Mr.兄弟自営業であるMr.兄弟の経営は全てエルが担当している。と言っても開業届けなど出す意味も受け取る所もないような職業なので、やる事は舞い込んでくる依頼の選別と資金の管理程度。なので仕事内容と報酬金額が釣り合わないものや、『任務達成後の自分達の立ち場が危うくなるような条件の仕事』などはエルは一切引き受けていない。文句を付けてきたら黙らせればいいだけの話であり、ザ・ノアールを抜けた後から始めたこの営業スタイルは変動なく続けられていた。
しかし。
「これ、今日の仕事」
「ん〜?」
朝、一日の始まりの時間。シリアルを頬張って朝食を取っていたシグマへ、先に朝食を終わらせてコーヒーを啜っていたエルは依頼書を投げ付けた。シグマはスプーンは決して離さず、空いていた左手で依頼書を手繰り寄せて読み始める。内容はとある組織の壊滅依頼で、報酬金額はこちらの提示している金額の底辺であった。
「ここ、テキもイライヌシも中堅ていどの実力しかないところ。しってる」
「俺も知ってるよ」
「しょぼしょぼ小競り合い。ヒツヨウ?ぼくたち?」
「必要だから資金を草の根掻き分けてでも探し出して、俺達に依頼してきたんだろぉ」
疑問を浮かべるシグマにエルは怠そうに返し、席を立つ。
その横顔は既に『仕事に入っていた』。
「準備は万端にしとけよ」
「…………りょ」
その顔をされてはシグマに反論の余地も気力も湧かなくなる。シグマは器に残るシリアルを食べきると身支度の為に席を立った。
普段なら切って捨てるような依頼内容を、時折エルは文句一つ付けずに引き受ける事がある。その時は決まって何か裏がある時であり、事情説明すらないというのは『余程の裏』がある時だ。
そしてそれは大概、自分達の過去に関するものなのだ。
仕事は実にあっさりと片付いた。シグマが言った通り、目的の組織はまだまだ成長途中のマフィアであったし、成長しきったとしても良くて中の上程度しか見込めないような所だった。そんなもの二人にかかれば赤子の手をひねるよりも簡単だ。
【な、何で…………何であんたらが俺等を狙うんだよぉっ!!】
奴らの拠点である今や見る影も無い元高級ホテル。そのだたっ広いロビーで最後の護衛すら簡単に突破された組織のボスは震えながら叫び上げる。その場にへたり込み、銃すら構えられないその姿は情けない事この上ない。
【俺たちゃあんたらに何もしてねぇだろうがぁあ!?】
「何かやったやってないなんてどーでもいいんだよ。『オメェの命運が尽きた』。ただソレだけの話だ」
弾丸を新しく補充し終えたエルは銃口を怯えるボスの額に合わせる。
【ひぃいッ!!やめてくれぇえ!!】
「…………お前を地獄に送る前に、一つ聞きたい事がある。返答によっちゃあ生かしてやってもいいかもないかも有りかも無しかもしんねぇから素直に答えろよ?」
【わ、わかっ、わかった、わかったよ。何でも答えるよ!!】
「よし」
ボスは壊れた人形のように何度も何度も首を縦に振る。それを確認し、エルは本題を切り出した。
「お前、五日前に仮面野郎から『武器』を買ってるだろ。それをここに持ってこい」
【…………武器…………アレの事か】
「そうアレの事だ。ここにいんだろ?」
【ああ、それなら奥の部屋にあるが…………何であんなモノを…………そういえば、顔の特徴が…………もしかして、お前ら】
「死にてぇなら死にてぇって潔く言え。男の子だろ」
【今すぐ連れて来る!!ちょっと待ってろ!!】
と、ボスは飛び出す勢いで部屋を飛び出し奥へ引っ込んでいく。その様子を溜息を吐いて見送るエルと、一連のやり取りを静観していたシグマはエルの隣に並び立つと口を開いた。
「真のもくてき?」
「おう。こいつらの殲滅なんぞただのオマケだ」
握る銃を下げてはいるがホルスターへ戻そうとはしない。それは警戒を解いていないというエルの合図だ。
「情報屋から買った話によると、あの腰抜けボスは自分からフッかけた抗争なのに終始劣勢状態からにっちもさっちも行かなくなって、仮面野郎に情けなくも泣きついたらしい。そこで買った、というか売り付けられた武器ってのが『ワインレッドのチビ』のタレコミから察するに…………」
【ギャアアアアアアアッッ!!!】
「「!!」」
絹を裂くような絶叫。エルは説明を中断し、ボスが消えていった通路に向けて素早く銃口を向けた。それに呼応してシグマもサバイバルナイフを抜き、エルより一歩前に出て構える。
一瞬の静寂が辺りを包む。
否、一つのみ音が聞こえる。
足音だ。
暗い通路の向こう、こちらに向かって歩いてくる足音が一つだけ聞こえてくる。
その正体を…………人物を肉眼で鮮明に捉えた
エルとシグマは絶句した。
それは男性であった。ちょうどシグマと同じ程度の身長と体格であり、衣服は破れかけの患者服を着用している。靴は履いておらず両足共に裸足で、汚れに塗れたその右足首には何やらリングらしきものが括り付けられていた。服装から察するに何かのタグだろうか?イヤーマフ型の受信機を両耳に装着し、偏光防弾ゴーグルをも装着している為に瞳が隠れていて表情が読めない。
そしてその男性は右腕が異形であった。
右腕全体に金属の刃が生えていたのだ。
片刃が外向きに二の腕辺りから始まって手の甲までびっしりと覆うそれ。一部から血液が滴り落ちている所を見ると、ボスの命は呆気なく刈り取られたようだ。
眼部の目立つ防具、腕の狂気の凶器。全体的にあまりに異質過ぎる男の出で立ちに、何も異変が無いまともな左腕の方が異質に見えてくる錯覚に陥っていく。
ソレは明らかに第三者の手によって施術され作り変えられた『商品化した人間』の形であった。
「…………はっ。まさしく『武器人間』だな」
「……………………」
エルは詰めた息を吐き出すようにして呟いた。代わりにシグマは無言のままに男を凝視し続けている。
彼の髪が自分達と同じ栗毛色で無ければ。
前髪が跳ねる同じ髪型で無ければ。
同じ特徴的な丸い鼻をしていなければ。
髭が生えているかいないかだけの違いしか無い同じ顔の作りをしていなければ。
こうして対峙する事を即刻辞退した所であったというのに。
先に動いたのは武器人間の方だった。どうやら兄弟は排除するべき敵だと一方的に判断されたらしい。そしてそれは正しい。
右腕を振り上げて駆けてくる武器人間を迎え撃つべく、シグマも前進しながらナイフを逆手に持ち替え、攻撃を受け止める体勢に入る。
武器人間の振り下ろす刃とシグマの押し止める刃がかち合った。金属の鋭い衝突音が鳴り響く。そうしてシグマが作った隙を得て、エルはすぐさま銃口を武器人間の頭部へ向ける。狙うはワンショットキル。
しかし、兄弟はここでもまた絶句する事になる。
武器人間は振り下ろし受け止められた右腕を、噛み合ったシグマのナイフを巻き込んだままに再び大きく振り上げた。そしてそれをシグマは阻止する事が出来なかったのだ。シグマの両の手の平から離れ、宙を舞い、遥か遠くへ弾き飛んでいくナイフ。その光景に兄弟は目を見開いて驚愕してしまった。
「シグマが力負けした…………!!?」
背丈も体格も自身の倍はある者の腕力をも受け止められるあのシグマが負けた?あり得ない!エルの声にはその心がありありと浮き出ており、シグマに至っては敵前だというのに何が起きたのか未だ理解出来ない様子で、上に流されてしまった両腕を下げてガードに回すのが遅れてしまう。
そんな凡ミスを折檻するかのように、武器人間の振るった左拳がシグマの右頬へ深くめり込んだ。血管が浮き出る程に剛力を込められたその拳はナイフ同様にシグマの体を宙に浮かせて吹き飛ばす。頭を守る事も出来ずに、シグマはそのまま固いタイルの上へ頭と体を強く打ち付けてしまった。
「シグマァァッ!!」
エルの叫びにシグマは背を向けて倒れ込んだまま答えない。動かない。脳震盪を起こして気絶でもしてしまったのだろうか。だとしたら状況は最悪を通り越して、最低だ。
前衛を潰された後衛に、火力特化の特攻を止められる術など無い。
「勘弁しろよマジでよ…………!!」
『次はお前だ』と言わんばかりに突っ込んでくる武器人間。精密な射撃など狙う暇すらないその素早さに、エルの額から焦燥の汗が流れ落ちていく。銃弾を乱射して抵抗はするものの、急所さえ無事ならそれでいいと言わんばかりに肩や腕の肉が抉られながらも、頭部だけを右腕の刃で守りきり突進してくる武器人間を止められやせず、間合いに入りこまれてしまった。
刃の鱗が振るわれる。その初撃をエルは何とか躱し、その後の二度目三度目と襲いかかってくる凶刃もスレスレで躱していく。狙撃手としての『目の良さ』と『対象の動きを先読みする能力』が無ければ初撃で即刻死んでいただろう。
「ッ!!」
シグマさえ勝てなかった筋力の持ち主だ。自分なんぞ受け止めたら最後、その防御ごと体を真っ二つに割られる未来しか見えない。つまりは完全回避するしか選択肢がなく、エルは全神経を集中させて身を翻し、刃を回避し続ける。反撃も、悪態を叩く余裕すらない。風切音や風圧を肌で直接感じ取れる辺り、本当に紙一重の防戦だ。そしてそんな綱渡りは長く続けられるものではなく。
武器人間が二歩、唐突に前へ詰めてきた。それに対してエルは反射神経の差で半歩しか下がれず、その隙を見逃す程、愚鈍な敵ではないのはもう身に沁みてわかっていた。武器人間の左拳が唸り、エルの腹部へ叩き込まれる。
「ッオ"ぇ」
エルの口から押し出されるかのように呻き声が漏れた。一発やられると覚悟は決めていたが、重い。崩れ落ちそうになる足腰を気力で保つのが精一杯で、続く右拳の貫手を躱す分の距離を動かしきれず、エルは再び覚悟を決めた。
己の首を右から切り飛ばそうと迫りくる刃に対し、エルは頭を上半身ごと左へずらした。それでも足りない分は折り畳んだ右腕を盾として使い、命を繋ぐ。その代償として右腕から派手に鮮血が飛び散った。
「ぐあ"あ"ッ!!」
右腕を引き裂かれ切り裂かれ刻み込まれ、その鋭く深い痛みにエルは苦痛の悲鳴を上げる。腹部の痛みと腕の痛みで足腰はとうとう耐えきれず、ガクリと膝が落ちる。地に膝を付いて降伏を示した獲物に、武器人間は賛辞を贈る事も罵声を浴びせる事もせず、唇は永久なる真一文字のままに止めの一撃を放つべく、鮮血に濡れた右腕の刃を振り上げた。
「おい」
不意に背後から肩を掴まれ、強く後ろへ引かれた。強制的に背後へ振り返る事となった武器人間。その瞬間にはまるで『御礼参り』と言わんばかりに顔面に向かって左拳が飛んできていた。硬く硬く握られた拳が武器人間の鼻にぶつかり、それを押し潰しながらゴーグルにも激突する。その衝撃たるや、防弾性であるゴーグルのレンズにヒビが入る程。
「調子に乗りすぎだ」
全神経全筋力全体重をかけて放たれた鉄拳は武器人間を容易く宙に浮かせて吹き飛ばした。砂埃を上げてタイルを滑っていく武器人間。それを憤怒の形相で睨み付けるは赤色の輝く強い瞳。普段のシグマとは真逆の、強い意志を宿した瞳だった。
「お前は絶対に殺してやるぞ」
まんまとしてやられた恨み辛みを込めた反撃を思いっきり喰らわせてやったシグマは、口内に溜まった血を吐き捨てながらそう吐き捨てた。
「…………エル、大丈夫?」
「バカみてぇな質問してくんな…………」
シグマの声にエルはいつものように悪態をつく。だがその顔には余裕が無く、額から顎から大量の汗が流れ落ちている。そして大怪我を負わされた右腕は出血を止まらない様子で、だくだくと血液が流れ出てしまっている。そのままにしておけば出血死になりえる勢いだ。そう判断したシグマは武器人間への追撃に走らず、自身の首に巻いていた赤いスカーフを外すと立ち上がれないエルに駆け寄り片膝を付いた。
「エルのも貸してね」
「チッ、新調したばっかりだってのに…………!」
「僕がもっといい新しいのを買ってあげるから」
そう言ってエルが自身と同じく首に巻いていた緑のスカーフを解き、その二枚で止血に入る。ぱっくりと裂けてしまっている傷口を、緑と赤のスカーフで無理矢理にくっつけてキツく縛り上げた。エルは痛みに呻きながら恨み言を吐く。
「ゔゔゔ…………クッソが、あそこまでのバケモンを相手にするなんてわかってりゃあ、ライフルでもバズーカでも何でも担いできてたってのによ!」
「僕も、あんなヤバイものを相手にするならもっと『効き目が早いイイヤツ』を持ってきてた。そうすればエルが怪我をする事なんてなかった」
「あんんのクソクソクソクソクソ仮面野郎!!ブッ殺してやるッ!!」
「あいつがあれを造ったの?」
「だとしたら絶ッ対に殺す。違ったとしてもこの国にバケモン持ち込んだ罪で殺す。万が一に全て無関係だったとしても存在が腹立たしいから殺す」
「なるほど。じゃ、まずはあいつを殺さないとね」
痛みを怒りに変えて奮起するエルの様子に一先ずは安心し、シグマは立ち上がって前へ一歩出た。武器人間の方もようやく立ち上がってこちらと対峙してくる。ひび割れたゴーグルの下でたらたらと鼻血を垂らしているが、気にする様子も痛がる様子もない。反撃を食らった事に対する感想も、怪我を負わされた事に対する罵倒もない。あの様子から察するに、痛覚などとっくの昔に取り除かれているのだろう。自我などとっくの昔に潰されているのだろう。両耳の受信機だって何処の誰からどんな言葉を受信しているのか、そもそも正常に機能しているのかわかったものじゃない。それなのに未だ装着し続けているその『忠誠心』は、果たして正しく芽生えたものなのだろうか。彼は今、自分の置かれている状況を正しく把握できているのだろうか。肉体を好き勝手に改造される時、彼は正しく抵抗の意を示せたのだろうか。自分の名前を正しく覚えているのだろうか。正しく自身の心の内を唱えられるのだろうか。
彼は一体、何者なのか。
「エル」
兄は静かに弟に問うた。
「あれは何?」
それは疑問というより確認であった。それを察したエルは珍しく言い淀み、それからふらりと立ち上がってから意を決してこう告げた。
「『一歩間違えればありえたかもしれない、成れの果てのお前』だよ」
「…………ふ〜ん…………」
通りで似てると思った。
「なら、尚更絶対に殺してあげないとな」
そう言って、シグマは腰のホルスターから二本目のサバイバルナイフを抜いて構える。同じくして武器人間も戦闘の構えを取ってきた。
「…………左でも撃てるったって利き腕じゃない上に、血を流し過ぎて目眩が起き始めてる。援護はあんま期待すんなよ」
「了解」
シグマのブーツがタイルを蹴った。それと同時に武器人間の足裏もタイルを蹴った。
互いの得物が再び衝突する。一度目より派手な金属の衝突音が響き渡り、武器人間は鍔迫り合いの中で、一度目と同じく噛み合ったシグマのナイフを吹き飛ばそうと右腕を振り上げた。
が、ナイフは狙い通り吹き飛ばせず、そもそも右腕は振り上がらず、力を込めているにも関わらずその場に留まったまま、動かない。
「同じ手は食わない」
一度目と同じくナイフを逆手に持ち、攻撃を受け止める体勢のシグマ。しかしてそこに込められている力は一度目とは比較にならない程に強大で、武器人間の剛力を完全に抑え込んでいたのだ。
「仕返してあげるよ」
そう囁いたシグマは目玉をかっぴらき、ナイフの刃先を鱗に絡め、両腕の筋肉が隆起する程に怪力を込めて真上に振り切った。すれば凶刃の右腕は勢い良く浮き、上へ跳ね上がり、後ろへ吹き飛ばされ、その流れに負けて武器人間は後方へ大きくよろめく。その無様な『してやられる様子』を見てシグマは笑った。
「これで僕の方がお前より力持ちだって証明されたね」
唇が三日月を描き、剃刀のような歯をありありと見せ付けて嗤った。
「つまりは僕はお前より強いって事だ!」
声高らかに宣告した通り、怒涛の攻撃を繰り出して武器人間を圧倒していくシグマの姿にエルは内心安堵していた。『ガンギマリ』状態のシグマですら敵わない相手だったら、後は敗走するしか生き延びる手段は残されていなかったからだ。
キン、ギン、ガキン、と狂気の刃と殺意の刃が火花を散らす音が絶えない。いつでも援護射撃が出来るように左手に握った銃口は武器人間を捉え続けてはいるが、その出番は無さそうな勢いである。全身を武器化された挙げ句にドーピングを施されて痛みを一切感じないという化け物相手に、ナイフ一本のみで互角に戦い合えるシグマ。こういった滅茶苦茶な力を発揮している兄の姿を見る度にいつも思う。
本当に嬉しそうに、楽しそうに戦うよなぁ、と。
表情に乏しく無気力でいつも何処か上の空でちんまりしているシグマから一転、活気溢れ出る表情に瞳に気力有り余る凛とした体の動き。余りに正反対過ぎるその容姿に第三者はよく『多重人格』を指摘する。躍動するシグマを『能力向上』と比喩する。しかしそれはどちらも間違いだ。
無気力な方も活力的な方も、人格は一つきりであり、どちらもシグマ本人である。
そしてあれは『能力向上』ではなく『能力解放』。
あの異常な身体能力は、『反旗を翻す事の無いように』と脳幹に植え付けられている思考抑制機能を薬物摂取により一時的に麻痺させる事によって解き放たれた、シグマの真の実力がもたらすものなのだ。
嬉しそう楽しそうに戦うのは常日頃の束縛から解放された事に全身が無自覚で歓喜しているからなのだ。
シグマは移り変わりの際に『頭の中にいつもあるもやもやが取れて、世界がはっきりくっきり見えてくる』とよく言っている。そのもやもやこそが思考抑制機能であり、対象者の脳に一定の負荷をかけて思考を鈍らせる働きをする。思考が鈍れば自然と身体の動きも鈍くなる。つまりは力の抑制となる。そうすればどれだけ強者だろうと従順な下僕に成り下がる。
そんな策略を下に彼は調整されている。
シグマの肉体は『もとがもと』であるが為に頑丈さが尋常ではなく、怪我や病気の回復速度は勿論、危険薬物摂取後の禁断症状すら発症しない。だから実質『無償』で力を扱えるのだ。絶対的支配者の下にいる訳でもない現状、自分の心の思うままに好きな時に好きなだけあの怪力を振るえ、いつでも周りの者を圧倒的暴力で支配出来る。それだけの力をシグマは秘めている。
しかし、エルはそれを良しとはしなかった。
むしろ強く拒んだ。
その意見をシグマは受け入れて、あのオンオフの激しい容姿になってしまっている。
『力ある者が正義』である裏社会に住まう者として、その判断は間違っていると言われるだろう。指を差して愚かだと罵られるのだろう。だがエルは絶対にその選択は取らなかった。絶対に判断を覆す事はなかった。絶対に受け入れる事をしなかった。
「…………っ…………」
本格的になってきた目眩にエルの腕はついに下がってしまった。シグマの応急処置も甚だしい処置により先程よりも穏やかになっているとはいえ、依然傷口から出血は止まっていないのだ。『エルもシグマと同じくあの力を体内に秘めてはいるが、それが発揮された事は今まで一度もない』。こうして分かりやすい体力差まで出てくる始末で、戦闘に置いてはエルはシグマに一歩劣ってしまう部分がある。だからと言って意思の自由と引き換えに力を得るか?と問えば、『ナメんな!!』と激昂して相手を殺害しようとしてくるのがMr.Lという男なのだが。
「く…………」
最早立つ事すら出来なくなり、エルは自身の血で作った水溜りの上に力無く座り込んでしまう。ツナギが血を吸って肌に貼り付き、尚更に不快だ。
その様子を激しい戦闘の中でもシグマはしっかりと確認していた。そろそろ、決着を着けねば。
シグマの瞳が細まり、敵を見据えた。
武器人間の攻撃を弾き飛ばし、懐に入り込んだ瞬間に上半身を一回転。左足を軸にして回転力を乗せた右足を跳ね上げた。
「破ッ!!!」
喝と共に放たれた後ろ回転蹴りは武器人間の右顎を直撃。その弩級すぎる破壊力にひび割れていたゴーグルはついに破損し、武器人間の片目が覗き見えた。顎を強く揺さぶられたせいで脳震盪を起こしたのか、武器人間は無抵抗のままに大地へ仰向けに倒れ込んでしまった。そこへシグマは襲いかかる。
どれだけ常識外れの未知の生き物だろうとも『生き物』であるなら、心臓を破壊されれば生命活動を停止せざる終えない。
シグマの振り下ろしたサバイバルナイフは迷いなく狂いなく慈悲なく無駄なく武器人間の胸部に突き刺さり、その奥にある心臓を真っ二つに切り分ける。
シグマの勝利が決定した瞬間であった。
ナイフを引き抜けば元は綺麗な青色だったろう薄汚れた患者服が溢れ出る鮮血に徐々に染まっていく。その様子をシグマはその場に留まり、物言わずじっと眺めていた。否、眺めていたのは武器人間の瞳であった。割れたゴーグルの奥で武器人間の左目が露出している。瞼は重く、焦点は合わず、生気は薄い。死に逝く者が最期に見せる瞳だ。
その虹彩は予想通り、青空色だった。
「…………?」
武器人間は、名もなきその者は、これから自分は死ぬのだという事を理解していないように見えた。
「もういいから死んじゃいな」
理解などしなくていいから、抵抗などしなくていいから、生きようとしなくていいから、そのまま死んでしまいなさい。
シグマの言葉を聞き取ったのか、それとも限界を迎えたのか、武器人間の瞳はゆっくり閉ざされていき、二度と開く事はなかった。
転倒の際に耳から離れた受信機は、何の音沙汰も無く転がっていた。
「エル大丈夫〜?」
「アホみてぇな質問してくんな…………っ」
戦いが終わり、シグマはエルの元へ。緑も赤もどちらのスカーフも容量をとっくに越え、ぽたぽたと血液を垂らし続けている。これ以上は本当に危険かと判断したシグマは手早くエルを背負い込む。途端に背中が濡れ始める感覚があるが、常日頃から血を浴びている者としては些細な事だ。
「どこのお医者さんに行く?」
「…………あのマッド野郎以外のとこならどこでもいい…………」
「じゃあ一番近いところかな。エル、寝ちゃダメだからね。起きててよ?」
廃ホテルから運ばれるエルの赤い瞳はうつらうつらと閉じかけている。意識を保つのも難しくなってきている様子だ。本人もそれを自覚しているようで、意識を繋ぐ為に口を開き続けてくる。
「てめ…………いつまで、ガンギマってんだ…………」
「あ〜、量を調整してる暇なんて無かったからまんま使っちゃってるし、しかもハッパじゃなくてクスリの方だからなぁ…………もう暫くは戻らないと思うよ」
「…………クソッタレ…………」
「あはは、ごめんね」
脱力した男性一人を抱えていながらシグマは余裕の表情で笑う。
「エルは本当にこの僕を嫌うね」
「…………………………………………」
だってそんな哀れな姿、見ていられないもの。
「……………………」
「エル?」
返事がない。どうやら耐えきれずに気絶してしまったらしい。それにシグマは気付くや否や、アスファルトに血痕が残る事など気にも止めず、両足に怪力を込めて地面を蹴り始めた。街中を勢い良く駆け抜けていく中で、シグマは思いに耽る。
恐らくエルは、弟は、自分と違って過去の出来事を全て記憶している。
そしてその過去の遺物を全てこの世から消し去ろうとしている。
それが原因で自分のこの姿を嫌悪しているのではないかとシグマは結論付けていた。
今回のような戦闘は初めだが、今まで経験してきたものはツテから得た情報を頼りに対象者に接触し、見つけ出したり脅し取ったりして手に入れた資料やデータをエルが念入りに焼却処分してきているのをシグマは知っている。その中身は一体何が書かれているのか、シグマは一度も見た覚えはないし、エルが話してくれた覚えもない。もしかしたらあの武器人間も、自分の知らぬ所でエルには面識があったのかもしれない。だがその事をエルはシグマに話す機会はきっと来ないだろうから、シグマは永遠に無知のままだ。
それでいいと、シグマは思う。
虫食いだらけの破綻した半生を今更取り戻したいとは思わない。取り戻したところで、沢山の犠牲を払うまでの価値のあるモノではないのはもうわかっているのだ。だったらそんなものはとっとと捨ててしまえばいい。そうシグマは考えている為、何も知らないままにナイフを振るえる。何も知ろうとせずに命を燃やせる。過去に囚われている弟の為だけにただ只管に障害を排除し続けている。
想い人の為なら何でも出来る。
だから自分はここにいられる。
「これからも兄さんを頼ってくれていいからね」
背中の愛しい重みにシグマはそう囁くと、ラストスパートとばかりに更に加速し、颶風となって走り出していった。