最も災厄で災難な悪夢の1日ぐきゅるると腹が鳴る、しかし今の俺には食料を得る手段がない。
無慈悲にも貼られた張り紙を見て、一つ溜息をつく。
『臨時出張中、御用の方は後日お願いします』
ここは町外れの教会、いや正確には町外れという概念にある教会だ。
どの町の外れではなく、全ての町から外れた場所にあるのだ。
だから何処にでもあるし何処にでもない、だが決して人間はそれを疑問に思わないように認識阻害の魔術をかけている。
この教会の主が認めた人間のみいつでも訪れる事が出来る、そういう仕組みを過去に作らされたのだ。
いや、そんな事よりも飯の当てが無くなったことが何よりの問題なのだ。
家の食糧も気が付けば尽きていた、もう何日も食事を摂っていない気がする。
いくら食べなくても死なないとは言え、ずっと餓死状態で過ごすのは些か不愉快だ。
「……困った」
そうポツリと呟けば、後ろから足音が聞こえた。
兄弟かと思い振り返れば黒と茶色が目に入る、2人は明らかに人間だ。
なら、恐らく兄弟が「深淵の観測」に適した者と認めているのだろう。
「あっ、すみません。教会の人でしたか?」
「いや、俺は違う。因みに此処の主は留守のようだ」
すっと張り紙を見るように促せば、「本当だ」と言葉が溢れたのが聞こえた。
そしてふわりと美味しそうな香りが鼻腔を擽るのを感じる。
「…その袋は?」
「ああ、実はこの前此処の神父さんに料理を教わって、そのお礼にと作った物のお裾分けしに来たんです」
「居ないなら仕方ないだろ、適当にノブにでもかけておけばいい」
茶髪の青年はしくじったなぁと言った様子で手元の袋を掲げる。
その隣にいた黒髪の青年はぶっきらぼうに台詞を吐く。
兄弟は中身に反して基本的に人間に対して好意的過ぎる所がある、だから今回もその一環なのだろうと考える。
何か言葉を返すべきかと思考を回そうとしたらくぅと再び腹の虫が鳴り響く。
「………」
「えっと、このまま持って帰るのも置いていくのも悪くなっちゃいそうですから、食べますか?」
「良いのか?」
「ええ、勿論」
何故か隣の男が余計なお節介をと言いたげな顔をしているが行動しない辺り止めるつもりはないのだろう。
差し出された袋を受け取り、中を覗けば色とりどりの野菜が挟まれたサンドイッチがタッパーから窺える。
「あっ、変な物は入ってませんし味見もしたので問題はないと思います!」
「…そうか」
「奴が居ないならもう帰るぞ」
「ま、待ってよ!ではタッパーはそのまま貰っちゃって大丈夫なので!」
賑やかというべきなのか結局、お互い名前を知らぬまま去っていった2人を俺はじっと見つめていた。
「………これは、貢ぎ物とは呼べないだろうな」
面倒な事になったと思いつつもタッパーの蓋を開け、サンドイッチを一口齧る。
極端に美味いとは言えないが確かに、兄弟がいかにも人に教えそうな具材だなと納得する。
一つ、また一つと食べ、空になったタッパーを見て溜息を吐いた。
嗚呼、面倒臭い。
その日の夜、誰もが寝静まる時間帯に俺は虚空を歩く。
幾ら腹が減っていたとは言え、「貢ぎ物」ではない物を受け取ってしまった。
差し出された対価には代償を支払わなければならない。
面倒臭い事この上ないが、俺が俺である故に同等の価値を与えねばならない。
「だがまぁ、運が良いと言えば良いのか、あの人間達にとって不運と言えば良いのか」
「深淵の観測」の素質がある者は時折、俺達の目を惹き、そして手を引いてしまうのだ。
そして今日はたまたま、いや、もしかしたら縁があったのか、月の獣に目をつけられていた。
昼間に見たところ、現代人らしく武力による抵抗は不得手だと見たがどうやら当たりのようだ。
『こっちだ!早く!』
『あの白い怪物、此方を完全に狙っているようだね……』
彼らが居る空間、またその一段階外から様子を伺う。
あの月の獣は無類の拷問愛好者だ、きっと良い獲物だと思ったのだろう。
だが、これは時間の問題だろう。
程なくすれば2人は無惨にも生きたまま凡ゆる拷問にかけられ後に死ぬ。
普段なら態々助けるなんて面倒だし見捨てるが、今回はそうにもいかない。
一つため息をついた後、俺は飛び降りるようにその空間へと降り立った。
「このままだと見つかるな…」
「なら自分が囮になるからその隙に君が」
「お前が行ってどうする!なんかある訳でもないだろ!」
「でも……」
入りづらい、同系列ではないがこういう口論に口を挟むのが死ぬほど面倒臭い。
何故なら挟んで良かった例を見た事がない、面倒臭い。
もう少し入りやすい空気でも作れないだろうか、兄弟ならこの状況を手を叩いて喜んだかもしれないが共感は出来ない。
しかし、このままだと先に月の獣とのエンカウントが先になってしまう。その方がより面倒だと思ったので意を決して場に踏み込んだ。
「口論は他所でやってくれないか、正直俺は巻き込まれたくない」
「お前は昼間の…!?」
「えっ、なんでここに…?」
「……説明が面倒臭い、しなくても良いだろうか?」
「いやしろよ」
説明を求められてしまった面倒臭い。
こうして頭で考えて話すのすら面倒だと言うのに、とりあえず行動しながら説明した方が手短に済むだろうか?済むのだろう、俺はそう思う事にした。
「兎に角、黙って俺についてこい」
「信用できるのか?」
「死にたいのなら残れば良い」
「ねぇ、此処はこの人を信じてみて良いんじゃないかな?」
警戒心があるのは良い事なのだが茶髪の男はその真逆では?と思い始めた。俺の知ったことではないが。
とりあえず着いてきてくれそうな気配なのでそのまま進もう、面倒臭い。
だが、流石は獣と言うべきか、白い巨体は俺達を見つけ出してしまった。
「っ!?おいお前!何処へ行けば良いんだ!」
「面倒臭い」
「はぁ!?」
「面倒臭いと言ったんだ、対話で大人しく引いてくれるような奴じゃない」
「そりゃあもう分かって──」
すっと人差し指を月の獣に向ける、指差した訳じゃない、トドメを指すのだ。
魔術なんてお行儀の良い物を使うのも面倒だった、固体は液体に、液体は気体に、『私が私であるが故に』
「だから、殺した方がより面倒臭くない」
すると月の獣はまるで空気の入れ過ぎた風船の肉体が破裂して液体となって溶けた。
パァンと破裂したそれは白い皮膚と赤い血が波の様に足元に来たが大したことではない。
よし、邪魔者は居なくなったしこれで急かされずに済む。
「お前…あの神父と同類か?」
「…同じモノから生まれたというのが同類に値するなら確かに俺と彼は兄弟だ」
「えっと、助けてくれたんですよね?ありがとうございます」
茶髪の男は俺に感謝の言葉を述べ頭を下げ、黒髪の青年は未だに不信感を抱いてる状態、実に面倒臭い。
「善意で助けた訳じゃない、対価には代償を支払っただけだ」
「対価って…あっ、もしかしてあのサンドイッチ、ですか?」
「あぁ、アレが貢ぎ物なら見殺しにしていたんだが……」
「おい」
「贈り物ならば相当の対価を支払うのは当然だ」
神である以上、貢ぎ物は『あって当然』なのだ。
しかし、神ではなく個人の贈り物であるならそれは等価交換なのだ。
だから『それを受け取ったのであれば、同等の価値を返礼としなければならない』、神は崇められる存在ではあるが神との取引が成立したのであれば応えなければそれは神としてあってはならない行為なのだ。
…そんな事を言うつもりはないが、等価交換と言えば納得するだろう、多分。
「説明はした、帰り道に案内するから着いてこい」
「本当にあいつの兄弟か…?いや見た目は似てるけど」
「うーん、でも悪い人ではないのかも?」
「疑問符ついてるぞ」
後ろが騒がしいが、俺は気にしない事にした。
コツコツと歩いていけば一枚の扉に辿り着く、本来であれば正当な脱出の手順を踏むべきだが部屋の主人は既に殺した。
懐から銀色の鍵束を出して1つの鍵を鍵穴に嵌め込む、扉の先の情報接続を書き換え彼らの知る現実へとピントを合わせた。
これで問題はない、返すべき対価は……返した筈だ。これで対等だ、多分。
「扉を開ければ帰れる、それじゃあな」
もう話す事もないし、外へ出れば悪夢の出来事だと記憶も朧げになるだろう。
ああ面倒臭かった、こんなまともな人助けだなんて理解ができない。
扉とは反対方向に進む俺はもう振り返る事も無かった。
「兄弟はよくあんな面倒な事を出来る、凝り性だからか」
現在の居住である時計屋に戻れば畳の上にゴロンと寝転がる。
少し腹も満たされたせいか眠気が襲いかかり、ふぁと欠伸が出る。
このまま寝てしまおう、そして起きたら兄弟に食糧と料理を作ってもらおうと目を閉じる。
結局、またあの2人の名前を聞きそびれた事に気付くのは目醒めた後だった。
おまけの翌日
「やぁ!臨時出張から帰った僕だよ!はいお土産」
「お前、変なお土産じゃないだろうな…」
「やだなぁ世前は、そんな雑なモノボケはやらないよ」
「そういえば昨日、教会に這依さんと似たような人が居ましたが知り合いですか?」
「げぇ兄弟!?…いや、あー…時期的にそろそろだったか………何か変な事とか悪運とか付けられてないよな?」
「えっ、あ、うん。たぶん?」
「本当かなぁ…あの歩く災厄、無意識に他人に不幸を撒き散らすし自分も不幸になる負の権化だぜ?」
「お前にしては容赦ない物言いじゃないか」
「僕、基本的に身内には配慮しないからね」
「俺たちにも配慮がないだろ」
「違うね!君達には遠慮しないだけさ!」
「一緒じゃねぇか!」