徒花の君へ【壱 崩落】
――主が死んだ。
すぐ帰るから、と言って護衛も無しに万屋へ向かう道中で暴れ馬に撥ねられた。
刀である僕たちと違って、人の身体は手入れでは元に戻らない。
乱れた髪も、土に染みた鮮血も、折れた幾つもの骨も、何一つ。
人の寿命は短いとわかっていた。それでも、あまりに早過ぎた。
実を成せず、雨に打たれて志半ばで散ってゆく。
――徒花のように、呆気なく。
◇◆◇◆
「それでは、これにて説明は以上となります。
他の本丸への異動を希望する方は後程こちらへ、
刀解を希望する方は所定の場所へ移ってください。」
管狐と政府の役人の指示に従って、数多の刀剣男士が本丸を駆けていた。
それも束の間、太陽が傾いて影が伸びてゆくうちに、一人また一人と声が消えてゆく。
「新たな審神者を迎えなくて、本当によろしかったのですか。」
主が眠っていた布団を見つめながら、管狐が耳を揺らす。
「何度も言わせんな。オレたちの主はあの人だけだ。
代わりなんざ利かねぇよ。」
「そうだね。後にも先にも、僕らの主は彼女だけだ。
この本丸が生まれた時に、この身は主ただ一人へ捧げると誓ったのだから。」
政府曰く、様々な要因から審神者が離脱するのは珍しくないそうだ。
主の死から二日しか経っていないというのに、やけに初動が早いことにも合点がいく。
「それでは、ぼくは政府に報告してきます。
御二方はどうされますか?」
広くなった審神者部屋には“始まりの一振り”の僕と、
“近侍”の和泉守だけが残っている。
「オレは他に残っている奴が居ないか見回ってくる。
之定はどうする?」
「……僕は、もう少しここにいるよ。」
少し息を吐いて、目を閉じて答えた。
まだ、瞼の裏には主の姿が見えた。
「分かった。……オレもすぐ戻る。」
「決まりですね。
――それでは、またどこかでお会いしましょう。」
襖が閉じて、鈴の音は止んだ。
一振りの刀の啜り泣く声だけがそこにあった。
「……主、どうか……僕を、許してくれ。」
――人の身を得ても尚、ただ一人の主をも守れない。
それでいて、君以外の誰かを主とは認められない。
数多の思い出を風化させたくないと願いながら、自ら終わらせることを選択した。
……こんな僕を、君が見たらどんな顔をするだろう。
ぱた、ぱたと雫が落ちる机上には、本丸解体に関わる諸々の書類と代打審神者候補の顔写真が乱雑に置かれている。
風流の欠片も無いそれらが、この痛みが夢幻の類でないことを知らしめている。
無力さに拳を握り、激情のままに払い除けたとて胸の穴は塞がらない。
「……ああ、僕としたことが取り乱してしまった。
早く片付けなくては……。」
譫言のように呟きながら、書類を掻き集めて息を吐く。
泣き腫らしたせいか、やけに頭が痛い。
和泉守が戻ってくる前に、涙の跡を誤魔化さなければ。
そんなことを考えながら最後の一枚を手に取った。
――ふと、指先が襖に当たった。
よく見ると僅かに隙間が空いている。
審神者部屋にはよく出入りしていたが、思えばこの中身を気に掛けたことはない。
平時であれば憚られるが、このまま政府の手に渡ってしまうのも腑に落ちない。
「主、失礼するよ。」
まず目に止まったのは、風呂敷が被せられた桐箱だった。
押入れの中にも関わらず、そこには塵一つなかった。
「……これは、手紙?」
よく見れば、筆跡に見覚えがある。
一振りずつ丁寧に纏められていて、保存状態も良い。
そればかりか、普段の本丸での思い出の品々も大切に仕舞われている。
囁かな懐かしさや、鮮明な思い出が今もこの箱に在り続けている。
まるでこの押入れの中だけは、あの時のまま静止しているかのように。
「ああ、これは昨年の春の……。」
一際目を惹いたのは、花見の道具たちだった。
この本丸では毎年、中庭の枝垂れ桜の満開を祝う盛大な花見が開催されていた。
無論今年も行うつもりだったが、主を亡くした今は叶うはずもない。
主へ唄うはずだった歌も、今は箪笥の奥で眠っている。
「花見、か。」
主が生きていれば、きっと今頃は祭囃子が聞こえていた。
主が生きていれば、また僕に笑いかけてくれた。
――生きてさえ、いてくれれば。
「主、……見ているかい。」
「――満開だよ。」
◆◇◆◇
本丸内に誰も残っていないことを確認して、
オレは審神者部屋へ向かっていた。
――脳裏には、主の最後の光景が始終こびり付いている。
白い着物を赤く染めて血溜まりに横たわる姿が。
あんなにも、呆気なく散った最後の姿が。
「なぁ、主。」
中庭の桜の幹に触れながら、在りし日の憧憬に浸る。
「幾らなんでも、早すぎるだろ」
哀しい、というより痛いほどの喪失感があった。
近侍として誰より――“始まりの一振り”の之定と同じくらい近くで主を見てきた。
どんな名刀であろうと、呆気なく主を喪う時代。
修行の過程で痛感したそれが、今も胸を抉り続けている。
「オレは、オレ達はあんただけの刀だ。
……だから、この本丸も畳む。それだけは許してくれ。」
あんたの分まで生きる、なんて言えるわけが無い。
糸の切れた凧のように宛もなく漂うくらいなら、
消えることのない忠義の炎に包まれよう。
――少なくとも、オレはそうする。
◆◇◆◇
和泉守を待つはずが、気づけば中庭まで歩を進めていた。
恐らく入れ違いになったのだろう。
僕の他に、この桜を見る人の姿は無い。
「こんなにも美しいというのに、独りは歯痒いね」
歌を詠む宛もなく、風に乗って時が流れていく。
燥ぐ声も、笑い声も聞こえない。
ただ、花弁だけが散ってゆく。
――主以外の人間に仕える気は無い。
散っていった同胞達のように僕自身も刀解を望んだが、
今更になって主への執着がその決意の邪魔をする。
「……」
視界の先には、時空転移装置がある。
刀剣男士としての禁忌であることは百も承知だ。
それでも、主が居ない世界に価値は無い。
主が居ない時代など、正しいはずが無い。
いつもと同じように、しかし相反する信念を胸に
転移装置を操作する。
もう居ない主のために刀剣男士としての使命を破り、
政府の命に背き、禁忌に手を染める。
――もう、引き返せない。
金色の時計板が廻る。
主が笑っていたあの日へ、本丸が賑やかだったあの時へ。
桜が芽吹く前へ、秒針が巻き戻ってゆく。
「――主、待っていておくれ。」
――歪みきった忠義を胸に、転移装置に足を踏み入れた。
◇◆◇◆
「……之定?」
入れ違いになったのだろうか。審神者部屋には誰も居ない。
それどころか、誰の霊力も本丸内から感じ取れない。
「まさか……いや、そんな訳ないよな……。」
刀解を選ぶにしても早すぎる。
そもそも之定は一度交した約束を反故にするような奴じゃない。
きっと桜でも見に行ったのだろう。少し待てば来るはずだ。
「桜、か……。」
畳の上には桜の花弁が十数枚落ちていた。
――感じ慣れた、一振りの霊力を帯びて。
「ッ――?!まさか!!」
最悪の可能性が外れるようにと願いながらも、
数多の辻褄は残酷なまでに照合されていく。
(頼む、オレの見当違いであってくれ――)
誰もいない廊下を駆け抜け、中庭の転送装置へ向かう。
上がる息も、乱れる心拍も、代謝にそぐわない冷えた汗も構わない。
「之定ァ!!」
丁度、金色の光がその一振りを包んでいた頃だった。
水縹色がこちらを見た。
――いつものような柔らかさは、皆無だった。
ただ冷たい覚悟を秘めた目が、秒針の音と共に消えて言った。