届かなかった一枚診療所からほど近い場所には、村の掲示板が存在する。
いつ頃作られたかははっきりしないが、村民達は掲示板での交流を大いに楽しんでいた。
宴会の誘いや悩み相談まで、何でも書き込めて自由に返信ができる。誰が決めたわけでもなく、人の温かさが交流の礎となり、自然発生的にこの形式となったそう。
村で生活して数年になる富永は、往診の帰りにふと掲示板の前で足を止めた。
カラフルな付箋が、村のお知らせを覆い尽くさんばかりに貼られていた。一番隅にあるが大きな存在感を放つ付箋に目をやる。
"来月いよいよ高校受験です!頑張ります!"
"頑張れよー" "絶対合格!"
"村のみんなで応援してるよ!ファイト!"
応援のメッセージで周囲が埋め尽くされていた。名前が書かれていないが、子供が少ない村では、誰が書いたものかすぐに予想がつく。書き込み主の顔を思い浮かべながら、皆応援の気持ちを伝えているのだ。
うんうん、顔が見えないけどこういう交流もありだよね、そう思って他の付箋にも目をやる。
"久しぶりに帰省しました。村も家族も、ずっと変わらないでいてほしいな。"
"いつでも帰ってくるんだよ"
"次も盛大に宴会してやるからな!"
"彼女にフラれた"
"酒でも飲もう"
"つらいなあ"
"旦那が高血圧の薬を飲み忘れる みんなからも言ってやってよ"
"任せろ!" "わかったって 飲みますよ"
"高血圧のリスクを理解していないようだ
次はきつく言っておこう"
あ、これはKの字だ。Kも書くことあるんだなあ、富永は意外に思った。
富永は知らなかったが、Kという男は掲示板の書き込みから異常を見抜き、治療に繋げたことがある。勿論毎日見ているし、必要があれば書き込むこともある。
せっかくだし試しに何か書いてみよう、胸ポケットからペンを取り出し、付箋に記入していく。
"すっかり冬ですね みなさん体に気をつけてくださいね"
ありきたり?初めて書くんだしまずはこのぐらいがちょうどいい、富永は頷きながら診療所へ歩いていった。誰かが反応をくれるのを期待しながら。
2日が経った頃、富永は掲示板の前で頭を抱えたい気持ちでいっぱいになった。何故かって?掲示板を見れば一目瞭然だ。
"すっかり冬ですね みなさん体に気をつけてくださいね"
"ありがとね" "富永先生もね"
"↑富永先生が初めて書いた ずっと残しておけ"
"みかん持っていくから皆で食べて"
"これからもいっぱい書いてってください"など
「め、目立ってる……」
何気なく書いたはずなのに、誰が書いたかバレているうえ想定の5倍くらいの反応が来ている。恥ずかしさに耳がやや熱くなった。
おまけに付箋の下の方に小さく永久掲載とまで書かれていた。どうせならもっとちゃんと考えて書くべきだったなぁ、なんて思いながら視線を下に移す。一枚の付箋が目に止まる。
「これって……」
よく見慣れた、整った字でこう書かれていた。
"お互い健康でいよう"
Kだ!富永はすっかり嬉しい気持ちになった。滅多に書かなさそうな人がこんな他愛もない書き込みに乗ってくれるなんて。書いてよかったなあ、富永はご機嫌でペンを取り出し、付箋の下の方にこれも残しておいてください、と書いて掲示板を後にした。
それから富永が掲示板に書き込む度、同じ人物からの返事がすぐにつけられた。富永は掲示板を見ることが日課になり、立ち寄る度に柔らかい笑みを浮かべていた。
二人の関係性に変化があっても、それは続けられた。
"今日は街でお寿司を食べました"
"また一緒に行こうか"
"最近涼しくなって過ごしやすくなりましたね"
"そうだな そろそろ扇風機をしまおう"
"宴会で食べ過ぎて胃もたれ"
"食べてすぐ寝るな"
"好きな人に気持ちをどう伝えたらいいんだろう(あえて丸字で書いてある)"
"ありのまま伝えればいい きっと伝わる(文字がやや斜めになっている)"
"恋が叶ったんです(あえて丸字で書いてある)"
"俺もだ"
"↗︎K先生に恋人ができたぞ!"
"お赤飯炊こうかしら" "酒持ってくぞ"
"めでたいね" "相手は?"
"絶対Kが返事書くべきじゃなかったですよね"
"すまない"
"みんなで食事できるって幸せですよね"
"だからと言って食べ過ぎた 気をつけろ"
"筋肉に憧れたので筋トレ今日から頑張ります!"
"三日坊主"
"1日で辞めました 目標が大きすぎたので"
"早いもので村に来て7年になりました これからもよろしくお願いします"
"これからもよろしく 信頼している"
"ちょっと実家に顔出そうかなぁ うーん…"
"家族に顔を見せてくるといい"
最後の返事を、富永が読む事は無かった。
富永が村を出て行く直前まで、このやり取りは続いた。
それから10年近い年月が流れた。
診療所の自室の引き出しから、一人はあまり使われていない手帳を取り出す。取り出して、愛おしそうに手帳の表紙を撫でた。
一人は富永とのやりとりを、付箋ごと手帳に保存していた。色褪せない、大切な思い出として仕舞っておきたかった。どんな些細なやりとりでさえも。
それは間違いなく、お互いにとって大切な日常のひとつだった。会話とは違う、穏やかに時間の流れるやりとり。
自分がこれほどまで楽しみにしていたとは、あの日までは気が付かなかった。
一人は少しため息をつき、付箋を机から一枚手に取り、手早く記入していく。掲示板に貼るつもりは毛頭ない。手帳の最後のページに貼り付けた。
"いつでも顔を見せにくるといい"
それは願いだった。