信ずるは光他者には常に警戒心を持って近づくべきである。それが見るからの悪人であれ、思わず縋りたくなってしまうような善人であれ。例え腹を割った相手がいたとしても、裏切りの想定は必ず持っておかなくてはならない。これは俺が幼いころから守ってきた、人生における鉄則のようなものだった。
要は、簡単に人を信頼するなと言う話である。スラムで生まれ育った者ならば、誰もが身に付けるであろう普遍的な考えだ。貧しく飢えた弱者達は常に死と向き合っている。明日の生を得るために他を蹴り落とすなど日常茶飯事の出来事で、そこに良心の呵責が芽生えることはそうそうない。善意の施しが平然と仇となって戻る世界だった。雀の涙ほどの優しさがあったとしても潰えるだけ。慈しむ心は美しさを称賛される前に、馳走のように食いつぶされてしまう。この薄汚い世界でも生きていきたいと思うのなら、優しさは捨てるべきだ、なんて、冷酷な選択をした日の記憶は遠く昔だ。曖昧ですらある。
だというのに、虚しさばかりが鮮明だった。心を手放すと決めたあの瞬間。ぞっとするように背筋が冷えたあの感覚だけが、ずっと頭にこびりついている。これがずっと、不思議だった。
「……カイン、これどうしたらいいの」
「ふふ」
「笑ってないでさ……」
本気の困惑に戻ってくるのは軽やかな笑い声。眉を下げても、バックミラー越しにこちらを眺める紅眼は悠然とした笑みを変えることはない。不満を訴えるべく唇を尖らせると、楽し気な笑い声は一層大きく車内に響き渡った。困惑のまま目線を下げれば、ずっしりと肩に寄りかかっている青年の姿が目に入る。俺に体重をかけて寝入っているロックは、車の揺れもカインの笑い声もまるで意に介さずに、憎たらしいくらいの穏やかな寝息を立てていた。
とうに日付の変わった夜更け。俺とカインとロックは、思いのほか長引いたチンピラとの喧嘩をようやく片づけて、サウスタウンを車で駆け戻っているところだった。
真夜中と言って、ネオンの輝きが静寂を追い払う宵町は騒がしい。人通りもそれなりで、こうした賑やかな夜には決まって警察の検問が増える。この時間に面倒はごめんだ、と笑ったカインが運転席を強奪していったので、今日の俺は珍しく後部座席から流れゆく光の筋を眺めることになった。カインも無免許という条件は変わらないのだが、セカンドサウスの狂犬に真正面から法を突き付けることができるほど気概のある警官は少ない。要は圧で面倒を避ける力技である。
後部座席に座るとなると、当然隣人はロックだ。俺たち二人の不誠実を知る青年は「くれぐれも安全運転で頼むぜ」と相変わらずの念押しを口にしながら、いつものように微妙な面持ちでシートベルトを握りしめていたはずである。それがふと目を離した隙に、どういうわけか寝入ってしまったようなのだ。ずるずると雪崩れてきた身体を、思わず声を上げて受け止めてから今に至るまで、カインは延々と楽しそうに、俺は延々と困っている。
「安全運転の証だろう。ボックス、見習ってくれていいぞ」
「え~……、寝る運転じゃないと思うけどな。だってカイン、ロックに『超』気を使ってこれでしょ? グラントが言ってたよ、あいつにハンドルを握らせるなら廃車にしたい車を渡せって」
「レースを楽しみたいならそう言え。五秒待ってアクセルを踏む、舌を噛むなよ。ごー……」
無邪気だったボスの笑顔が、悪戯小僧のそれに変わった。カインが本気を出した運転は、グラントの言葉通り相当に荒い。何度か味わったことがあるが、一種エンターテイメントの類である。追手のいないカーチェイスのようなものだ、あれほどまで遠心力に振り回される経験は人生でそうあるものではない。
「待って、俺が悪い、ゴメンナサイ。さっきのは聞かなかったことにするから許して?」
「冗談だよ、お前はいくらでも耐えるだろうがロック君はそういくまい。彼の説教は検問よりよっぽど正論だが、如何せん長引く」
「そうそう、せっかくすやすや寝てるんだし。……あれ? 俺一人だったら返事に関わらず本気出されてたってこと?」
「ふふ、さてな」
咄嗟の撤回が功を奏し、夜道を行く車内は一応の静寂を保つ。裏社会で名を馳せる強者にしては気安い茶目っ気に苦笑とため息を零しながら、身じろぎ一つせず肩に寄りかかったままの青年をもう一度眺めた。誰もが美しいと言葉を揃えるであろう整った顔立ちは、夜の影を受けてなお陰ることなく神聖さを湛えている。
「……よく寝てる。今日の喧嘩そんなに重かったかな」
「疲れと言うより時間だろう。普段の彼ならとっくに寝ている頃合いだからな」
「まぁ、確かに。でもだからってこんな無防備になる?」
主の言い分には一理ある。ロックの生活リズムは、生真面目な性格を反映して絵に描いたように健全だ。明け方に起き出して鍛錬をし、そのまま家事をこなして朝を終える。活動の始まりが早い分、一日の終わりもまた早い。日付を超すころに戻ると、「おかえり」の声は聞こえてこないことが多かった。夜が更けている、というのは単純明快かつもっともらしい理由である。
だが、納得がいくかというとそうではなかった。ロックはあれでいて警戒心が高い。当人はその身に流れる血を果て無く忌み嫌っているが、自分がただの子どもではないという理解がきちんとあるのだと思う。自身が手にする力に利用価値があることも然り、もしかすると俺が思うより、狙われるような経験が多いのかもしれない。故によくよく彼を観察していると、気を抜いている瞬間と言うのを見るのは稀だった。いや、正確に言えば、常に「気を抜いているように」見えるのに、そうではないのだ。よく周りを観察し、視線や気配にも鋭敏で、人とあまり近い距離に寄りたがらない。俺が差し向けた密やかな殺意に気が付いたのも、そうした警戒があってこそのことだろう。
「信頼、とは思わないのか?」
車が荒く、がたんと揺れた。ずり落ちそうになるロックの頭をそっと支えて元に戻してやると、カインは乱雑にハンドルを回しながら続ける。
「昔話になるが、幼い頃は私もスラムの路地で寝起きをしていた。殺気に満ちた街の寝心地の悪さは知っているだろう?」
「そりゃあ勿論、よく知ってるけど。……アンタは苦労しただろうな、そんなに綺麗な顔してたらさ。メアリー様もいたんでしょ」
「ああ。だから夜に眠れた試しなど一度だってなかったよ。野良猫の泣き声にすら飛び起きて喉を鳴らすような、どちらが獣かわからん日々を長く過ごした。だがその甲斐あって姉上は夜毎きちんと夢を見れていた……と、思う。彼女の寝顔はいつだって穏やかだった」
「……こんな感じの?」
「ああ。見間違えそうになるくらいに似ているよ」
肩に乗る青年を指さすと、カインは目を細めて緩やかに頷いた。カインとメアリーも大概よく似た姉弟であるが、メアリーとロックもまたよく似ている。一目見て血を感じさせる気品を湛えた美しさは、並んでいると眩しく感じることさえあった。
「私がいるから安心できる、というのは彼女の口癖でね。子供らしく褒め言葉の一つがいたく嬉しくて、どれだけでも守ろうと奮起したものだ。だが同時に、こんなちっぽけな護衛で恐怖心の全てが薄れるわけもないと思っていた。環境もあるだろうが、私は身体の発育が遅くてね。幼少の砌は華奢も華奢であったから」
遠き日に向けて吐き出されたため息には、山より高い苦労の数々が滲んでいる。スラムにおいて最も弱いのは無知で無力な女子供だ。加えて目につくほど美しく、か細くて頼りないとくれば、降りかかった悪意の多さは想像に容易い。
「そのうち、姉上はギースと関係を持った。サウスタウンを制覇せんとする強者の女になったんだ。それなりの警備がつくようになって、屋根のある塒が用意されて……ひどく安堵したのを覚えているよ」
「それは心強いね。最強と言って相違ない護衛がついたと」
「ああ。いくら喧嘩の腕があったとしても子供は子供。私一人に守られるより、家があって、人目があって、加護のある状況の方がよほど安心できるはずだろう? ドン・パパスから裏社会への切符を貰ったのも丁度その頃合だった。私は彼女と離れることが多くなって……、けれど、きっと私と二人きりでいるよりも、ずっといい夢が見られていると思っていたんだがね」
「違ったの?」
困ったように眦を下ろしたカインは、年若い頃の姉を鮮明に思い描いているのだろう。メアリーはロックの母らしく和やかで優しい女性ではあるが、一方で帝王の妻らしく凛と頑なで破天荒な一面も持ち合わせている。弟であるカインがよく見ていた姉の顔は、恐らく後者に違いない
「時折顔を見せると、彼女は花の咲くように嬉しそうにして笑うんだ。一人ではうまく眠れないと言って、二、三日は家に引き留められるものだから、その度ボスへの言い訳をアベルに拵えてもらう羽目になった。あれこれ小細工をせずとも、ギースの名を出せば大抵話の片は付くんだが……一応体裁というところでな」
「……。グラント焦らせて遊んでたんじゃなくって?」
「ふふふ、まさか。適当なものが思いつかないと目力一つでどうにかしようとするのが面白かったなどとは言うまい」
「言ってるじゃん」
窓に流れるネオンが少なくなっていき、夜空の暗さが目立つようになる。遠くにぼんやりと浮かぶ、淡い松明の炎が愛しの我が家だ。ここからは直線が多い。アクセルを思い切り踏み込んだのだろう、身体にかかる重力が俄かに重くなるが、荒くれ運転に慣れた俺達二人の会話は焦りを知らず穏やかなままだった。
「冗談はさておき。それで初めて、姉上を寝かせていたのが力だけではなかったことを知った。私が強いか弱いかなど、本質的には関係がないことだったんだ。無防備を晒しても決して裏切ることがないだろうという信頼。それこそが彼女の安眠剤だった」
「……」
「よく考えれば分かること、ではあるのだがね。強さと言うのは裏を返すと畏怖にもなる」
「寝首を掻かれればひとたまりもない?」
「そうだ。前提に信頼がなければ安心などできるはずもない。我々のような――死が殊更身近にある人間は特にな。お前もそうだろうボックス? 屋敷に来て一年は寝顔など一度も見せなかったものな」
意地悪く笑う紅眼から逃れるように視線を逸らす。流石は裏社会の新たなる帝王として覇道を駆けている男だ、痛いところを突いてくる。
「そりゃあ、さぁ……。本気の襲撃を拳一つで台無しにされた挙句、そこそこ死にかけるまで殴られてから拾ってやるって言われたんだよ。困惑もするでしょ、疑いも当たり前じゃない? グラントあれでいて、修行以外では優しかったし。色々、夢かと思ってさ……」
「ふ……、責めていないさ。先も言ったが何事にも安堵できない夜を私とて痛いほど知っている。だからこそ無防備を見ると、喜ばしく思う。これは信頼の証だとね」
「……ロックのこれもそうってこと?」
「ああ。私と、お前に対する信頼だと。納得いかないか?」
長話にも一切反応しない、安らかな寝顔を再度見下ろす。信頼。そんな大層なものを寄せられるほどに、俺はこの青年に何か施してやれることがあっただろうか。
「そうかも……とは、思うけど。でも親類のアンタはさておいて、俺ってそんなに信頼できる? 揶揄ってばっかいるし、冗談とはいえ狼のこともダシに使うし」
「お前も大概天邪鬼だな。では逆はどうかね」
「逆?」
「ロック君は無暗に人に縋る性格をしていない。だからもたれてくるのが不思議なんだろう? だが私からすればお前も似たようなものだ。何故ロック君を押し返さない? 少し小突けば反対に倒れる。窓に預ければいい話では?」
「……」
本当に逃げ道を許さない男である。目を細めて手厳しさを責めると、ボスは誇ったような顔でさらに車の速度を上げた。がくん、と前に揺れるロックの身体を、俺が抱き留めることをわかってやっているんだろう。子供らしく穏やかな寝顔を、少しでも損ねないために。
「ボス」
「ふふふ。信頼しているんだろう? 底なしの人の良さを、理解ができないほどの温もりを。私もその口だ、利用しようと引っ張ってきて絆されてしまった。この子にはそういう器があるんだよ。人に埋まった慈愛を引き出す不可思議な引力が、ね」
気づけば屋敷は目と鼻の先だった。流石にスピードを落とした車は若干の静けさを取り戻して、海の音が遠くに聞こえる。寄せては返す、騒がしくも耳なじみのいい音。これを騒音とは思わない。裏社会では到底聞くことのない、生真面目なロックの小言も同じ様なものだった。喧しいが、そこにあっていい。それがあると無性に落ち着く。なるほど確かに、信頼しているのかもしれない。この男の傍に居る時は、まぁいいかと気が緩むことも多かった。それこそ年相応に友人を思いやることもできる。守ってやらないと、見ていてやらないと、なんていう上から目線の庇護欲は、かつて手放した、人らしくあるための何かが齎すお節介に他ならなかった。長らく胸に巣食っていた果てのない虚しさは、そういえばこのところ姿を見なくなっている。グラントとカインが、捨てた心を取り戻して埋めてくれたからだろう。加えて手のかかる兄貴分が、しおれた芽に分け隔てなく慈愛をくれるものだから、俺はすっかり人だった。ぞっとする感覚はもうない。信頼に対する恐れも、ほんの少し薄れている。グラントなら、カインなら、ロックなら。彼等ならよいのだ、裏切られることなどあるはずもないのだから。
「……、カインはさ、ロックが初めて飯作ってくれた時どう思った?」
「素直に驚いた。そんな技術を身に付けているとは思わなかったからな」
「俺もびっくりした。でも俺はロックにびっくりしたんじゃなくて、自分にびっくりしたんだよ。差し出された飯を、何も疑わずに食ってたから。三口くらい食ってはっとした。毒かどうか調べなかったなって」
「ふふ、まさか彼に限って」
「そう、そう思って、そのままなんも考えねーで全部食った。美味かった。けど未だに、外で買った飯は一回カラスかネズミに食わせるよ。そうしないのはロックの飯だけ。なんでかって言ったら、カインの言う通り、信頼してるから」
「ああ」
「逆も……ほんとは自信ある。ロックは俺がやった飯を疑って捨てたりなんてしないし、こうやって無防備も見せてくれる。信頼されてるんだって、証拠はいくらだって持ってるんだ。なのにわかんないふりをしたくなる。……信頼じゃなかったら怖いから」
「証拠があるのに?」
「証拠があるのに。ないのは自信だ。俺の中にある人の心はまだ拙いから、なにかを間違えて呆れられて、ロックがどっか行っちゃったらやだなと思う。だったらわかんないふりをして……知らないことにしておけば、なくしたことにも気づかずにすむかな、って」
「くく……ッ、思った以上に絆されている」
屋敷の開けたスペースに入り込んだ車は、ややあって動きを完全に止めた。このあたりにおいておく、というなんとなしの共通認識はあるが、駐車場らしい駐車場があるわけではないので車の位置は日々適当である。
「友というのもまた、そう理屈の必要なものではないと思うがな。お前とロック君は……どこか私とアベルに似ているような気がするよ」
喉を鳴らしたカインは、車から引き抜いた鍵をそのままこちらへ投げ寄越してくる。何のつもりかと聞くまでもなく、ボスはさっさと車を降りると屋敷に向かって歩き出してしまった。寝入った甥を起こすつもりは――いや、芽生えた友愛に戸惑う俺を、これ以上助けるつもりはないらしい。
「……はー……。……ロック? 起きて」
肩に寄りかかる男を抱き込むようにして、背を揺する。華奢ではないが、大柄の俺に比べると細い身体だ。広げた腕にすっぽりと収まる青年の姿は、寝顔の幼さも相まって到底年上とは思えない。
「ロックってば。もう屋敷だよ、部屋で寝るでしょ、起きて歩いて」
「んん……。……、何……」
何度か強く揺さぶると、ようやく長い睫が僅かに震えた。寝ぼけた返事が再び夢の中へ沈まない様に、続けざまに声をかける。
「何、って。だから、着いたってば。おーきーて。なんであの運転でこんなぐっすり寝れんのアンタ」
「……。寝たふり、つったらお前怒る?」
「……。……はぁ……?」
不明瞭だった返事が、不意に生気を帯びてはっきりと輪郭を取り戻した。呆気に取られているうちに、あれだけ頑なだった瞳がゆっくりと開いて弧を描く。悪戯な笑顔は、先ほどまでバックミラー越しに俺を揶揄っていた紅眼とそっくりだった。
「嘘は全然、ほんとなんも上手くできねぇけど。寝たふりだけは得意なんだよ。ガキのころ、同じように車から降りる時に、テリーに抱っこして運んでほしくてさ。でもバレると笑ってやってくんねーから」
「……どっから起きてたの?」
「お前が困り出したあたりから。うとうとして寄っかかったのはマジだけど、あの運転で寝れるわけねーだろ」
くすくすと喉を鳴らすロックは、しかし俺の腕の中から出て行こうとはしない。困り出したあたりと言うと、恐らくは最初も最初のほうだ。小難しく繰り返していた会話は全て聞かれていると思っていいだろう。すぐ隣にある気配が偽りであると気づかなかったなど、アサシンとしてどうかしている。いや、もしくは信頼が故の節穴であろうか。カインはどうだったのだろう。起きていると知って、話を続けていたのだろうか。
「肩ぶつかって、嫌がられたらどこうかなって思ったけど、好きにしてよさそうだったからそのまま寝てみた。デカい養父に育てられてるもんでさ、ガタイのいい奴によっかかると安心するんだよな」
「そーですか……」
「照れてる?」
「……」
「意地悪くても可愛げなくても、俺はお前のこと結構信頼してるぜボックス」
「……、顔が意地悪じゃなかったら嬉しかったんだけどなぁ」
「ふふ、ははは」
「起きたんなら降りてくれない?」
「ぐ~~~」
「はー……」
他愛のなさすぎるやり取りに肩の力が抜ける。今この時を過去の自分に見せたら、ボックス・リーパーはどんな顔をするんだろう。羨ましがるのか、軽蔑するのか、もしかすれば未来の希望と取ってくれたりするのだろうか。
「こういう甘え方できるんなら、普段からもうちょっと頼ってよ」
「それとこれとは話がちげーから」
「一緒でしょ、どこが違うの」
大きくため息を吐きながら、ロックを抱える腕を離した。そのまま外へ抜け出て行って、反対側のドアまで回る。
「ほら、手」
「なんだよ」
「お望み通り持ってってあげるつってんの。はーほんとに、手のかかるやつ~」
「ははは、いでっ、ばか、頭ぶつかってるってーの……もっと丁寧に……」
「寝言が多いね~ロック君」
「こんのやろ、上手いこと逆手にとりやがって……」
じたばたと暴れる青年を抱えて持ち上げる。それなりに重いが、苦になるほどではなかった。伝わってくる温もりに自然と口角が上がりそうになるのは、拙い心が満ちているからなのだろう。どうやら俺は、自分が思うよりずっと甘くて脆い人間らしい。柔い部分を捨ててぞっとしたのは、俺が俺である為に、その柔さが必要であったから。
罪を重ねた命だ。それが強いられたからの行為であったとしても手を下したのは俺自身。今更幸福ばかりを願うような真似はしない。根は善なのだと喚くことだってそうだ。けれどようやく理解した、俺らしい心は否定したくない。甘い男なのだ、俺は。例え裏社会にそぐわない性であっても、今度は捨てずに抱えおきたかった。
我儘は今なら叶えられるだろう。独りではない今ならば。
「俺が寝てたらロックが持ってってくれたりする?」
「引きずっていいなら」
「えぇ? 頑張って持ってよ」
他愛のない雑談の声は、波音に食われて消えていく。宵闇を照らす月の明かりがやたらと優しく見えたのは、一歩人らしさを取り戻した俺への祝福なのだと思いたかった。