モンドの豊かな草木の葉を撃つ雨を縫って白い霞が辺りを漂っている。
騎士団の若い見回団員はそれに足をもつれさせながらもその場を退くことはしなかった。
濡れた服に体温を取られ足先は悴んでいたとしてもそれが自分一人だけではなく、しかも上司がその冷飄のど真ん中にいるのなら、いくら自由の国だとしても憚られた。
白煙が霧散すると無情な氷の塊が地面にいくつも転がっているのが見え、騎兵隊長のにこりと人当たりのいい笑顔が現れた。
「助かりましたガイア隊長!ありがとうございます。」
「偶々通りかかってよかったよ。」
「はい。以後気をつけます。」
当たり障りのない会話は負い目のある若年の隊員にとってはありがたいものだった。騎兵隊長が気遣っての行動なのかは定かではないが、未だ雨にも溶かされない氷塊を尻目に雨雲へと視線を投げた。
「…最近妙に寒いな」
「雨が多いですね…あ、それで助けてくれたんですか?」
「なんだ人聞きの悪い奴だ」
ガイアは思わず真相に辿り着いた団員をあははと笑って流した。
しかしその目線は振れる灰色の空へと向けられたままだった。
(もしかして…)
「すみません。蒲公英酒が出てなくて午後の死も作れないんだ。」
「ははは」
死んだ目で予感が的中したことを喜ぶ。
まさか、そんな。この国で蒲公英酒がなくなることがあるか?しかもモンド一の酒造量と蔵を持つワイナリーの店だぞ。可能性が高いのは飲み干された。だ。
「聞いてくれよガイアさん!ウチもまだできてないんだ。」
「今年は土が妙に冷たくて。どこの蔵も気温が上がらないんだ。どうも出荷が追いつかないだろうと思ってたらほんとに市場から消えちまったよ。」
「それは…皆大変だな。だが作ってるのはそんなすぐ無くなるような量じゃないだろ?誰か持ってるんじゃないのか?」
「ここら辺の蔵の在庫は全部アカツキワイナリーに締められてるからな。風の噂じゃどうやら余ってるのは国外の輸出分らしい。」
酒造の旦那達は我こそはとこの緊急事態を肴にビールやらワインを煽っている。そう、蒲公英酒がないなら他の酒を飲めばいいだろう。蔵の温度が上らないなど一大事に思えるが、長い歴史の中で尺たる痛手ではないのだろう。ガイアは下がったテンションのまま物分かりのいい頭でここぞとばかりにプレミアムをつけた蒲公英酒を国外に売り捌いている店主の姿を鮮明に思い描いた。
「そうか次の出荷はいつ頃になりそうなんだ?」
「そうだな〜。この様子だと味を試して問題がなければ2週間ぐらいか。」
テーブルの上をそうだそうだと相槌が飛び交う。
2週間か……。ほぼ毎夜寝酒のように午後の死を煽っていたガイアにとってあまりいい答えではなかった。
とりあえずとチャールズにワインを頼んだ。芳醇な香りでは逆に目が覚めるようで少し笑ってしまった。
濡れた外套をフックにかけどさりとカウンターに座る。
愛想の良いガイアさんにしては些か乱暴な足取りだったが、ドアをくぐった瞬間ホールライトに赤爛と艶めいた後ろ髪に眼を刺されれば、それまで装っていた軽やかさもも水の泡と消えた。
店のオーナーは律儀に軽いため息をつく。
「ご注文は」
「ああそうだな午後の死を」
ガイアは一つ頼むといよいよカウンターに肘をついて項垂れた。この店主とやり合うには素面ではきついんだが、出て行く気概も今は持ち合わせていない。
「最近動きが良いじゃないか。禁酒が効いてるんじゃないか。」
「そうだったか?いや皮肉か?」
突然投げられた言葉は意外なものだった。しかしすぐに思い当たると投げやりに言葉を返す。
「ふ、もしかしたら誰かさんの出番を奪ったかな。」
最近郊外巡回に勤めているのは確かだった。隊員は全員掻っ攫われたと言っても隊長職のガイアはもっぱら本部での策戦組みを得意にしていたが、ここ連日の雨模様とそれに託けた敵の白兵戦がモンド城付近で増えたことでガイアやエウルアの雨天を得意とする戦闘員は騎士団内の役回りとして臨時的に郊外勤務を任された。エウルアはもとより遊撃手として外回りが多いが、ほぼ独立遊軍と化してる彼女がチームプレイめいた指示に恨み辛みを持たないわけも無い。そんなこんなで仲良く野に解き放たれた。ガイアは持て余した鬱憤と天候への苛立ちからつい、うっかり真面目に討伐をしてしまった。ほぼ無意識のことだったので、まさか彼にまで伝わるとは思っていなかったが、騎士団の尻拭いを勝手にやってる男だ。手間が減ればわかるのだろう。
「!これ、」
「君が頼んだだろ。」
目の前に置かれたグラスから漂うのは紛れもない午後の死だった。
もはや感動すら覚えて手に取ってしまった。
「やっぱり持ってたんじゃないか」
「これはテスターで個人的に手元に置いていたものだ。人に飲ませるものじゃない」
「ん?まあいい。流石に大人しく御相伴に預かるさ。」
金色の液体はほのかに色を深めつんと鼻を抜けたアルコールは一瞬にして体を温めた。
「美味しい。成功だな。」
久しぶりだからだろうか。
頭を混ぜるような陶酔感はいつもより一層強く感じる。開いた喉元がじわりと汗ばむのを感じて、どっと疲れていたことを思い出した。
苦味もなく、辛くもなく、痛さもなくて、酔える。強い酒は他にあっても気持ちいい物ではなかった。
「旦那、おかわり…」
そういって先ほどと打って変わって機嫌よくグラスを傾けたが、ディルックはふいっと酒瓶を仕舞った。
「試供品は以上だガイアさん。」
「あーあモンド一の貴公子様のいう通りに。」
まだの十分量を残している瓶を下げられても文句はでなかった。これはガイアにとって良い出来事だった。久しぶりの強い香りに体が蒸気し最近煮詰まっていた勤務の疲れがどっと出る。うん一杯でも眠くなってきたな。これまでのルーティーンの様で反射的に微睡のだ。雨に打たれて冷えていた身体が熱いくらいだった。
目の前にいる男は妙にニヤニヤとした笑みを浮かべている。
それは誰にでも愛想の良いあの表情というよりは、悪戯な好奇心と下心を隠しきらない幼いものだった。
目線は何でもないですという様に二階席のまばらな客に向けられて白々しい。
棚から白ワインと蒲公英酒を取り出してシェイカーと共に並べた。窓のガラスは軽い雨の音を鳴らしている。
「ほら、」
「ありがとう旦那様」
ガイアは気取った顔でまるで奢られでもした様に得意げだ。自分で払う酒だろうと内心こき下ろすが、正面切れるほどでもない。
カウンターに体を預けステムをくるくると揺らす。
グラスに満ちた香りが嫌に広がって此方まで届いた。作っていた時でもこんなに広がらないのに磨かれたグラスで遊べば痛いほどに刺してくる。
早く飲めと言いかける直前にガイアはそっと唇を寄せた。
最近目立っていた犯罪集団が消えた。捕まった。郊外にいるヒルチャールや賊は未だ多く感じるだろうが面倒な敵は明らかに減っていた。戦闘の跡地を見れば誰がなんて直ぐわかる。個人蔵の蒲公英酒を出したのもほんの気まぐれだった。どうせ味見をしなければ意味がないしいいかと思ったのだ。
そして今日、モンド近くにある怪盗団の拠点が潰れていた。駐在している構成員が多くまだ手を出せていなかったところだった。そこがもぬけの空だった。その割に資料が放置されていて役立つのだけ押収してきた。
......兎に角、さっさと飲んで帰ってくれればそれでいいのだ。そんな震える手を見るために出したわけではない。
「ガイアさん調子が悪いなら帰った方がいい。」
「ご冗談を...。」
底に残った黄金の液体を見つめる。
開けた襟から流れるのは雨粒ではない。取り繕う様に漏れた含み笑いは鼻に抜けていて熱っぽい。
「まさか君、」
「いやいやこれぐらいで酔ってない」
「丁度いい今日はもう閉店だ。」
「またおかわりなしか?結構頑張ったんだけどな。」
「割に合わないなら結構。」
「つれないやつ。」
意外と粘らない酒好きは、見た目よりしっかりとした足取りで席を立った。
一瞬止んだと思われた雨は今日もまた黄昏の空に透けた。
「こら勝手に歩くんじゃない。」
ちょろりと駆け出そうとした襟を摘んで小雨が止むのを待つ。
「お兄ちゃんたちのせいでまた逃げちゃったじゃないか。」
ならず者にとって悪天は隠れ蓑になる。連日騒つくモンド郊外では目を凝らせばそれこそ風に溶けた綿毛の様に粗が出てくる。一々見て回るほど奇特ではないが、例えばいつもモンドの大掛橋にいる好好児がハトを追いかけしめしめと残党を高みの見物している所に現れた時は...どうだろうな。
これぐらいの雨なら抱えて走って帰ろうかとも思ったが、生憎辺りに散った己の氷のせいで冷え込んでいるし、まあまず大人しく抱えられてもくれなかった。
「ねえこんなに寒いのは神の目の因果ってやつだろ?」
「さて、それならお前さんがこれから風呂に入って暖まるのもその因果って言えるんじゃないか」
「あれ、ガイアさんと...トミーじゃないか!」
「お、旦那いい所に。」
運良く傘を持った農林夫が通りかかった。子供を見れば何となしに察したのだろう。隠しもせず笑ったあと顔を青くした。
「じゃあ一歩間違えば俺は此処で悪党とはちあってたってことじゃないか!」
「いや一歩ぐらいじゃ俺もいるさ。ところトミーを傘に入れてやってくれないか?」
「ガイアさん...!良い人だなあんた。よし今日は俺の奢りだ!」
「ふん?良い案だな。でも俺は騎士団に戻るから、気にせずやってなよ。」
「いやチャールズに言っておくから飲んでおいてくれ。坊主もなんか飲んで帰るか。」
「ジュースがいいかな」
気前の良い親父に少し気を良くしたのかトミーは大人しく傘に入って行った。
「珍しいなディルックの旦那。」
漸くでた驚嘆は連日カウンターに立つなんてという意味合いだった。
「ラッキーだなガイアさん。ディルックさんも今来て.......」
声をかけた男は途中でストンと机に落ちて寝息を立てた。
夜も深いこの時間に残っている客なんて未練がましく酔い潰れているか黙々と飲み続けている酒豪で、ホールは不思議と静かだ。
ディルックはチラリと眉尻を掲げ、勝って知ったる口でラベルレスの瓶を開けた。
言葉もないうちにそれが出された。いや彼を目にすればどうやっても強請ろうとするのでいいのだが。
「君に付いてたからな」
「だからって選ばせてくれないのか?」
「今日はもう店を閉める。それがラストオーダーだ。」
「ええ?それなら適当だけどさ」
折角(長い)仕事終わりに店まで来てるのだ。何かを期待しているわけではないがすぐ終わってしまうのはつまらない。
畳みかけたって勝ち目が薄いのは痛いほどわかっている。尖らせた唇をリムにつける。
このつるりとしたガラスを感じるたび一抹の不安が過ぎる。本当に今日は寝れるだろうかと。
思わずごくりと喉が鳴ると焼く様な痛みが中を流れた。
「あはは」
ずっと思ってたんだが度数が高くないか?なんてこいつに聞いたって仕方ない。それにこれを知っているのは自分だけだ。わけもわからないまま悦ばしているなんて皮肉に笑ってしまう。
「何か?」
「いや...お前の酒は美味しいよ。そうだな。何で貴公子様がいるのか、まさか戸締り当番じゃないだろ?」
「君には関係ない。」
「へえ。ま、教会で会議があったのは知ってるけどさ...。遅くまで余程有意義な時間だったんだろうな。」
「自分語りはやめたらどうだ」
可愛くないやつ。一杯しかない酒を多めに噛めば多少は愉快だろうか。
態と見せつけるように煽ればすこぶる機嫌が悪くなるのを感じた。
「みっともない飲み方をするな。」
「おいおい此処はお屋敷か何かか?」
ディルックの手が伸びてくる。何度も取られてたまるか。そうでなくてもこれは本当に貴重な一杯なのだから渡せない。咄嗟にグラスをふいと遠ざける。しかしディルックの手はそのまま眼前まで迫ると人差し指でゴツッと額を小突いた。
「うっ!!」
グラスを落とす前にカウンターに置き額を抱えた。
痛すぎる。まるで小槌か何かと錯覚しそうだ。デコピンなんてたかが知れてると思うだろう。しかしことコイツにおいては昔から戯れ合うのも一苦労だった。
「バカ。バカディルック。」
馬鹿みたいに熱い酒を飲んだ後で悶えたせいか、体が煮えるようだった。痛みで揺れる目で睨むと、ディルックはほんの少し動揺し居心地が悪そうに腕を組んだ。此奴がいつまでもこんな子供じみてるから、俺も引っ張られるんだ。
酒を奢ってくれた親父は、ジュースで子供の気を引いていたけれど、俺が此奴にあげれるものなんて...。
あのバルにシャワーがあればなと夢物語を考えながらどうにか寝る支度を済ませる。
長い髪はまだ湿っぽいがあたっていれば宵が醒めてしまう。時々はそうやって出勤時まで時間を潰すこともあるが今日は寝てしまいたい。
蒼い葉の香りがするオイルを髪に馴染ませ枕に伏せた。瞼の裏で風が草木を分けるのが浮かんだ。暖かい日差しが頭上を回って、その時だけ脇目も降らず走っている。真っ直ぐ駆け出した先には何かがある。俺は手を伸ばしてこちらを見てくれるのを期待している。思い返すのは苦しいのに酷く愛おしい。
それは祖国の希望だっただろうか。風に逃がされた星のかけらを持ち帰ったら、また夜空に浮かぶことができるのだろうか。
自分の笑みで微睡からほんのひと時戻る。
あの先にあるのが本当にそれならば、何も苦しい事などないじゃないか。
額がじわりと痛んだ。
朝日は清々しく、澄んだ空気に溶けていた。
「シスター。意外と変わりないじゃないか。」
「よく言うわね。」
まだ人も疎らな早朝でこのシスターが出ているのは神像の朝露を払うためではない。
彼女はこれから部屋に戻って昼まで寝るのだ。
「人事じゃないでしょ。」
「俺はまあ...酒なら一通り楽しめるさ。でもシスターは蒲公英酒が好きじゃないか。」
「だからそこら辺に転がっていたのを持って帰ったわ。やっぱり安酒は不味いわね。あんたは呑めないでしょうけど。」
「ははは。」
深く静かな声色は不満を漏らしたがやはり最初感じた通り好きな酒が無くともいつも通りだった。そこら辺とはどこの事かわからないが何となく、高級ワイナリーで舌を肥やし、あまつさえそこのオーナーに出荷前の酒をねだってる身を揶揄われているような気がしてガイアは明日を見遣る。
その先の階段から隊服をきっちり着込んだアイスブルーの頭が現れた。
「やあおはようエウルア」
「あら。二人ともご機嫌よう。」
「おはよう...。」
「眠そうね。」
普段酒場で顔を合わせる3人が朝の広場で立ち話とは何と健康的な光景だっただろうか。だが当の本人達は随分久しぶりな顔振だと足を止めたのだから、それ程モンドにとってアルコールとは神に愛された、縁のある飲み物だった。
「あんたはいいわよねビールであれだけ酔えるんだから...。」
「待ってくださるシスター。それは私への嘲笑かしら。この怨み覚えておくわ。」
ロサリアとガイアはほぼ無自覚に“わ”の口を合わせた。
「何だか忙しそうだけど行かなくて良いの?」
3人は教会の入り口を見やると開いた扉の奥で慌ただしく物を運んでいる様子が見えた。
「ああ、寄贈品の整理ね。まあ知ってると思うけど、要らないものばかり押し付けられて散々よ。坊ちゃんには感謝しないと」
「模造品と本物の鑑定をしたんでしょ?ご苦労様よね。」
「偽物はどうするんだ?」
「溶かして鉄にしろとか言ってたけど、質は悪くないからどうせまた同じように使われて堂々巡りよ。」
あははそれはまた、あいつの不満を抱くところだろうな。ならせめて懐の温かいファデュイにでも売り捌くか、と頬を撫でて思索した。
概ねこの話を広げたのもガイアがそうすると何処かでわかっていたのだろう。
隊員が見つけた宝物は全て騎士団が押収する。冒険者協会に所属していればその必要は無いが西風騎士団が支給している給料を鑑みればそう割りの良い話でもないのだ。隊員は時々自分が見つけた金品をこっそり持ち帰ることがあるが、それもよほど上手くやらなければならない。騎兵隊長のように。
遅い時間の割にがやがやと賑わいの余韻が残っている。何かあったかなとテーブルに近づけば顔見知りが上機嫌に迎え入れてくれた。
「ガイアさん。今日試飲会があってね。明日には出荷できるよ!」
屈託の無いその一文をどれだけ疑っても粗はでない。
「それは良かった。皆んな今回は一入だったろう。」
「でも先の暴風で収穫を速めた時に較べればなあ。」
ああ風に流されないように泣く泣く未だ固い葡萄を大急ぎで収穫したことがあった。良質なワイン蔵を営むモンドにとって悲惨を極めた現場だった。
命あってのモノだねというが、例え異変が治ったとしてもモンドにとっての詩練は続いている。
その年仕込んだワインは例えプロが集って対策したとしても通年の物より品質が劣るのは目に見えていた。だってモンドが酒に手を抜いたことなどない。その為ワイナリーは新しいワインだけではなく長期熟成させていたものや蒸留酒を多くラベリングして均衡を保ったのだ。多少ブランドに傷が付いたのは否めないがそれでもアカツキワイナリーだけは売り上げを落とすことは無かった。高額な納税をせしめる騎士団としては大変ありがたい記憶だ。
「あはは。プロだな。」
待ちに待った蒲公英酒の解禁日にモンドの人々は両手を上げて行きつけの酒場へと駆けこんだ。
はっきり言って今日は町中で「今日は休みます」の書き置きだらけで仕事になどなってなかった。
意外にも西風騎士団への問題の持ち込みは多く無かった。いや、これから多くなるのだろうが、皆んな今日だけは椅子から立ち上がって高台にある騎士団まで行こうとはしなかった。