それはきっと切符診療所にはビデオカメラがあった。
数年前、一也がこちらで生活するようになった頃に富永が買ってきたものだ。
「お母さんの為にいっぱい撮りましょうよ!子供が成長するのは早いんですから!」富永がそう熱弁したのを、一人は今でも覚えている。
運動会、発表会、誕生日会、イベント毎に撮影をした。そしてそれらをDVDに保存し、手紙と共に一也の実家に送っていた。
しかし、一也が成長するにつれ、撮影の機会がだんだんと減っていった。中学3年生になる頃には、ビデオカメラの役目はほとんど無くなってしまっていた。年に数回光が差す引き出しの中で、大切に仕舞われていた。
ところがある日、富永はビデオカメラをテーブルに置き、一人に向き合ってこう言った。
「10年後のお互いにビデオレターでも送りましょうよ」
まだまだ使えるんだし、と。
一人は思わぬ提案にやや驚いたがすぐに提案に乗った。大人になって思い出を残すのも悪くない、と。富永の顔がぱっと明るくなる。
「へへ、こういうの一回でいいからやってみたかったんですよねぇ」
照れ臭そうに笑いながら、メモリーを差し込む。
10年後までの秘密。撮影は、どちらかが外出している際にこっそり行われた。
あれから10年、まだ暑さが残る9月の昼下がり。
一人は引き出しを開け、その奥からあるものを取り出しテーブルに置いた。大切そうに表面に触れ、柔らかい眼差しを向ける。
やや重みのある封筒。そこには大きく"2020年9月以降に開けること"と書いてある。富永の字だ。
一人は封筒を開けずとも中身がわかる。2枚のDVDが入っている、と。
あれから10年の年月が流れた。
世界や身の回りで様々な事が起きて、診療所も大きく変化した。その変化に思いを馳せずにはいられない。
10年前の今日、封筒を二人で大切に仕舞い込んだことを一人ははっきり覚えている。
「10年か、長いなあ。ちゃんと覚えていてくださいね?」「ああ、約束しよう」「絶対ですよ!」
そんな会話をした。
手を伸ばせば触れられるくらい、その時の富永の笑顔が目に焼き付いている。
だが、隣には誰もいない。
一人は少しため息をついてDVDが1枚入ったケースを取り出す。"10年後のKへ"と書かれていた。
DVDを取り出し、パソコンのDVDドライブに挿入する。
再生ボタンにカーソルを合わせる。
10年前の自分がずっと気になっていた中身、待ち望んでいた中身。期待が高まる。
しかし、これを見ることで何かが変わってしまうかもしれない、そんな不安も僅かにあった。
手に力がこもる。必要なのはあとほんの少しの勇気。あの時の富永の笑顔を思い出す。
ああ、10年経っても背中を押してくれるのだな。
再生ボタンを押した。
『2020年のK!こんにちは!元気ですか?』
ああ、元気だ。
『えーと、2020年って、想像つきませんね……。Kもオレも何してるんだろ……。まだ一緒にいるのかな?うーん、多分そうかな!』
そうはならなかった。この時の富永が聞いたら残念に思うだろうか。
『10年経てばきっとオレも立派な医者になってますよね?そうですよね?Kに迷惑かけちゃうこともあるかもしれませんけど……』
ああ、立派な医者になった。自信を持ってそう言おう。
『……K。ずっと隠してきたことがあるんです、あなたに』
『あなたのことがずっと好きです。今伝えられないから、こうして伝えるしかないんです。片想いですよね、きっと。多分、10年経ってもあなたのことが好きだという自信があります』
知っている。酒の席で聞いた。村を出て行って半年後に。
『うわー言っちゃった!墓まで持っていくつもりだったのに!情けない男だって笑ってください……』
笑うもんか。
『とにかく、この気持ちだけは伝えておきます。その後のあなたの返答は強制しません。見なかったことにしてもいいです』
心配ない。俺も好きだとあの時伝えた。
『ああ、あと、手紙を隠したのでそれも見てくださいね。場所はケースの中のメモに書いてあります!それでは、10年前の富永でした!』
『うーん……、これでいいのかな』
富永が照れ臭そうな表情で席を立った後、画面外からカメラに手が伸びてきて、映像はそこで終わっていた。
一人は腕を組み、少しばかり考え事をした。
きっと忘れていないだろう、と。
ある日富永の元に、DVDが一枚届いた。
封筒から取り出しケースを見た瞬間、それが何なのか瞬時に理解した。
「K……」
ちょうど10年後。ちゃんと覚えていてくれたんだ、喜びが込み上げる。
定期的に食事の場で話題にしており、双方忘れるはずもなかった。何より、10年の間心待ちにしていたことだ。
あれから様々なことが起きた。
一番大きな変化は、Kとの関係が変化したことかな、と富永は言うだろう。
そして思い出されるのは村を出て半年後の食事の場。面と向かってぶつけるように思いを伝えた。
酒の勢いに任せて言ったようなものなので、富永は当時のことを思い出して今でも顔を赤くすることができる。はっきり覚えているからタチが悪い、と。
実は思いを初めて伝えたのはちょうど10年前。それが伝わったのはつい最近。あのビデオレターだ。
ビデオレターで何を言ったか富永はよく覚えていた。ある意味で二度恥ずかしくなる出来事だった。10年秘めておくはずだったのに、と。
複雑な思いで富永はケースからDVDを取り出す。
デッキに吸い込まれていくDVDを、緊張した面持ちで眺める。
一人がこのようなことをするのを、富永は正直想像できなかった。実際10年前にやっていることだが、全く内容が予想できない。息災か、の一言で終わるんじゃないの?と当時は思った。しかし、一緒に過ごすにつれ、愛に溢れた人間だとよく理解できた。もしかしたら2時間くらいあるんじゃ?という別の心配が湧き出てくる。
期待を込めて再生をした。
よく見知った診療所の一室を背景に座る一人を見て、ひどく胸が高鳴った。
『10年後の富永、見ているか』
見てますよ〜。このKちょっと若くて可愛いなあ。
『今は2010年。遠い過去と捉えるか、つい最近のことと捉えるかは自由だ。俺は変わらずここにいる』
環境が変わったし遠い過去かもしれない。でも最近のことのように思い出せるけど。どっちでもいいか。
『……そしてお前は、もうここにはいないのだろう。何故か、そんな気がしてしまう』
どうして。
わかっていたんですか、Kは。こうなることを。
『ここを離れて立派な医者になっているのだろう。今でも立派な医者だが、更に立派になった、そう確信している。よく頑張ったな』
『院長、そう呼んだほうがいいのかもしれんな』
そんな悲しそうな顔しないで。いつでも話せるから。……これ本当に10年前?
『富永のいない生活は、正直に言うと想像できない。きっと、俺は何度も寂しく感じるだろう。何度も会いたくなるだろう。……意外に思うか?』
知ってます。かなり頻繁に会うこともあるし。あなたからだって電話かけてくるでしょ。
『……お前が大切だ。それは10年経ってもきっと変わらない。気が向いたら、連絡をしてくれ』
10年後のあなたにとても大切にされてますよ。これ以上ないくらい。
『それと、何か手紙を隠しているだろう。10年後に見ることにする』
げっ、気付かれてる。本当に見てないよね?見ちゃダメだからね?
『また、すぐに会いにいくだろう』
会いたいなあ。いつでも待ってますから。
映像はそこで終わった。
ほんの数秒にも満たない微笑みが、涙で滲んで見えた。
溢れた涙がシャツに染みを作ることなんて、さして気にならない。
10年という月日の重さと、共に過ごした8年間への愛執が、ひどく心を揺らした。
大切な日々だった、二人は自信を持ってそう言うだろう。
あの日を境に、その日常は思い出となった。
村で過ごした時間より村を出て過ごした時間が大きくなろうが、きっと変わらないだろう。
もう戻れない過去に、時々手を伸ばして触れたくなる。
「変わってないんだなあ、Kの気持ちって」
椅子に凭れかかって天を仰ぎ見る。
傍らから小さな貝殻の入った瓶を取り出し、光に透かしてみた。
富永は改めて気付かされた、こんなにも愛情深く先を見通せる人間はなかなかいない、と。
その証拠に、封筒には手紙が2通同封されていた。
Kへ
神代一人さんへって書いた方がよかったのかもしれないけど、ちょっと気恥ずかしいのでKって呼ばせてください。
これはあなたへの想いを書いた手紙です。嫌だったら途中で読むのをやめても構いません。
一也君が来た時に3人で海に行きましたよね。
楽しかったのをよく覚えています。
多分一生の思い出になると思います。
そこであなたへの気持ちが変わってしまいました。
潮風でなびくあなたの髪を綺麗だと思いました。はしゃぐ僕達を見て笑うあなたを愛しく思ってしまいました。家族になった気分だと勝手に嬉しくなってしまいました。
海で綺麗な貝殻を集めましたよね。
実は瓶に入れてお守りにしてるんです。
時々取り出して勇気をもらってます。
きっとそれを10年後も大切にしています。
それをひとつ、この封筒に入れておきます。
それが割れていなかったら、きっとこの思いが叶う気がするんです。
貝殻が割れていないか確かめに来ないか。