その指先から花開く 進軍拠点の施設には、資料がまとめて置かれている本棚がある。拠点を移動する度に資料を移動させることから、つい雑然と資料が置かれがちだ。そういった事情で、生活管理官からシェズ達に資料の整理を依頼されることも多かった。
アネットはよく調べもののためにこの本棚を利用している。それまでは自分で山のような書籍から資料を引っぱり出していたが、町の人達に勉強を教えるようになった一件から、アッシュがその手伝いをしてくれるようになった。彼はアネットの「人に教える仕事がしたい」という望みを応援すべく、自らそうするようになったのだ。
「アネット、これが君が探していた資料じゃないですか?」
「そう、これ! ありがとう、やっぱりアッシュが手伝ってくれると捗っちゃうな」
「いえ。助けになれたなら嬉しいです」
アッシュはアネットに笑んだ。アネットは素直に感情を表現するから、資料を見つけて喜ぶ様も好ましい。騎士として、また恩義を受けた友人として、これからもアネットを手伝っていきたいと思っていた。
「よし、これで今必要な資料は探し出せたよ。アッシュ、ありがとう!」
「資料が揃って良かったです。ところで、今回は何を調べるんですか? 見つけた資料は魔道の本だったり、兵法の本だったり、算術の本だったり様々でしたが……」
「うん。あのね、今回は魔道砲台とそれに対する戦略について考えをまとめたいの。敵に魔道砲台を使われることがあるから、その対策がしたくて」
「すごいですね!」
アッシュは素直に感心した。算術も魔道も苦手な自分なら、これらの本を読んだって魔道砲台のことは分からないだろう。それを読み解こうとするアネットに、尊敬の念を抱いたのだ。同時に、対魔道砲台の作戦についても知りたくなった。
「あの……もしよければ、考えがまとまったら僕にも内容を教えてくれませんか? 魔道砲台は厄介だから、どう対策すればいいか知りたくて」
「いいよ! うまく読み解けるかは分からないけど、もしまとまったらアッシュにも教えるね!」
アネットは笑顔で答えた。きっと教えることが好きな彼女には、アッシュの申し出が心から嬉しく感じられたのだろう。そんな彼女が微笑ましくて、アッシュも目を細めた。
後日、魔道砲台の研究が終わったとアネットから知らされ、約束通り教えを請うことになった。
場所は戦術教室の片隅を借りようとしたのだが、たまたま教官が大勢の兵に講義をしていたところで、会場としては適していなかった。それで談話室に移動したものの、騒いでいる傭兵一団がいてどうにもやりにくい。だからと言っておごそかな礼拝堂や、逆に賑やかな食堂を借りるのもなんとも落ち着かない。
最終的にはアネットは、軍の将に与えられている小さな個人用の天幕にアッシュを迎え入れた。天幕の中はうまく言えないが、アッシュとは違ういかにも女性の部屋という印象だった。どことなく良い香りがするのは、香水か何かなのだろうか。
とはいえアネットは妙齢の女性なのだから、仲間とはいえ仮にも男であるアッシュを天幕に招くのはいささか不用心に思えたが、それについては後から指摘することにして、まずは魔道砲台の話を聞くことにした。
アネットの教え方はやはり分かりやすく、算術や魔道が苦手なアッシュでも、魔道砲台から放たれた魔道の軌道や威力について理解することができた。また、それに対する効率的な動き方も知ることができた。
「やっぱりアネットはすごいです! これなら、戦場でもうまく立ち回れそうですね」
「えへへ、それほどでも……。でもね、役には立つと思うの」
「そうですね。今度みんなにも教える機会が持てれば、軍としても助かりそうです」
「じゃあ今度の軍議に持ち込もうか。みんなの分の資料を準備しなきゃね。アッシュ、手伝ってくれるかな?」
「はい、もちろんです!」
そうして二人は資料をまとめ上げて軍議にかけた。戦略の提案としては好評で、アッシュとアネットは微笑み合って喜んだ。
それからアッシュは、アネットの天幕で度々教えを請うたり、資料作りを手伝うようになった。天幕の中は集中できて良いのだが、やはり自分が女性の天幕に入るのは良くないのではないか。彼はいまだにその点についてアネットに指摘できていなかった。アネットは本当に自身の脇の甘さに気づいていないのだろうか? それとも、少々悲しい話だが自分は男として見られていないのだろうか? それを知るにも若干の勇気が必要だったが、アッシュは思い切ってアネットに切り出した。
「あの……最近、僕を天幕に招いてくれてますけど。もしかして、他の男性を招いたりすることはないですか?」
「うーん、今のところそんな機会はなかったけど。でも何か用事があったら呼ぶことはあるかもね」
「いけませんよ。アネットに変な気を起こす男性もいるかもしれませんし。僕は君を襲うなんて考えたりしませんけど、そもそも僕をここに呼んでるのも、不用心な気がします」
「あっ! ごめんね。もしかして、迷惑だった?」
アネットは少々誤解をしているようだ。そんなことはないと、アッシュはかぶりを振る。
「いえ! 迷惑とかじゃないです。ですけど、こういう風に誰かを招くのは気をつけた方がいいかと」
「そっか、わかった。これからアッシュ以外の男の人を呼ばないようにするね」
「あの……僕はいいんですか?」
「うん。さっき、変な気は起こさないって自分で言ってたじゃない」
「まあ、そうですけど…………」
警戒されていない。それはやはりアネットの危機感が薄いからか、それとも自分が異性として見られていないからか。もし後者かもしれないと思うと、がっかりしてしまう自分がいるのにアッシュは気づいた。
——それなら、少し確かめてみようか。
アッシュはふと強気になり、資料を二人で片付けているのに乗じて、ほんの指先だけ、アネットの柔い手に触れてみた。
「あっ! ごめんね」
「いえ、僕の方こそ」
謝罪しつつもアネットの方を見やると、アネットの頬が少し染まり、視線もちょっと反らしているように見えた。反応を見て、どうやら一応は男だと見られているらしいと安堵する。
「……あの、アッシュ。確かにアッシュの言う通りだね。ちょっと、こういうことがあると、恥ずかしいかも……」
「そうですね、僕もちょっと照れちゃいます」
「でもアッシュなら、また天幕に来てもいいよ。あなたがいればすごく助かっちゃうし!」
「わかりました。君の助けになるのなら、また来ます」
資料の整理を終えた二人は、本棚に資料を戻してから別れた。アッシュの指先に残るのは、わずかに触れたアネットの手の感触と、「アッシュなら、また天幕に来てもいいよ」という言葉。それが何を意味するのか、はたまた何も意味を持たないのか、今のアッシュには判断することができなかった。
〈了〉