お顔が真っ赤ですよ。ったく、どんなエロいこと考えてたんだよ」
そうやって笑うお前も、全部、おれのものなのに、って。
他の奴が知らないくらい、グースの、全部が、欲しい、って。
その熱に、体が、重く疼いて。
「な、んでもない!」
「えー、何だよ。そうやって誤魔化されると気になるだろー」
うりうりと体を寄せてくるグースから逃れようと身を捩る。頬を付けられ火照る顔が熱を増していった。
「ちょ、グース、近いって」
お前の熱が欲しいなんて考えてしまっているときに、その顔を近づけないでほしい。これ以上どんなに真っ赤になっているのかと思うと恥ずかしくて、まだ一向に熱は引きそうになかった。
「んー? 素直に言えたらご褒美に俺のちゅーを進呈してやろうかと思って」
「っは、なんだそれ! いらねー!」
「あ、ハニーひどい、そんなこと言っちゃう?」
熱に浮かされたみたいな顔も、げらげらと二人で馬鹿みたいに笑ってしまえば冗談で済まされる気がした。惜しくなんてない。欲しい、なんて思わない。
そんな決意を余所に、頬に柔らかい物が押し当てられる。あぁ、もう。
「……ちゅーはご褒美じゃなかったのか?」
「頬はカウント外だろ。いつもしてんじゃん」
「ふーん、お前のキスが安いってことはわかった」
「ご褒美キスはちゃんと口にしてやるぞ?」
「だから、いらないっての」
これ以上、おれの決意を鈍らせるなよ。
「えー……じゃあ、さっき何考えてたかは教えてくれないんだ?」
さっき、と考えて再び熱が全身を駆け巡る。グースはおれの決意なんて露程も知らないから、簡単に言ってくれる。それを伝えられて困るのはお前のくせに。ぷい、と寄せられた頬と反対に顔を背ける。
「まだ言ってんのかよ。もー忘れた!」
「はは、わかったわかった」
ぽんぽんと背中を叩かれ、離れていく頬のぬくもりが、恋しい。
グースはそんなつもりなんて全然ないだろうに、おれはその思わせぶりな態度にいつだって振り回されていて、人の気も知らないで、なんて言いがかりもいいところなことばかり考えてしまう。ずっとおれは、お前のことが好きなのを我慢しているのに、本当はもうおれの劣情に気づいていて、だからそんな態度を取っているんじゃないか、って。
だけど、グースがそんな態度を取ることこそ、おれの気持ちに気づいていないという証左だった。だって、おれのこんな気持ちを知っていたら、隣でお前が笑ってくれるはずなんてないから。
こうやって余裕綽々な笑顔で「しょうがないな」って大きな手に頭をくしゃくしゃと撫でられるのが好きだ。お前はいつでもおれの全部を許してくれるから、時々もっと甘えたくなる。嫌われたくなんてないのに、グースはどこまでおれのことを許してくれるんだろう、って。恰もお前に愛されているんじゃないか、って。
少しだけ、試したくなる。
「お前のこと」
そう零せば、頭を撫でるグースの手が止まる。固まったグースを余所に、さっきの答えだけど、と続けた。
「グースのこと、考えてた」
なぁ、グース。この後は、どうするんだ? おれの、この答えは、正解だった?
「俺のこと?」
眉を寄せて細められた瞳から視線を外すことが出来ない。近づくグースの吐息が熱い。頭を撫でていたはずの手はいつの間にか頬に添えられ、グースの太い親指が、おれの唇を優しくなぞった。
「そうだ。お前はおれのものなのに、って、考えてたんだ」
さあ、早く。
この答えが正解なら、おれに褒美を寄越してくれ。
―――
お前が「欲しい」って言えないのを知っていながら、お前に「欲しい」って言わせたくて、幾度もギリギリのラインをなぞる。俺たちの均衡を守る境界が崩されることがないと知っているから、俺はお前に甘えている。たとえお前がそのラインを越えそうになっても、俺は、それを越えさせてやらない。そうやって、ずっと、守ってきただろ。
だから、まだ、もう少し、「何も知らないグース」でいさせてくれないか。
お前の滑らかな頬に、柔らかな唇に喉が鳴る。今だ。「馬鹿だな、冗談だ」って、笑ってやらないと。