のぼるひに 太陽の光がさんさんと降り注ぐような夏日でも、昼休みの図書室はひんやりと涼しいから好き。
早く教室に戻ろうと思っていたのに、もう予鈴が鳴りそう。新しいシリーズ本を読み始めるか悩んでいたら、すっかり遅くなっちゃった。
図書室を出ると、途端に鼻の先からぬるい空気に包まれる。教室に戻る頃には汗ばんでしまうだろうけど、新しい本を借りたワクワクで気にならない。
第一巻のつやつやとした表紙を撫でながら、下り階段の一段目に足をかける。そこで予鈴が鳴り始めた。いつもは静かな図書館近くの階段でさえ、賑やかな声が響き渡る。
はしゃぎ声と、階段を駆け上る足音がどんどん近づいてくる。ぶつからないように、本を抱きかかえて通路の外側に寄ったけれど、それでも、その子達と踊り場ですれ違うには、ぎりぎりの距離だった。
「あぶね!」
背の高い男の子が、すんでのところでわたしを避けて叫んだ。
足元を跳ねていったボールにびっくりして、ぎゅっと肩を竦めたわたしも、気づいたら男の子に釣られて、叫んでいた。
「危ないなぁ!」
はっとして見上げると、跳ねるボールを捕まえてこちらを振り向く男の子の、白色にした赤白帽子が目に入った。同じ学年の子じゃないから、高学年かもしれない。言い方が嫌だったのか、男の子はむすっとしている。
後から駆け上がってきたのも、その子の仲間らしかった。何があったのかという風にこちらを見ていても、男の子はお構い無しに言い返してくる。
「わかってるよ。 避けてやったんだからいいじゃん。 実際、何も無かったんだし。」
男の子の強い口調で、階段を上り下りする人たちはぴたりと足を止めた。
驚いた視線に囲まれて、逃げ場が無い。
顔が熱くなって、胸がドキドキする。
遠くで、誰かが先生を呼ぶ声が聞こえた。
確かに先生なら、と階段の先まで見渡すと、白帽子と体操着の隙間から、赤帽子が見えた。
持ち主の女の子は、レクの時間でいっしょに折り紙遊びをした一年生だった。折り鶴を包み込む、小さな両手のひらを思い出す。
ここは、そんな小さな子も使う階段なのに。
——もし、ぶつかってしまったら。
嫌な想像をしてしまって、居ても立ってもいられなくなる。
「避けられないことだってあるよ。 一年生にぶつかったら怪我させちゃうから、走っちゃダメだよ。」
男の子は、悔しそうにわたしを睨みつけた。言い返してしまったことを激しく後悔しながら、目を逸らして、何を言われるんだろうと構えていたけれど、男の子はそれ以上何も言わなかった。一段抜かしで階段を上っていき、仲間も黙って、でも、わざわざわたしの顔を覗き込んでから男の子の後を追った。
ずっと顔が熱いままだし、身体全体が揺れるほど胸がドキドキしていた。上へ上へと遠のく後ろ姿を見て、やっと息を大きく吸い込むことができた。
二人の姿が見えなくなったところで、お腹がぺたんこになるまで、ふーっと息を吐く。ゆっくりと歩みを始めたら、近くで様子を見ていた人たちや、怯えていた赤帽子の一年生も、階段の上り下りを再開した。少しずつ、いつも通りの階段が戻ってきた。
「あいつ知ってる、家めっちゃ近い。男と、手ェ繋いでた!」
階段の遠く上の方から聞こえるわざとらしい話し声に、わたしの足はまた止まってしまった。暑くて仕方ないのに、胸の奥だけはひやりと冷たい。
たった一人が、思い浮かんだ。
トウマくんだ。
トウマくんのことだ。
ダダダダ、と階段を駆け下りる音がして、今度は頭のてっぺんからはしゃぎ声がする。
「えッ! じゃあ彼氏~?」
「ラブラブじゃん!」
聞こえないふりをして、ふわふわと踏んだ心地のしない階段を、手すりに掴まりながら降りていく。
ずっと腕に抱えていた第一巻の表紙は、綺麗で温かさを感じる風景や、かわいい動物が気に入っていた。なのに今では、わたしの手汗を弾いて、じっとりとした気分の悪くなる雨が降っている。
「はづきちゃん、大丈夫?」
声をかけられて表紙から目を外すと、階段を下りた先に、同じクラスの友達が心配そうに立っていた。
「……教室、行こ。」
後ろは振り向けなかった。
まだ少しふわふわするけれど、隣に友達がいてくれるだけで、教室までの道のりは地に足が着いている感じがした。
遠くも感じなかった。トウマくんと手を繋ぐ帰り道が、あっという間なのと同じだ。
大好きなこくごの時間になっても、ふわふわは抜けない。受けるのを楽しみにしていた物語の授業は、全く頭に入ってこなかった。
気がつけば、トウマくんの事を考えている。
お隣に住むトウマくんは、ちょっとしたことがきっかけで鍵っ子のわたしを気にかけてくれるようになってから、今では一緒に遊ぶほど仲良しになった高校生のお兄さんだ。
お休みの日はどこへでも連れて行ってくれるし、どんな小さな出来事でもちゃんと話を聞いてくれる、優しいお兄さん。
もちろん、付き合ってなんかいない。トウマくんは彼氏じゃないけど、わたしにとっては身近で大切な人だった。車通りが多いからね、はぐれないようにね、とトウマくんが手を繋いでくれるのはいつものことで、でも、ラブラブとかそういう風に思われるなんて、考えたこともなかった。
——トウマくんは、わたしのことをどう思ってるんだろう。
みんながページをめくる音が教室に響いたから、慌てて後に続いた。弱虫な主人公を可哀想に思って、かわいがっているおじいさんの挿絵が目に入った。
トウマくんも、わたしが鍵っ子だから、お兄ちゃんの代わりをしてくれているのかな。
そう思うと、トウマくんが急に遠い存在に感じる。
赤白帽子。
茶化してくる高学年。
お兄ちゃん係のトウマくん。
なんか、嫌になっちゃうな。何度も思い出して、想像してしまう。目頭が熱くなってきたから、教科書を立てて顔を隠した。こくごの時間が終わるまで、綺麗で楽しい挿絵だけを眺めていよう。そうすれば、少しは気も紛れるよね。
ぱらりぱらりと、ページをめくる音ひとりぶんが教室に響いた。
嫌なことは、こくごの時間が終わってからも続いた。
「ねえ、本当に彼氏じゃないの?」
同じクラスでもあまり話をしたことが無い女子グループが、急に声をかけてきた。
さっきは大丈夫だった? から続く会話は、きっと、白帽子の男の子たちと同じことを考えている。どうしよう、聞かれてたんだ。
「ただの、お隣さん、だけど。」
「どういう人?」
「えっ……優しくて、いつも遊んでくれて、……でも。」
「え〜、それってもう。」
女の子は、ニヤニヤしながら取り巻きと顔を見合せている。
彼氏じゃないのに。
「カッコいい?」
「……わかんない。」
もう、何を考えても疲れる。トウマくんの優しい笑顔でさえも、思い浮かべると胸がドキドキして落ち着かない。
「ねぇ、今日の放課後さ、はづきちゃん家に行ってもいい?」
「……え?」
「お兄さん、いつもいるんでしょ? あたしも一緒に遊びたい!」
トウマくんにとって、わたしは何なのか。
この学校で、一番仲の良いわたしがわからないのに。勝手に決めつけては盛りあがってて、すごく、すごくモヤモヤする。
それでも、いちばんぐさりと胸に刺さったのは、その言葉だった。
わたしとトウマくんのあいだに、お父さんとお母さん以外の誰かがいるなんてこと、今まで無かったな。どこへ行くにも、わたしとトウマ君のふたりだった。
「もうやめなよ、はづきちゃん困ってる。」
「そんなこと言って本当はさ、みんなも気になってるでしょ?」
「……でも、はづきちゃんのお母さんと、お兄さんが良いよって言わないと……。」
友達からの助け舟で、断る口実を思いつく。
「お、お母さん、夜遅くにならないと帰ってこないから、今日は聞けないや。」
「……じゃあ、明日! 明日はどうか、聞いてきてね。」
女子グループがやっと席に戻っていったというのに、庇ってくれた友達にありがとうを伝え忘れてしまった。これからのことで、頭がいっぱいになっていた。
お母さんは、良いよって言うだろうし。
優しいお兄ちゃんのトウマくんも、きっと、会っても良いよって言うんだろうな。
……わたしは、なんでこんなに、会っちゃダメってことにしたいんだろう。
それより、今日の放課後はどうしよう。
いつもの公園で、トウマくんが待っている。