「人を見る目がないと言われたことがある」
ウィズダムの開店前、料理を仕込む皇紀のもとに宗雲が訪れた。彼は皇紀の手元を注視するでもなく、支配人として食材や器具に関心を払うでもなく、ただ壁際に腕組みして陣取り、脈絡のない一言を放った。皇紀は、どうやら話をしに来ただけのようだと判断し、「そうか」と適当な相槌だけして目の前の食材に向き合う。宗雲は勝手に話を続ける。
「そういう肝心なことに限って占いにも出ない。なんなんだろうな」
諦観混じりの笑い声でようやく、宗雲が先日裏切られたことを気にしているのだと気がついた。皇紀が知っているだけで何度も同じことを繰り返している男が、である。つまり、今まで性懲りも無く人を信じ続けていた男が、今回珍しく落ち込んでいる。
肉を捌く手を一瞬止めた皇紀の沈黙をいいように取ったらしい宗雲は、「俺だってな」とやや声を強くした。
「人を見定める努力をしていないわけじゃない。本当に信じていいと確信したんだ。心の底から」
なんだか後ろを向くような温度を感じ取った皇紀は、喉の奥にひりひりしたものを感じながら、それを吐き出すように息をした。包丁の先を鶏肉に差し込み、筋を断つ。
「後悔してんのか、お前」
口をついた声は尖っていた。肉を均そうとした刃が硬い骨に突き当たる。「後悔」宗雲は繰り返す。
「後悔……そうだな。そうかもしれない。最初からわかっていればしなくてよかった苦労を、お前たちにさせてしまったかもしれないと思うと」
「俺は?」
長く続きそうな自責の言葉を遮った。宗雲は一瞬沈黙し、申し訳なさそうに口角を持ち上げる。
「勿論。皇紀の手も煩わせたと──」
「違う。俺は裏切ると思うか」
「裏切るのか?」
あまりに意外そうに目を見開き、あまりにまっすぐ聞いてくるもので、皇紀も彼を同じような顔で見返してしまった。
「……まあ、予定はねぇな。今のところ」
すると宗雲はあっさり翠の瞳を緩めて、柔らかく笑う。
「ならいい。俺も、考えたこともなかった」
「…………」
笑わせる。今のところは、と言っているのに、こいつは一体皇紀の何をそこまで信じているのだろう。
柔らかくなった鶏肉をバットに漬ける。合わせ調味料の香りだけで「美味そうだな」なんて無邪気に笑う我らが支配人は、裏切られた痛みなんて喉元過ぎればすっかり忘れ、また手放しで赤の他人に全幅の信頼を寄せるに違いない。
皇紀から見たら骨格の歪んだ、八つ裂きにしたくなるような邪悪な人間のことでさえも。
皇紀はバットを冷蔵庫にしまい、代わりに野菜を取り出した。皇紀がリクエストし宗雲が揃えた高級な青野菜が、瑞々しく整然とまな板に並ぶ。
「……いい」
「ん?」
「お前はいい」
俺がわかるから。
そういう意味の言葉を、宗雲は単なる励ましだと思ったらしい。「気持ちは嬉しいが……」と語尾を濁し、長い溜息を吐きながら天井を見上げた。皇紀は誤解させたまま特段補足もせず、黙って水を張った鍋を火にかける。揺らめく炎、鍋の立たせる湯気の向こうに、宗雲の立ち姿が揺らいだ。
──こいつは気づいていないに違いない。己の愚直な人間性自体が、根無草の皇紀をこの厨房に留めているということを。
宗雲は皇紀をイライラさせない。彼の骨格は、まっすぐだ。