駒の安寧海沿いに聳え立つカインの屋敷は、言わずもがな豪華絢爛である。分かりやすい豪勢さは家主曰く釣り餌代わりとのことだったが、俺から見ればむしろ逆。足を竦ませる抑止力だ。見渡す限りの巨大な彫刻、手入れの行き届いた庭の植生、そして玄関前を塞ぐ大仰な門。もしも俺がカインとまったく面識がなく、サウスタウンのいち住民としてこの屋敷を眺めたのなら、間違っても立ち寄ろうなどとは思わないだろう。
(俺の身の丈には絶対に合わない場所、だと思ってたんだけど。慣れるもんだな)
貴族然とした空間にどこか肩身の狭さを覚えていたのも今は昔。この屋敷で寝起きをするようになって幾月もの時間が流れ、今やどの部屋を覗くにもさしたる抵抗はなくなってきている。日付が変わろうかというこの時間になって、手持無沙汰にベースを鳴らしているのが羽を伸ばせるようになったいい証拠だった。どんな時間になろうと好きに楽器をかき鳴らせるのは、あたりに他の居住区のないこの場所故の特権である。無論、屋敷内の人間には気を遣わねばならないがこの規模の家だ。部屋同士の距離とて十二分に離れているのでさして心配はいらない。アンプを繋がない生音であれば、せいぜい憚るべきは目の前にある一部屋くらいのもの。そしてありがたいことに、その部屋の主はそれなりに音楽が好きときている。
(音が返ってこねぇ。まだ戻ってないのか)
弦を爪弾きながらぼんやりと窓の外を見る。向かいの部屋の主、唯一の隣人はボックスだ。恐らくは監視の目的で、カインが部屋を振ったのだろうと思う。初めこそ鉢合わせるたびにどう声をかけたものか考えあぐねて気まずさがあったが、勝手知ったる兄弟のような間柄になった今は互いの部屋の境もあってないようなものである。ボックスが勝手に俺の部屋で寛いでいることもあるし、その逆も然り。こうして音を鳴らしていると、気まぐれに向こうからトランペットの音色が聞こえて夜更かしが深刻になることだってあった。
しかし、夜がいつでも賑やかであるとは限らない。一組織の懐刀として暗躍する男は実に多忙で、屋敷に戻らない日も珍しくはないのだ。しかしこのところのボックスは、俺が夕飯を用意するのを見越して仕事の予定をある程度事前に教えてくれる。今日は遅くなりそうだから食事はいらない、とどこかしょんぼりとした雰囲気で話しかけてきた男は、それでも日を跨ぐ前には帰ると言っていた。もし俺が起きているうちに帰ってきたのなら、夜食の一つでも拵えてやろうと思っていたのだが、この様子ではどうだろう。
(なんかあった、とか)
茫然とした思考に不安が過って、思わずベースをベッドに下ろした。物書き机に放っていた携帯電話をなんとなしに手に取って見る。着信も、メッセージもない。
ボックスの仕事は即ち裏社会の仕事だ。それも情報収集を目的とした、潜入捜査の類が多い。心配を寄せるまでもなく強かな男であるとは理解しているが、敵対組織の懐に入り込むとあってはイレギュラーもあるだろう。
(考えすぎ、か……)
カインも、ボックスも、俺だってそれなりに。道を行くだけで喧嘩を売られる立場の人間だ。例え互いにどこか放っておけない存在であったとしても、こんなことで逐一気を揉んでいてはきりがない。わかっている。だからこそ覚えた心配を口に出すことはないけれど、どうも俺は絆された相手に対して妙な心配性になるきらいがあった。子供の頃から、ずっと。
(ガキの頃は留守番のたびに、テリーのこと困らせてたっけな。半日かそこら置いて行かれるだけで、涙目になって出迎えて無事を喜ぶもんだから……)
一度浮かんだマイナスの思考は、滅多なことでは消えてくれない。動き続ける頭を無理に止めるのは逆効果だ。これは経験則で知っている。こういう時は、芋づる式に出てくるもしもを封じるように、適当な思い出に目を向けるのが一番いい。決まって手を伸ばすのは養父との記憶だった。日だまりのような温もりをもって注がれる、「大丈夫だ」という一言は何度俺を救ってくれたか知れない。
「大丈夫……。うん、大丈夫、きっと」
言い聞かせるように呟いて、いつの間にか握りこんでいた掌を緩める。未だ沈黙している携帯電話を今度はベッドに放り投げ、自分も柔らかな布団に身を沈めた。この屋敷において俺の寝起きのサイクルは比較的品行方正の部類である。じき眠る時間だと身体がわかっているんだろう。当然高級品であるベッドの寝心地の良さも手伝って、意外にも意識はすぐさまぼんやりと霞み始めた。このままうつらうつらと寝ぼけながら待ったほうが、変に後ろ向きにならなくていいかもしれない。曖昧になっていく視界に抗うことなく、そうっと瞼を降ろしてみる。
(帰ってきたらわかるだろ。ドアの音位、気づけるはず……)
枕を手繰り寄せ、何かに縋るように顔を埋める。忍び寄る夢の気配に意識を預けるのに、そう時間はかからなかった。
◇◇◇
誘われるように寝入って、どれだけの時間が経っただろう。
「……ッ」
がたッ、と、明らかな異音が飛び込んできて、微睡んでいた意識はすぐさま現実へと引き戻された。ちらりと自室の入り口を見やるが、再びガタガタと鳴り響いた音は逆方向から聞こえてくる。
(窓?)
耳を澄ます。不規則に聞こえてくる音は、カーテンの降りた窓の向こうで鳴っているようだった。風の音にしては強い。恐らくは人為的なものだろう。寝起きの頭は十分に冴えていた。くつろぎきった寝間着だが、動きやすさという点ではなによりも勝る恰好である。例えカーテンを捲った先に刺客が待っていようとも、臆さず戦うことはできるだろう。
(よし……)
一つ息を吐いて、足音を殺しながら立ち上がる。まずは様子を伺うべきかとカーテンを捲ろうとした、まさにその時。
「は……?」
がしゃんッと明らかにガラスの割れる音がした。思わず一歩後ろに飛びのいたのと、重いカーテンを外から捲る色黒の腕が見えたのがほとんど同時だったと思う。指先を飾る見慣れた三つのリングを見た途端、警戒心を忘れて名を呼んでしまった。
「ボックス……?」
「あー……、よかった、いた。ごめんロック、手伝って」
「手伝うって……」
ひらひらと呑気に手を振る掌に、いつもの調子で軽口めいた返事を返そうとする。しかしそれがえらく血に濡れていることに気が付いて、はっとしてこちらからカーテンを跳ねのけた。露になった窓の外は、まだ暗い。部屋から漏れる灯りのおかげで、辛うじてバルコニーの向こうが見える程度だ。そこには身を隠す様に屈みこんだボックスが、悪戯を叱られるような顔をして座り込んでいる。突き破られているのは丁度鍵のすぐ傍だ。外から無理やり開錠しようとしたらしい。
「っ……ひっこめろ、開けるから」
命じられるがまま、手は大人しく外へ出ていく。慌てて窓を開けてやれば、海風と共になだれ込んできたのは一層濃い鉄の香りだった。動揺のまま動けずにいる俺と同じく、ボックスは開け放たれた窓を安堵したように見つめるだけで、部屋の中に入ってこようとしない。
「らしくねぇ、どうしたんだよ。怪我、してるとか」
「してるけど、俺はあとでいいや。振り切れなかったのが二、三人そのうち追い付いてきちゃうと思うんだよね。悪いけどそれ、ぶちのめしてきてくれないかな……。カインのとこ行かれんの、困るから……」
やっとの思いでボックスに歩み寄ろうとすると、ひらひらと踊る血濡れた掌が広い庭を指し示した。言われて耳を澄ませば、物騒に植木をかき分けている乱雑な物音が耳を突く。どうするべきか、再び身体が動かなくなった。ボックスの動きは見るからに緩慢だ。鼻腔を掠める強い血の香りは彼から漂う匂いなんだろう。あの強がりが素直に「怪我をしている」と申告して来たあたり、恐らくかすり傷のような浅い怪我ではないはずだ。軽くでも手当をしてやった方がいいのかもしれない。しかしこの屋敷には母、そしてセカンドサウスの覇者となったカインがいる。戦う術を持つカインはまだしも、母は無力だ。ようやく人質と言う立場から解放された彼女を、再び危険に晒すようなことがあっていいはずがない。
「すぐ戻る」
数秒迷ったつま先は、友を追いこしてベランダの外へ向かった。すれ違いざまの一言には、微かな笑い声が返ってくる。普段よりよほど力のない声に後ろ髪を引かれながら、とめどない不安を断ち切るようにして強くベランダの手すりを踏み込んだ。
「ふっ……」
俺の私室はカイン邸のかなり上階に位置している。そのまま庭へ飛び降りるにはかなりリスキーな高さだが、階下のバルコニーをそれぞれ順繰りに伝い降りて行けば身一つでのショートカットも不可能ではない。上りも然りだ。身体能力に相当な自信がある人間に限って許される荒業ではあるが、正面玄関から広い邸内を歩いて部屋を訪ね歩くより、よほど早く目的地にたどり着くことができる。恐らくはボックスも、手早さを考えて外から訪ねてきたのだろう。ふと床を見やれば、あちらこちらに血だまりが残っているのが見える。
(早く戻ってやらないと)
俄かな焦りを覚えながら、整えられた芝生に着地して足音を殺した。慌てている時ほど妙に頭が冷えていくのは生まれ持っての性なんだろう。常々カインが口にする支配者の器についてはあえて深く考えないようにしているが、戦い、ないし殺し合いのフィールドにおいてこうも勝手に意識が洗練されて行くのはまごうこと無き才なのだろうという自覚はあった。嫌な才だ。しかし何かを守ろうと思うとき、これ以上なく頼もしい才でもある。
「……、はー……」
よく育った太い木の幹に身を寄せて、目を閉じ深く息を吐く。神経を研ぎ澄ませて侵入者の気配を追うと、遠くで電子的な機械音が鳴るのが聞こえてきた。
「ええ、――、そのままカインの別邸に――」
(あいつらか)
強者の住処にたった数人で押し寄せる勇気はなかったのだろう。恐らくは応援を呼んでいるのであろう男たちを目を細めて観察する。屋敷の門に近い場所に三人だ。見る限りナイフは手にしているが銃の類は持っていない。懐にしまってあるとして、構えて撃つまでには数秒の余裕がある。
(いける)
脳が下した判断に、今度は足が即座に動いた。できる限り足音を殺し、闇から躍り出る寸前で踵に強く力を籠める。ここにいるぞ、と獣の存在を相手に知らしめるのは一見にして悪手に見えるだろう。しかし唐突な物音と言うのはいつでも人に多少の隙を生むものだ。その一瞬の隙で全てに決着を付けられるのならば、問題はない。
「なんッ……」
「燃えろッ!」
出力の加減を一切しない紫焔が、携帯電話を構えていた男を吹き飛ばした。鉄の門へ磔にされた男を気にすることもなく、他の二人がこちらを見据える。
「貴様ッ、何を……ッ」
「こっちの台詞だっつーの! 不法侵入だ、ボスに会いたきゃアポ取ってこいよ!」
ナイフを先に構えた方に容赦のない蹴りを、後から襲いかかってきた丸腰の輩にひじ打ちを見舞う。鳩尾を狙いすました一撃はどちらも綺麗に決まり、さして苦労なく男たちの動きは止まってしまった。改めて見下ろすといずれの着衣も随分乱れている。ボックスがここに辿り着くまでの間に、既に何度かダメージを与えていたのだろう。
「はぁ……、ったく……。どうすっかな、これ……」
「そうだね。縛って路地裏にでも捨てておこうか」
「……!」
寝起きで突き動かされた身体は、少しの運動でいつになく疲れている。乱れる呼吸を制しながら思わず独り言ちていると、不意に後ろから穏やかな低音が返事を寄越した。
「カイン! あんたな……ボスが易々と外出てくるなよ」
「ふふ、もっともな意見ではあるが。この真夜中に突然君の炎が溢れる気配がしたとあってはじっとしてもいられまい。力の監督者として駆けつけるのは当然の責務だ。……なにがあった?」
薄闇からぬらりと現れた美しい男は、軽快に言葉を紡ぎながらも訝し気にチンピラたちを睨んでいた。気品と同時に底知れぬ威圧感を纏うカインは、その一瞥を茨のようにして男たちを地面に縫い留めてしまう。改めて恐ろしい男だ。これがもし、優しさの人かけらもない鬼のような性格をしていたのなら、この穏やかな潮風は今頃物騒な嵐となっていたことだろう。
「俺も詳しくはわかんねぇ。ただ、ボックスに頼まれたんだ」
「……ボックスに? 戻っているのか」
「俺の部屋まで外から上がってきたんだよ。あいつ、多分怪我してて……振り切れなかったやつら、代わりにぶちのめしてきてくれって」
「ほう……珍しい、しくじったのか。事情はわかった、ボックスを追ってきたというならあれの素性も見当はつく。ロック君はボックスの様子を見てきてくれ、ここの後始末は私が引き受けよう」
カインの革靴がこつんと煉瓦を踏みしめると、男たちは弾かれたようにそれぞれ立ち上がってどうにか逃げ延びようと背を向ける。その後ろ姿をまさか見送るだけのカイン・R・ハインラインではない。指を弾くような最低限の仕草で繰り出された紫焔は瞬く間に薄闇を切り裂いていった。まるで矢のように鋭く飛んだ炎は男たちの背に突き刺さり、その動きを今度こそ完全に封じてしまう。カインの炎をまともに食らえば、もう立ち上がることすら難しいだろう。
「俺、組織のことよくわかんねぇけど。こういう掃除みたいなことって、ボスに任せていいことなのか?」
「この深夜に可愛い部下を働かせたんだ、相応の対価は支払ってもらわねば。一応は堅気の君に見せる景色でもないからな。行きなさい」
少しの無駄話は許されると踏んで、カツカツと歩き出したカインの背に今更の疑問を投げかける。自らと瓜二つの金糸を靡かせた青年は、うっすらと笑みを孕んだ口調で柔らかく俺の背を押してくれた。
「……、任せた。気を付けろよ、アンタはこの組織のボスで、セカンドサウスの現王だ」
わかっている、と言いたげに皮手袋を嵌めた手がひらひらと空を踊る。ややあって木霊し始めた鈍い暴力の音を聞きながら、俺は慌てて自室への道を駆け戻った。
◇◇◇
来た道を戻る。つまりは外壁をよじ登って自室へたどり着くと、ボックスは先ほどと変わらずバルコニーでじっと蹲っていた。先ほどより体勢は低く、ほとんど頽れていると言ってもいい。
「おい、ボックス!」
「……。……、ん……」
「おい……、おいって、しっかりしろ!」
「……あぁ……ロック……? あいつら、どう……?終わった……?」
肩を揺すって返事がない。顔を上げさせて頬を叩くと、ぼんやりと濁った薄緑が面倒そうにこちらを見上げた。先ほどよりよほど声に生気がなくなっている。寝起きの運動で上がっていた体温が、ぞっと急激に冷えていくのを感じた。
「安心しろ。言われた通り殴り飛ばして来たぜ、三人。カインがあとやるっていうから、任せてきたけど……」
「はは、結局出てきちゃったの。困ったボスだな……、何のためにおれが正面避けてこっち来たと思ってんだか……」
「ひょいひょい出てきちまうのは俺もどうかと思うけど。ここで一番強いのはカインだし。あっちの心配のまえにこっちの心配じゃねぇか。お前怪我してるつってただろ。手当てしよう。動けるか?」
「……手当、できるかな。どっちかっていうと医者に電話っていうか、あんま見ないほうが、いいかも」
「……は?」
動揺を押し殺しながら、蹲っている身体に寄り添う。背を撫でるよに支えてやってはじめて、ボックスは僅かに身じろぐような仕草を見せた。腹を押さえつけている腕が、月明かりの下に露になる。同時に、ぼたぼたッと重い水音が暗闇にやたらと大きく木霊した。
「……ッ」
見ないほうがいい、という言葉の意味はすぐに理解することができた。褐色の腕はすっかり赤に染まり切っていて、指の間からパイプのような金属が覗いている。腹に何かが突き刺さっているらしい。地面には他のバルコニーで見たよりずっと深い血だまりができていた。怪我、という言葉で片を付けるには余りに凄惨な光景だ。思わず喉が引き攣れて、血の気が引いていくのを感じる。眩暈がしそうなほど身体が冷えていた。一つも怪我をしていないのに、目の前の男よりよほど血色の悪い顔をしている自信がある。
「馬鹿野郎、これ、どう考えてもお前が先だったろ!」
「あはは、声、でか……。いや、これくらいじゃ死なねーって、大丈夫」
「大丈夫なわけあるか、人は簡単に死ぬんだぞ!」
真っ白になりそうな頭を、瞬間的に抱いた怒りでどうにかこうにか現実に引き戻した。しかし頭は上手く回っていない。動揺のまま思わずあがりかけた手を、既のところでひっこめる。言い合いをしている場合でも、説教をしている場合でもないのだ。ボックスの言う通り、この怪我の規模では手当てより先に医者を呼ぶべきだろう。言いたいことを全て呑み込んで、拳を握りしめながら室内に戻る。
彼らはマフィアだ。間違っても表社会の医者にはかかることができないが、代わりに信頼のおける闇医者と関りを持っている。幸いにして、俺はカインの屋敷に出入りする闇医者の連絡先を知っていた。グラントの晩年、彼を心配してやまなかったカインから、「もし俺のいない間に彼に何かあったら、連絡を入れてやってほしい」と頼まれて連絡先を貰ったからだ。
(大丈夫、あの頃とは違う。できる事が、もっとある)
脳裏に過るのは、どんどんと弱っていく母の手を握りしめていた幼子の頃の記憶だ。大丈夫だからね、と繰り返していた母はやがて喋らなくなり、ついには呼吸の音さえ聞こえなくなってしまった。結果として彼女は生き永らえていたのだが、小さな手で直接触れた死の感覚をなかったことにはできない。包み込んだ指先がどんどんと冷えていくあの恐ろしい記憶は、何をしたって俺の中から消えやしないのだ。
「ッ、くそ」
手が震えてうまく動かない。助けてと願って、それが叶わなかったらどうすればいい? 幼い自分が怯えている。冷えた父の目が蘇るようだった。全てが無駄に終わって、無力なうちにまた大切な者が失われてしまったら今度こそ俺はどうしようもない。
たった数個のボタンを押すことがひどく難しいなどと、どこまでも愚かな自分に腹が立ってしかたがなかった。扱いなれているはずの携帯電話を苛立ちながら弄るうちに、いつしか頭がどんどんと白けて訳が分からなくなっていく。
そこから先、俺が自分で何をしたか、どれだけ頭を捻っても思い出すことはできなかった。
◇◇◇
「……君。……、ロック君」
「……ッ、あ……? ……カイン?」
名を呼ばれてはっとする。視界いっぱいに映るのは、珍しく不安そうな顔をしているカインの顔だった。思わず名を呼ぶと、困ったように下がっていた叔父の眉毛がほっとしたように緩む。
「ああ……戻ったね……。一度身体を洗っておいで、そのままでは休まるものも休まらないだろう」
「手……?」
言われて視線を降ろす。寝間着のままの身体は、あちらこちらが血に濡れていた。それが誰のものなのかを思い出すのに数秒かかり、記憶が繋がるや否や大声が止まらなくなった。
「あ……、いつ、ボックス、ボックスは? どう、したんだっけ、俺、おれ……!」
「落ち着け、大丈夫だ。君が医者を呼んでくれたから、今診てもらっている。流石の俺も目を見張ったが、あれで内臓のほとんどが無事だというから頑丈な奴だよ。師匠に似たな、肝を冷やさせるところも含めてだが」
「……、たすかる、ってこと」
「ああ、心配はいらないよ。俺が上に戻った時には、意識のないボックスを抱えて君が止血をしていたんだが……その様子では記憶が飛んでいるね?」
「……わ、かんない。思い出せるの、医者に電話しようとしたことだけだ。そこから、何も……」
単なる会話がたどたどしい。混乱を引きずって上手く話せない俺を、カインは気遣うように抱き寄せてくれた。血が移る、と思ったが、心配を分ける余裕がない。
(心臓、の……音が、する……)
規則的に脈打つカインの心音が、やたらとくっきり聞こえてくる。力強い鼓動になんだかひどく安心してしまったと同時、面白いように足から力が抜けてしまった。唐突に頽れた俺を咄嗟に支えたカインが、再び心配そうに眉を潜めている。
「お、ッ……っと……。どうした? しっかりしたまえ……」
「ごめん、だい、じょうぶ、……だいじょうぶ、だか、ら」
まだ、どこか意識が浮ついている感覚があった。胸の奥には沢山の感情が渦巻いているはずなのに、自分が何を思って、何を考えているかを冷静に客観視することができない。
(あ、れ? 息、って、どう、するんだっけ)
混乱が広がっている。無意識にできるはずの呼吸さえうまくいかなくなってきて、息苦しさに胸を押さえた。異変に気付いたカインがぐっと身体を抱き寄せてくれても、息を吸って吐くなんていうただそれだけのことができない。
「は……ッ……ぁ、ッ、はぁッ、っぅ、っく……ッ」
「ロック君、落ち着きなさい。一度息を止めるんだ、吸い過ぎている」
「ッ、っく、ふ、はっ……、はぁッ……っ、えほッ、ぐ、っぅ、くる、しい、カイン……ッ、おれ……ッ」
「大丈夫だ。……怖かったね、もう平気だ。……だいじょうぶだよロック」
耳元に注がれるカインの声音が変わる。呼び捨てられる名前は親愛の証だ。背に沿う手も、抱えてくれている体温も、何もかもが優しさに満ちている。ギースの野望を継ぐと言って、冷酷極まりなく敵対組織を潰していく男がこうも暖かな真似もできるなど、一体誰が思うだろう。
カインはわざとらしい呼吸の音をゆっくりと俺に聞かせてくれた。すう、はぁ、と繰り返される穏やかなそれを真似ているうちに、徐々に身体が落ち着いていく。血なまぐさい、と、周りの香りに意識が向くほど余裕が出るのにもそう時間はかからなかった。
「は……っぁ……、っ……、ふ……ぅ」
「落ち着いて来たか?」
「う、ん……。ごめん……」
「謝ることじゃない。貰えるのなら感謝がいいかな」
「……、ふふ……、じゃあ、ありがとう……」
「どういたしまして。やはり、血の匂いがそのままでいるのはよくないな。億劫だろうが洗おう、連れて行ってやるから、辛抱してくれ」
抱き留められていた身体が、そのままふわりと宙に浮いた。あまりにも軽々しく抱え上げられることに、あまり悔しさは感じない。むしろ穏やかな安堵が勝って、こちらから重く体重を圧しかける。
絡まっていた思考は、先ほどより幾分マシになってきている。ボックスの怪我を見て、それから自分がどうしたのかの記憶は相も変わらず曖昧だったが、カインが口にした「怖かった」という一言が感情を整理してくれていた。
「……すげー、怖かった。ひとが、死んでいくときって……静かだろ。前触れなんてほとんどない。どんどん冷えてく、ただ、それだけ。あいつもそうなるのかなって思ったら、何も考えられなくなった」
「……」
「母さんが死んだと思った時、俺、最期まで手を握ってたんだ。あんなにあったかかった手が氷みたいになってくのを、ずっと触って、だから覚えてる。……哀しいより、苦しいより、ただひたすら怖かった。……あんたもそうだったの?」
「俺……?」
「怖かったって、言ってくれたろ。わかるってことは、知ってるんじゃないかと思ったんだ。……グラントの最期を見送ったのは、あんただったから……」
「ふ……」
薄ら笑いの声音に視線を上げる。カインは長い金糸の向こうで、遠いどこかを眺めていた。その先には、逝った彼の親友がいるんだろう。
「大切と思う人間の終わりは、誰しも怖いさ。強者であろうと、なかろうと。その甘ささえも殺すことができたのなら、いよいよ阿修羅か鬼神になれるんだろうが……どうも私には難しい。アベルのことも、何も心配しなくていいと穏やかに送ってやるつもりだったのに、結局恰好はつけられなかった」
「半身、だったんだもんな」
「ああ。その半身を継いだあいつが血濡れて戻った、と言うのは随分効いたよ。君ほどではなくとも動揺はしている。同じだな」
口角を緩めたカインが、ゆっくりと俺を見降ろした。瞳は笑っているけれど、その表情には寂寥が満ちている。
母のために力を貸せ、と。カインが現れたその時、俺は自らの力に戸惑いながらも、テリーと過ごす穏やかな生活に満足をしていた。だからこそ、半ば強引に俺を連れ出したこの男をかなり恨んでいる節があったのだ。ようやく忘れかけていた宿命や因果をわざわざ引きずり出す厄介者だ、と。
しかし誤算があった。カイン・R・ハインラインと言う男は、思うほど冷徹一辺倒の男ではないのである。裏社会で力を振るう彼に遠慮は無論ないけれど、憎しみをぶつけるには妙に人間らしいのだ。阿修羅か鬼神に向いていないと自嘲していたその言葉通り、ギースを引き合いに支配者云々の説教をしておきながら、彼自身はあの男よりよほど甘く、柔らかな心をしているように思う。
俺を取り巻く大人たちは、口を揃えて皆がこう言う。「ロックはなんだか放っておけない」と。頼りなさを指摘されているようでどうにもむずがゆい言葉だったが、カインを見ているとあながち悪いものではないような気もする。この男のことは、どこか放っておくことができない。けれどその気持ちの根底にあるのは決して弱さなどではない。ただ、人らしくある彼に、ほんの少し幸せでいてほしいと思ってしまう。あの言葉はきっと、慈愛に満ちた祝福か祈りの類だった。
「怪我、ちゃんと治ったら、あいつのこと叱る?」
「勿論、こっぴどく」
「俺も呼んで」
「是非ともそうしよう」
「……今日はさ、ずっと一緒にいようよ、カイン……。お互い、怖い思いをしたんだから……ひとりになるのは、良くないと思うんだ」
「ふ……っ。そうだね。私たちは名実ともに血の繋がった家族であるのだし、意地を張る必要もない」
俺を抱えたカインの手が、優しく触れた肌を叩いてくれる。一人ではない、と、ただそれだけで深い安寧を覚える己の単純さを笑って、俺はそのまま目を閉じてしまった。
◇◇◇
「う……」
腹が痛い。悪いものを食べた時とはまた違う、もっと外傷的な痛さだ。自分の呻き声と痛みに意識を叩かれて瞼を上げると、よく知る自室の天井が目に入る。
(……あれ、俺、どうしたんだっけ。情報抜いたはいいけど警備にひっかかって、ちょっと逃げるのしくじって、飛び降りたとこにどえらい柵があったから……。あ、そーだ、それが刺さったんだ。だから腹がいてーのか)
記憶を順繰りに追っていき、理解が追い付いたところで身体に力を入れる。刺すような痛みに喉を鳴らしながらも、無理に上体を起こし切れば案の定身体は包帯塗れだった。
「あー。これは叱られる」
「ほう、誰にかな」
「あぇッ」
独り言のつもりで零したため息交じりの一言に、思わぬ返事が戻って素っ頓狂な悲鳴を上げる。手負いとはいえ人の気配に気づかないなんてどうかしている。しかしこの声の主を疑う心が微塵もないのだから、仕方がないだろうなんて言い訳も浮かんだ。恐る恐るあたりを見回せば、美しい男は少し離れたソファに悠然と腰を下ろしている。
「カイン……」
名を呼ぶと、男は僅かに微笑んだまま唇へ一本指を当てた。静かに、という命に首を傾げると、彼の膝の上にもう一つ人影があるのを見つける。ロックだ。じっと目を閉じた寝顔はカインに負けず劣らず美しく、まるで人形のように見える。
「小一時間前にようやく眠った、どうか起こしてくれるなよ。眠れなかったのが誰のせいかはわかるだろうな?」
ロックを慮った小声の会話に眉を潜める。目を凝らして眺めると、青年の顔には色濃い疲労の後があった。あれから俺がどれくらい意識を飛ばしていたかは定かでないが、この顔は一晩の疲れではないだろう。信じられないほど人のいい青年だ。もしかすると寝ずに看病をしてくれていたのかもしれない。
「……俺。ついでで悪いけど、そのほかも一気に謝ってもいい?」
「ほう? 何についての謝罪かね」
「まず潜入にしくじったことでしょ。追われて屋敷に侵入を許したこと、一番はちょっと死にかけたこと」
「ふ……。それだけ反省しているならいい、と言いたいところだが、ロック君はご立腹だぞ。元気が戻ったら覚悟したまえ」
「うぇ……説教二倍かよ……。アンタに叱られんのはまだいいけど、ロックはなぁ……。苦しそうに怒るから苦手、わかる?」
穏やかな笑みが返ってきた。頷きも何もなかったが、あの顔は大方肯定だろう。
「あまり心配をかけるなよ。私に二度も影を見送れとは言うまい」
「うん……、ごめん……。言い訳するけど、全部道連れにして死ぬって選択肢もあった。それを選ばないでこっちに戻ってきたのは、ちゃんと助かろうって思ってやったこと、です」
「わかっているとも。それでいい。良く戻ってきた」
繊細なグラスを扱うのと同じ手つきで、カインはそうっと膝の上に乗るロックの頭をソファへ降ろした。自分が立ち上がってなお、ロックの呼気が寝息のまま乱れないのを確認してから潜めた足音がそろりそろりとこちらへ歩み寄ってくる。俺の頭に乗った掌は、ロックを扱うのとは打って変わって乱雑にスキンヘッドを撫でつけていった。
「どれくらい寝てた?」
「三日。傷は深いが臓器は無事だ、手術も済んでいる。塞がれば問題ないそうだよ、お前の体力なら一週間もせずに動けるようになるだろう」
「……ロックはずっとここに居るの?」
「お前が彼の部屋の窓を壊してしまったからな」
「あー……、そういえば……」
「冗談だ。息をしているかどうか見ていないと気が済まない、と言ってずっとこの部屋に籠っている」
「……、息を、ね」
気を失う前の記憶には、真っ青な顔で唇を噛みしめるロックの顔が残っている。あれは、怯えている表情だった。薄れていく意識の中で、「死ぬな」と繰り返す掠れた声を何度も聞いたのは、決して気のせいではないだろう。
(メアリー様は生きている。けれどロックは、彼女が死んだと思ってこの十数年を生きてきたって言ってたっけ。目の前で死んでいく母さんをどうにもできなかった、って聞いた。つまり一度は仮死状態に陥っていたはずで、……ロックは、人がどうやって死んでいくかを知ってるんだ)
大丈夫だと空元気で押し出した言葉を、ロックは思い切り否定した。人は簡単に死ぬのだと、悲鳴のような叫びを口にしながら。唯一の肉親を幼い手の中で見送るという経験がどんな地獄であるかの想像はつかない。だが彼の取り乱し方を見れば、その地獄が刻んだ傷の深さを慮ることができた。
「……ロックに言ったら怒られそうだから、アンタに言うけど」
「ん?」
「俺の怪我見て、ロックがあんな怒ってくれるの、正直嬉しかったんだ。スラムの片隅で誰に思われることなく死んでいくはずだった俺が、こんなに心をかき乱せるんだと思って。駒から人になれた満足が勝って、本当に嬉しかった」
「……はぁ」
深々とした大仰なため息が木霊して、頭を撫でていた手が止まる。優しかった手は文字通り掌を返して、今度は俺の額を思い切り強くつま弾いていった。
「あいでっ」
「殉教者からその台詞を聞くのは二度目だ」
「え?」
「だから同じ台詞を返してやろう。……そんな馬鹿げた安心をするなら、お前が死ぬときは絶対泣いてなんてやらない」
「……グラントも、俺と同じこと言ったの?」
「ずっと昔にな。初めて死にかけた夜に言われた。お前はつくづく師匠に似ているよ。……威勢よく叱った割に、結局耐えられなかったから。あいつは、私の泣き顔を満足そうに見つめて死んでいったがね。まったく腹立たしいことに」
肩を竦めるカインに、なんと答えるべきか言葉を探して視線を迷わせる。同じ台詞を吐いたのだ、グラントの気持ちは当然痛いほどよくわかる。駒でしかなかった己が誰かの宝物になれるだなんて、底なしの地獄で足掻いて来た子供にとってこんなに嬉しいことは本当にないのだ。しかし半身を無くしたカインの憔悴もずっと間近で見守ってきた。遺される痛みだってよくわかる。どちらの心も理解できるが故に、続く言葉がいつまでたっても見つからない。
「ふふ、そう難しい顔をしないでもいい。私だって、アベルの言いたかったことはわかっているとも。だが、せっかく愛を感じてくれると言うのなら、せめて生きて受け取ってほしい。……人に【なる】ことに夢を見るのは終いにすることだ。お前はもう十二分に人であって、数多の愛情の中に生かされているのだから」
「うん……」
「人として、【生きている】ことに安堵しろ。……聡いお前だ、わかるね?」
深く頷くと、カインは微笑んだまま柔く俺を抱きしめてくれる。花のように爽やかな、品のある香りが鼻腔を擽っていった。
「休もうか。その体で起きているのもつらいだろう。痛みは? 眠れないのならいくらか薬を預かっているが」
「飲む。まぁまぁ痛い」
「ふ……、では水を。分かっているとは思うが、大人しく待っていろよ」
「うい」
軽やかに返事を崩すと、カインはやれやれと頭を振って静かに部屋から出ていった。足音が離れていくのを聞きながら、そっとベッドを抜け出してみる。
「うぐ……」
当然、腹はすこぶる痛んだ。しかし包帯は真っ白いままで、血が滲む素振りはない。たった数歩、ロックの元へ行くくらいならば、大丈夫だろう。
「……ロック。ごめんね」
じっと目を閉じた青年は、頬に触れても微動だにせず夢の中に沈み続けている。
「でも嬉しかったのは、ほんと。俺、アンタの大切でいれて嬉しい」
腹に傷があると、屈むのにも一苦労だ。奥歯を噛みしめながら痛みに耐えて、あどけなさの強く残る頬へそうっと口づけを落としてやる。意識のある彼には、こう簡単に胸中を吐露することなどできまい。しかし、伝えずに仕舞っておく心でもないような気がしてならなかった。
「い、てて」
動いた、と、カインにバレる前に戻らなくてはならない。柔い肌にずっと触れていたい気持ちをぐっと堪えて、そそくさと立ち上がりベッドへ戻る。
「おやすみ」
離れた場所から送るありきたりな挨拶には、変わらない寝息が返事を寄越してくれる。静かな部屋に響く穏やかな呼気は、眠気を誘う子守歌のようだった。